衝動解放活動

楽しい時間はあっという間に終わる。

本当に同じ尺を使っているのかと疑いたくなるほど、楽しい時とそうでない時の体感差が激しい。それはもちろん集中しているか否か、脳内のナンチャラ成分が分泌されているか否かなどと言ってしまえばそれだけの話なのだが、どうもその説明では素直に納得できない。

まだ私が日本にいた頃、銀色の髪をした恐ろしい人の部屋に閉じ込められたことがある。『閉じ込められた』と言うと表現が強くなってしまうが、拉致や監禁ではなく、軟禁だ。

「お前、エヴァンゲリオン知ってるか?」

地元の駅で数年ぶりに再会してしまった恐ろしい中学の同級生は、銀色の髪をしていた。

「お前、エヴァンゲリオン知ってるか?」

私がその時、彼にどう返答したのか覚えていないが、しばらくして何故に何故だか私の体はその銀髪さんが住むアパートにテレポートしていた。時期が夏だったので、酷く蒸し暑い部屋だったことを記憶している。

鬼のようだった中学時代の銀髪さんと、新世紀エヴァンゲリオンとの接点を見出せないまま固まっていると、何の説明もなくビデオデッキにテープが差し込まれた。

「おもしろいから観ろよ」

銀髪の鬼はそんな感じの言葉を口にして、私の横に座った。

残酷な天使のように

少年よ神話になれ

早送り機能が壊れていたのか、もしくはアニメの主題歌に惚れ込んでいたのかは定かでないが、銀髪鬼はそのオープニングテーマを決して飛ばさなかった。

例えどんなに素晴らしいものであっても、受け取る状況によってその印象は大きく変化する。

まだ外が明るいうちに閉じ込められ、辺りが完全に暗くなるまでの間、蒸し暑い部屋で延々と主題歌付きの映像を観させられたせいで、エヴァンゲリオンのイメージがとんでもないものになってしまった。

終わりなきスパイラルのように繰り返された『残酷な天使テーゼ』、そのタイトルが全てを表しているかのような状況で、無言の圧力を感じながら碇シンジの憂鬱と共に時間を過ごした。

今考えても、何故あの時あの蒸し暑い部屋で強制的にエヴァンゲリオンを視聴させられたのか分からない。彼が夢中になった作品の伝道活動だったのかもしれないが、もしそうなら逆効果であり大失敗だ。

私が彼の部屋に軟禁されている間、その場に流れる時間の進みがすさまじく遅かった。アニメの30分枠があれほどまでに長く感じたのは、後にも先にもあの蒸し暑い部屋で観たエヴァンゲリオンだけだった。

 

1日を構成する時間は24で区切られていて、その24の内訳が60だということに異論はない。そして、それらの数が毎日変わらず平等に私たちに配られていることも理解している。だがその事実から数字という概念を取っ払うと、時間は平等なものではなくなるはずだ。……そう、なくなるはずだと言い切りたいのだが、実際のところはよく分からない。

ただ、「1日は24時間で1年は365日だから絶対的に時間は平等!」という説明よりも、「時間は状況次第で速くも遅くもなるから、24時間じゃないかもしれないし、365日でもないかもしれないので平等とは言えない」と説かれた方が腑に落ちるのだ。

楽しい時間とそうでない時間が選択肢としてあるのなら、もちろん楽しい時間を選んで生きていきたい。気が付いたら1、2時間などパッと過ぎてしまっているあの感覚だ。

年を取ったら落ち着くものだ、などと言う定説に賛同する気はないが、年を取ることでいわゆる「あの頃」におこなっていた衝動解放活動の回数は確実に減ってしまった。ここで言う衝動解放活動とは、心が躍る行為であり、もっと平たく表現すると「楽しくて好きで仕方のないこと」である。他の誰かのためではなく、湧き上がる思いを自ら肩に担いで走り回る衝動解放活動。私の頭の中にある「これぞ」という感覚を、さかもツイン id:sakamotwinのねねさんが記事に書いておられた。

『火曜サスペンスごっこ』と銘打たれた彼女の活動は、私が思い描く衝動解放活動そのものだった。ねねさんが取り組んでいる『火曜サスペンスごっこ』とは如何なるものかは、以下の写真で確認して頂きたい。

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1枚目は写真自体が話してくれているので、何の説明もいらない。最初の写真も素敵なのだが、私のお気に入りは2枚目だ。誰もいない波止場、遠くに見える工場の夜景、その光が映った日没後の海、といった火曜サスペンス的な要素が詰め込まれたザ・火サス的なフォトグラフで、「何ともまぁ」という気分になった。

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学生時代50m12秒台の栄光は波より遅いダッシュとして今も私のなかに輝き続ける。

適切に表現できないのだが記事内にある上記のフレーズを目にした時、昔大好きだった炭酸飲料が頭に浮かんだ。「そうだよな、やっぱライフガードだよな」という感情が弾け、液晶画面に向かって何度も頷いた。

上に貼ったリンクの見出しにもあるように、大きな声を出して走り回ったり笑ったりしたほうがいいと、個人的にも強く思う。それは彼女のように実際に体を動かしても、体ではなく心を動かしてもどちらでも良いのだと考えている。

フワッとしたイメージが景色になり、映像に変わって色がつく。そこに音と匂いが入って会話が始まると「よしっ!」となる。胸が高鳴ると楽しい。頭の中で生まれた世界がオンギャーと歩き出した気がして嬉しくなる。その感覚は小説を書いてる時や自分の街を作ってる時だったり、シャワーを浴びている最中に現れるのだが、忙しさにかまけているとすぐに何処かへ行ってしまう。

COVID-19が日常を変える半年ほど前、私は仕事を通して自分の承認欲求を満たそうと決めて昇進のオファーを受けた。その決断が自分の周りにかかるモヤを吹き飛ばすと考えていたからだ。書く時間を犠牲にしてでも、心の隙間を欲で埋めれば総合的に見てプラスに働くものだと思っていた。

でも、違った。私の選択は間違っていた。

心と距離が離れた場所で承認欲求を満たそうとすると、穴の空いた袋にビー玉を詰め込んでいる気分になる。どれだけ玉を入れたところで、袋が満たされることはない。

(これはマズイことになった)

底が抜けた袋を手にしていたことに気付き、慌てて床に散らばったビー玉を回収していると、予告もなしに空からパンデミックが降ってきた。

(とんでもねぇことになった)

穴の空いた袋を手放し、必死に集めたビー玉を放り投げた私は、とんでもねぇことになった社会に対応するため、とんでもねぇ空気になっている会社の会議に参加した。

『マネージャー陣は基本継続して勤務』という有無を言わせない方針が決まり、訳が分からぬまま消毒グッズに囲まれる日々が始まったのが3月中旬。その少し前に、カナダ政府が4ヶ月を上限に月々2000ドルを個人に支給するという政策を耳にしていた私は、半年前に自分が下した決断を深く後悔した。

4ヶ月間の合計労働時間=0hrs

4ヶ月間の合計不労収入=$8000

上の数字は夢だ。言うなれば、エンジェルナンバーだ。

あのまま社員でいたら、4ヶ月間書き放題だったじゃないか。つまり、昼過ぎに起きてチョコが付着したビスケットをかじりながらコーヒーを飲み、好き放題猫んズと戯れてラーメンなどを食い、気になる事件を調べた後にストリートビューで多摩ニュータウンに舞い降りることができたわけだ。

半年前の自分が享受できたであろう生活が頭をかすめ、「何やってんだよ!」という感情が腹の底から湧き上がった。

そもそも動悸が不純だった。決して承認欲求が悪い訳じゃない。対象をすり替えたのがいけなかった。エリーゼを強く欲してる時に、ルマンドやバームロールでは替えがきかない。ルマンドもバームロールも美味しいのだが、そういう問題ではないのだ。それに、承認欲求と衝動解放活動を天秤にかけること自体おかしい。このふたつは全く別物であって比べる対象ではない。たけのこの里を食べたらきのこの山が食べたくなるように、両者の関係が「衝動解放活動ー承認欲求」と付随するのなら分かる、でもmeijiの二枚看板を計りにかけちゃいけない。まさに、「何やってんだよ!」だ。

今回の騒動しかり、自分の昇進の件しかり、物事は何か意味があって起こっているのだと信じている。本当の本当など分からないが、ただそう信じている。自分の身に起こったことを全て都合よく捉えるならば、このきっかけがなければ承認欲求と衝動解放活動の違いをこういった形で意識することができなかったのかもしれない。今の仕事を辞める気はないが、今後何かの決断を下す時は衝動解放活動を最優先に考えようと心に決めた。食べていくことの次に大事なことは、嬉しくて楽しいことだ。嬉しくて楽しい時間が続くと、承認欲求は影をひそめる。きっと、使う脳みそが違うのだろう。

 

どうせなら、嬉しく生きる。

どうせなら、好きに咲く。

 

楽しくて好きで仕方がないから、私は書いているんだ。

 

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