赤い爪

雨が降っても開かない傘

帰れない火曜日に石を投げる

 

肌色が透ける磨りガラス

必死に動いてバカみたいだね

 

赤い靴下に真っ赤な下着

足の爪まで朱色に染まった

 

欲望は美しいって言われたって

子供に分かるわけないだろって

 

チューインガムで貼り付けた似顔絵

ペラペラの薄さでヘラヘラ笑う

鉛筆を回して尖らせた感情

突き刺した紙の目がこっちを見てんだ

 

消えない影は伸びた髪の毛

しつこく絡んで首を絞める

 

目を閉じても寝れない真夜中

苦しくなったら鏡を覗きな

 

目を背けなきゃ会えるから

あん時の自分に会えるから

 

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腕を伸ばして手を握ってくれ
自分を救えるのは自分だけだ

 

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Nobody Knows

Nobody Knows

 

閉所恐怖症の人はマスクができない。

でもそんなことは、誰も知らない。

先端恐怖症の人は注射が怖くて仕方がない。

でもそんなことは、誰も知らない。

 

普通の社会は普通に進み、新しい生活様式を強要する。

閉じ込められた苦しさや、針で刺された痛みなど、誰も知らない。

 

同じ色の服を着た正義の行進。

ファッションマスクで顔を隠した正義の行進。

 

「普通」という怪物が街を牛耳る。

彼らは至る所に存在し、「普通」以外を監視している。

通常、彼らは優しい。それが彼らの普通だからだ。

しかし、一歩「普通」から外れると、彼らは牙を剥き、異分子を追い詰める。

そんな彼らと上手く付き合う方法はひとつ、出来る限り「普通」に振る舞うことだ。

 

Nobody Knows

 

あの映画の公開から約16年経った。

今、目の前に何が見える?

どういった世界を生きてる?

 

Nobody Knows

誰も知らない

 

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***

 

No matter what anyone says, I'm gonna live my life the way I want to.

 

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***

 

1998

「おい、おいっ! シンスケ! ちょっと何やってんだよ! こっち!」

「おぉ」

「『おぉ』じゃねーよ。遅れてきて何ボォーッとしてんだよ」

「ケンジ、お前、元気か?」

「は? 何だそれ? そんなことより、他に何か言うことあんだろ。ほら、昨日のやつ。ちゃんと聴いてたんだろ?」

「お前が元気そうで、本当に良かったよ」

「だから何なんだよそれ。気持ちわりーな。あ、あれか? 俺が先に『殿堂入り』して悔しいんだろ? いやー、気持ちは分かるよ。分かるけど、そこは大人になれって。俺だってお前のが先に読まれた時はマジかって思ったけど、ちゃんとファンタ買って祝ってやったろ? でもさ、昨日のやつ、あれマジで面白かったろ? 田中なんか爆笑してたもんな。あの瞬間はテンション上がったなー。ラジオ越しに空気が伝わってくるっていうかさ、おぉ! ていう感じが分かったもんね」

「あぁ、『爆笑問題カーボーイ』のやつか。お前あれ、本当に喜んでたもんなぁ」

「『喜んでた』って何だよ? 勝手に過去にすんなよ。俺は今喜んでんの。ナウだよナウ。分かってねーなー」

「ごめん、ごめん。悪かった。そうだな。うん、おめでとう。お前が喜んでるのを見て、俺もすっごい嬉しいよ」

「シンスケ、お前、何か裏があんだろ。何だ? あ、ダメだぞ、金なら返せねーぞ。バイト代入るの来週だからな。疑ってんなら財布見ろ。ほら、500円ちょっとしか入ってないだろ」

「別に裏なんかねぇよ。ていうか、お前、そういうとこ相変わらずだなぁ」

「何だその返し? 久しぶりに会った親戚のおじさんみてーだな。おい、親戚のおじさん気取るなら、何か奢ってくれよ。何かご馳走してくれてこその、親戚のおじさんだからな」

「あぁ、いいよ。殿堂入りのお祝いもあるし、何でも好きなの買ってやるよ」

「え! マジで? それマジで言ってんの? もう聞いちゃったから撤回できねーぞ」

「撤回なんかしねぇって。いいよ、何がいい?」

「はぁ? どうしたお前? 暑さで頭おかしくなったんじゃねーの? え、本当にどうした? マジで怖いんだけど」

「反応が大袈裟だよ」

「いやいやいや、だってお前だよ? 腹空きまくってた俺に、チョコデニッシュをひと口もくれなかったお前だよ? ガストで山盛りポテトを独り占めした、血も涙もないお前だよ?」

「いつの話をしてんだよ」

「ついこの間の話だろーが!」

「分かった、分かった。今回はちゃんと買ってやるから、何がいいんだよ?」

「おいおい、マジでどうにかしちまったみてーだな。まぁいい。じゃあさ、JPS買ってよ。あの、タクちゃんの親父が吸ってるやつ。あれ、いっかい吸ってみたかったんだよね」

「JPSかぁ」

「この前、やっと売ってる自販機見つけたんだよ。つばき台の坂の上に薬局あるだろ? そこの裏にある酒屋。あそこだったら殆ど人こねーから、制服のまま買っても問題なさそうだしな」

「あれ、そういえばタクちゃんは? 今日こないのか?」

「彼女んとこだよ。一昨日も昨日も今日も彼女。あのクソヤロー、マジで集まり悪くなった。生意気にピッチなんか持ちやがって」

「彼女って、確か、クミちゃんだっけ?」

「クミちゃん? 誰だそれ? サトミって子だろ。青南高の。ほら、とんでもねー厚底ブーツ履いてる子。駅で何回か見かけたろ」

「あぁ、あっちの子か。茶髪のね」

「『だっちゅーの』の右側に似てる子だ。ていうか、『あっちの子』って何だ? あのクソヤロー、まさか二股でもかけてんのか? はぁ? ふざけんなって。まじで許せねー。おい、シンスケ、JPS買ったらブックオフ行こうぜ」

「ブックオフ?」

「先週あいつから借りた電気グルーヴのアルバムあるだろ、あれ売っちまおうぜ」

「最低だな、お前」

「当然だろ。二股かけた罰だ。それと、ルール破って童貞を捨てた罰でもある」

「完全な逆恨みだな」

「天誅だよ。天誅」

「意味分かんねぇよ。まぁ意味分かんねぇけど……やっぱり、お前はお前だな」

「何だそれ? 新手のなぞなぞか?」

「なぁ、ケンジ。本当に悪いんだけど、俺もう戻るわ」

「はぁ? 戻る? 何言ってんの? JPS買ってくれるって言ったじゃねーかよ」

「うん。だから、はい、これ。ちょっとデザイン違うけど、1000円は1000円だから自販機で使えるはずだ。これでJPS買ってくれ」

「え、何これ? 偽札? いやー、これは流石にマズいだろ」

「偽札じゃねぇよ。デザインは違うけど、本物だ。自販機で使うなら問題ねぇよ」

「えぇー、マジかよー。これ、めちゃくちゃ危ないやつじゃん」

「なぁケンジ、今から俺が言うこと、真面目に聞いてくれないか?」

「偽札渡すやつの話なんか真面目に聞けるかよ。じゃあよ、話は後で聞くから、これ本当に使えるか一緒に試しに行こうぜ。いやー、何かワクワクすんな」

「申し訳ないけど、俺は一緒に行けない。もう時間がないんだ。だからーー」

「あれか? また、あいつが家にくんのか? ひとんちのことだからどーこー言えねーけど、あんまし奴に関わんねー方がいいぞ。変な仕事に使われるだけだぞ。ヒロさんに探り入れたけど、いい噂は聞かねーよ。おばさんが入れ込んでんのは知ってんけど、いっかいちゃんと話してみた方がいいぞ」

「ケンジ、ありがとう。でも、そのことじゃないんだ」

「はぁ? 意味分かんねーよ。だったら何なんだよ」

「あのな、まず、お前が凄い心配してた恐怖の大王だけど、問題ない、来年になっても空からは何も降ってこないよ。安心しろ、1999年に世界は滅亡しない」

「は?」

「それで、こっからが大事な話だからちゃんと聞いてくれ。いいか、この1998年から2年経った後の2000年7月9日に、お前は緑奥市に行くことになる。ある人の家に頼まれた物を運ぶことになるんだ。いいか、2000年の7月9日だ。その日、絶対に頼まれた物を運ぶな。7月9日、お前は絶対にその人の家に行っちゃいけない」

「シンスケ、俺はお前が何をしたっていいと思ってる。除光液の匂いを嗅ごうが、何をしようが、それはお前の勝手だからな。でもな、絶対にクスリには手を出すな。おまえんちにくるようになった奴が、お前をどう脅そうと、何を強制しようと、絶対にそういったものに手を出しちゃいけない。最近ナカノさんとかが売ってる、ラッシュとかマジックマッシュルームもやめとけ。『合法だ』って言ってるけど、やべーって話を聞くから、手を出すな。友達として忠告する。もう手を出してるなら、今すぐ使うのをやめろ」

「ケンジ、いいかよく聞け、俺は正気だ。ちゃんとした頭でお前に話している。なぁ、頼むからちゃんと聞いてくれ。お前も俺のことを友達と思ってくれるなら、俺の言うことを必ず守ってくれ。2000年7月9日だ。それがどんなに断れない仕事でも、絶対に行くな。お前がその人にどんなに世話になってても、お前のケツを持っててくれてても、絶対に物を運んじゃいけない。絶対に、絶対にだ」

「……分かった。2000年7月9日な。よく分かんねーけど、分かったよ。だから、お前も約束を守れよ。今手元にあるやつは全部捨てろ。絶対に手を出すな、分かったな?」

「あぁ。分かったよ。でも、安心しろ。俺は何にも手を出してねぇよ」

「やってる奴に限ってそう言うんだよ」

「とにかく、俺はもう戻るけど、約束だからな」

「あ? 何だお前? 何やってんだ? 何でクソ暑いのにマスクなんかつけてんだ?」

「あぁ、馬鹿げてるだろ。馬鹿げてるけど、残念ながら、俺が戻る世界はこれをつけなきゃダメなんだ。クソ暑いのにな」

「あのさぁ、さっきからさ戻る戻るって言ってんけど、一体どこに戻るんだよ?」

「2020年」

「シンスケ、感謝しろよ。お前の頭が本格的におかしくなっても、俺が友達でいてやるからな。大変だと思うけど、いつか悪魔の誘惑を克服できる日がくるから。まぁとにかく、明日も集まりにこいよ。そんな状態だと、この先が心配だから俺が監視してやる」

「ケンジ、こうしてお前に会えて本当によかったよ。心の底から嬉しかった。お前が俺との約束を守って2000年7月9日を超えることができたら、その時は向こうの世界でまた会おう。大丈夫、今より世界がおかしくなってるけど、まだ笑えることが沢山あるから」

 

***

 

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衝動解放活動

前々回の記事でも触れたのだが、楽しい時間はあっという間に終わる。

本当に同じ尺を使っているのかと疑いたくなるほど、楽しい時とそうでない時の体感差が激しい。それはもちろん集中しているか否か、脳内のナンチャラ成分が分泌されているか否かなどと言ってしまえばそれだけの話なのだが、どうもその説明では素直に納得できない。

まだ私が日本にいた頃、銀色の髪をした恐ろしい人の部屋に閉じ込められたことがある。『閉じ込められた』と言うと表現が強くなってしまうが、拉致や監禁ではなく、軟禁だ。

「お前、エヴァンゲリオン知ってるか?」

地元の駅で数年ぶりに再会してしまった恐ろしい中学の同級生は、銀色の髪をしていた。

「お前、エヴァンゲリオン知ってるか?」

私がその時、彼にどう返答したのか覚えていないが、しばらくして何故に何故だか私の体はその銀髪さんが住むアパートにテレポートしていた。時期が夏だったので、酷く蒸し暑い部屋だったことを記憶している。

鬼のようだった中学時代の銀髪さんと、新世紀エヴァンゲリオンとの接点を見出せないまま固まっていると、何の説明もなくビデオデッキにテープが差し込まれた。

「おもしろいから観ろよ」

銀髪の鬼はそんな感じの言葉を口にして、私の横に座った。

残酷な天使のように

少年よ神話になれ

早送り機能が壊れていたのか、もしくはアニメの主題歌に惚れ込んでいたのかは定かでないが、銀髪鬼はそのオープニングテーマを決して飛ばさなかった。

例えどんなに素晴らしいものであっても、受け取る状況によってその印象は大きく変化する。

まだ外が明るいうちに閉じ込められ、辺りが完全に暗くなるまでの間、蒸し暑い部屋で延々と主題歌付きの映像を観させられたせいで、エヴァンゲリオンのイメージがとんでもないものになってしまった。

終わりなきスパイラルのように繰り返された『残酷な天使テーゼ』、そのタイトルが全てを表しているかのような状況で、無言の圧力を感じながら碇シンジの憂鬱と共に時間を過ごした。

今考えても、何故あの時あの蒸し暑い部屋で強制的にエヴァンゲリオンを視聴させられたのか分からない。彼が夢中になった作品の伝道活動だったのかもしれないが、もしそうなら逆効果であり大失敗だ。

私が彼の部屋に軟禁されている間、その場に流れる時間の進みがすさまじく遅かった。アニメの30分枠があれほどまでに長く感じたのは、後にも先にもあの蒸し暑い部屋で観たエヴァンゲリオンだけだった。

 

1日を構成する時間は24で区切られていて、その24の内訳が60だということに異論はない。そして、それらの数が毎日変わらず平等に私たちに配られていることも理解している。だがその事実から数字という概念を取っ払うと、時間は平等なものではなくなるはずだ。……そう、なくなるはずだと言い切りたいのだが、実際のところはよく分からない。

ただ、「1日は24時間で1年は365日だから絶対的に時間は平等!」という説明よりも、「時間は状況次第で速くも遅くもなるから、24時間じゃないかもしれないし、365日でもないかもしれないので平等とは言えない」と説かれた方が腑に落ちるのだ。

楽しい時間とそうでない時間が選択肢としてあるのなら、もちろん楽しい時間を選んで生きていきたい。気が付いたら1、2時間などパッと過ぎてしまっているあの感覚だ。

年を取ったら落ち着くものだ、などと言う定説に賛同する気はないが、年を取ることでいわゆる「あの頃」におこなっていた衝動解放活動の回数は確実に減ってしまった。ここで言う衝動解放活動とは、心が躍る行為であり、もっと平たく表現すると「楽しくて好きで仕方のないこと」である。他の誰かのためではなく、湧き上がる思いを自ら肩に担いで走り回る衝動解放活動。私の頭の中にある「これぞ」という感覚を、さかもツイン id:sakamotwinのねねさんが記事に書いておられた。

『火曜サスペンスごっこ』と銘打たれた彼女の活動は、私が思い描く衝動解放活動そのものだった。ねねさんが取り組んでいる『火曜サスペンスごっこ』とは如何なるものかは、以下の写真で確認して頂きたい。

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1枚目は写真自体が話してくれているので、何の説明もいらない。最初の写真も素敵なのだが、私のお気に入りは2枚目だ。誰もいない波止場、遠くに見える工場の夜景、その光が映った日没後の海、といった火曜サスペンス的な要素が詰め込まれたザ・火サス的なフォトグラフで、「何ともまぁ」という気分になった。

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学生時代50m12秒台の栄光は波より遅いダッシュとして今も私のなかに輝き続ける。

適切に表現できないのだが記事内にある上記のフレーズを目にした時、昔大好きだった炭酸飲料が頭に浮かんだ。「そうだよな、やっぱライフガードだよな」という感情が弾け、液晶画面に向かって何度も頷いた。

上に貼ったリンクの見出しにもあるように、大きな声を出して走り回ったり笑ったりしたほうがいいと、個人的にも強く思う。それは彼女のように実際に体を動かしても、体ではなく心を動かしてもどちらでも良いのだと考えている。

フワッとしたイメージが景色になり、映像に変わって色がつく。そこに音と匂いが入って会話が始まると「よしっ!」となる。胸が高鳴ると楽しい。頭の中で生まれた世界がオンギャーと歩き出した気がして嬉しくなる。その感覚は小説を書いてる時や自分の街を作ってる時だったり、シャワーを浴びている最中に現れるのだが、忙しさにかまけているとすぐに何処かへ行ってしまう。

COVID-19が日常を変える半年ほど前、私は仕事を通して自分の承認欲求を満たそうと決めて昇進のオファーを受けた。その決断が自分の周りにかかるモヤを吹き飛ばすと考えていたからだ。書く時間を犠牲にしてでも、心の隙間を欲で埋めれば総合的に見てプラスに働くものだと思っていた。

でも、違った。私の選択は間違っていた。

心と距離が離れた場所で承認欲求を満たそうとすると、穴の空いた袋にビー玉を詰め込んでいる気分になる。どれだけ玉を入れたところで、袋が満たされることはない。

(これはマズイことになった)

底が抜けた袋を手にしていたことに気付き、慌てて床に散らばったビー玉を回収していると、予告もなしに空からパンデミックが降ってきた。

(とんでもねぇことになった)

穴の空いた袋を手放し、必死に集めたビー玉を放り投げた私は、とんでもねぇことになった社会に対応するため、とんでもねぇ空気になっている会社の会議に参加した。

『マネージャー陣は基本継続して勤務』という有無を言わせない方針が決まり、訳が分からぬまま消毒グッズに囲まれる日々が始まったのが3月中旬。その少し前に、カナダ政府が4ヶ月を上限に月々2000ドルを個人に支給するという政策を耳にしていた私は、半年前に自分が下した決断を深く後悔した。

4ヶ月間の合計労働時間=0hrs

4ヶ月間の合計不労収入=$8000

上の数字は夢だ。言うなれば、エンジェルナンバーだ。

あのまま社員でいたら、4ヶ月間書き放題だったじゃないか。つまり、昼過ぎに起きてチョコが付着したビスケットをかじりながらコーヒーを飲み、好き放題猫んズと戯れてラーメンなどを食い、気になる事件を調べた後にストリートビューで多摩ニュータウンに舞い降りることができたわけだ。

半年前の自分が享受できたであろう生活が頭をかすめ、「何やってんだよ!」という感情が腹の底から湧き上がった。

そもそも動悸が不純だった。決して承認欲求が悪い訳じゃない。対象をすり替えたのがいけなかった。エリーゼを強く欲してる時に、ルマンドやバームロールでは替えがきかない。ルマンドもバームロールも美味しいのだが、そういう問題ではないのだ。それに、承認欲求と衝動解放活動を天秤にかけること自体おかしい。このふたつは全く別物であって比べる対象ではない。たけのこの里を食べたらきのこの山が食べたくなるように、両者の関係が「衝動解放活動ー承認欲求」と付随するのなら分かる、でもmeijiの二枚看板を計りにかけちゃいけない。まさに、「何やってんだよ!」だ。

今回の騒動しかり、自分の昇進の件しかり、物事は何か意味があって起こっているのだと信じている。本当の本当など分からないが、ただそう信じている。自分の身に起こったことを全て都合よく捉えるならば、このきっかけがなければ承認欲求と衝動解放活動の違いをこういった形で意識することができなかったのかもしれない。今の仕事を辞める気はないが、今後何かの決断を下す時は衝動解放活動を最優先に考えようと心に決めた。食べていくことの次に大事なことは、嬉しくて楽しいことだ。嬉しくて楽しい時間が続くと、承認欲求は影をひそめる。きっと、使う脳みそが違うのだろう。

 

どうせなら、嬉しく生きる。

どうせなら、好きに咲く。

 

楽しくて好きで仕方がないから、私は書いているんだ。

 

***

 

(次回は、「ミチコオノという時間があった」の続きを書きます)

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無料ダウンロードキャンペーンのお知らせ

本日5月7日から11日まで、Amazon Kindleストアで販売している電子書籍「じゃあ、またね」の改訂版無料ダウンロードキャンペーンを行います。
以下があらすじ、及び、ダウンロードページのリンクです。

 

ムラセコウタを最後に見たのは、アズマたちに呼び出しを受けなかった「解放日」の帰り道だった。
茜橋のたもとでムラセが手を振った日を境に、サエジマワタルの生活から日常が消えた。

『仇を討ってください。僕はこいつらを絶対に許さない』

手渡された文庫本の余白ページに記されたメッセージ。そこに名前が書かれた四人の生徒たちとの関わりを通して、サエジマ、ムラセの母親、そして協力者であるカネコの人生が大きく変わっていく。

秘めた思いを抱えたまま、ムラセの無念を晴らそうともがくサエジマ。
息子が首を吊った理由を探すムラセの母親。
進むべき道を「神」に委ね、搾取される人生に終止符を打とうとするカネコ。

それぞれの思惑が交錯したまま、止まることのできない運命共同体は進んでいく。

 

ダウンロードページ:

https://www.amazon.co.jp/dp/B07QVDJXGS

この作品には暴力的な表現が含まれていますので、お気をつけ下さい。

 

読んでいただけたら嬉しいです。

 

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子供の頃に見た正月みたいな風景

オンタリオ州の緊急事態宣言が発令されてから今日で1ヶ月と18日。4日間の休みが取れたので、念願だった散歩に出た。

政府からの通達に従い、身分証明書を携帯してウォーキングシューズを履く。

天気は雲が散らばる晴れ。気温10度。歩いて5分程の距離にあるメインストリートに着くと、子供の頃に見た正月みたいな風景が広がっていた。

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ご覧の通り、繁華街の機能は停止している。辺りに人がいないわけではないが、まばら。なので自動的にソーシャルディスタンスを保てている。

この街に移って13年経つが、こんなにも人が少ない繁華街を見たことがない。

道沿いの店舗は全て閉まっているのにも関わらず、週末は人が来ているという話を耳にするので、月曜日の昼下がりという要素も手伝っての風景なのだろう。

 

メインストリートの坂を下って滝に近づいても、状況は一緒だった。

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アメリカ滝もカナダ滝も変わらずそこにあるのだが、その周りにあった人混みとビジネスが何かのイリュージョンのように消えた。

 

COVID-19が世界を包んで、私の生活は変わった。もちろん、私だけの話ではないのだが、私が一番よく知っている私の生活が変わった。

消毒液の匂いに囲まれていると頭痛を起こすのだと知ったのは、この騒動がきっかけだったし、労働そのものに対しての疑問を持ち始めたのも、この混乱がきっかけだった。

「雲を掴むよう」とはよく言ったもので、今現在、自分を取り巻く様々なものがおぼろげな状態になっている。そわそわしていて落ち着かない。ふわっふわしていて決められない。まるで、大戸屋のメニューを前にしている気分だ。

定まらない思いが淡い雲のようだとしても、どうせならもっと濃く、欲を言うなら綿アメみたいに甘ければ悩む必要などないのだろう。食べれるようだったら食べてしまえばいいんだし、口の中で溶かしてしまうことだってできる。

右脳と左脳を動員し、「どう思う」「どうだろう」を繰り返しても答えは出ない。答えが出ないから続けて歩く。

 

この時期、アメリカとの国境も商用配達トラック以外は封鎖されているので、観光目的での入国が主なレインボーブリッジは閑散としている。

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ある程度長く住んでいるのだが、上の画像の右側にある高架下をくぐったことがなかったので、行ってみることにした。

入り口を撮り忘れたが、中の様子はこんな感じ。

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最高だった。

柱がいい。連なる柱がいい。ズンって伸びる柱、最高。

 

高架下を抜けた先に佇むアイスクリームの看板。トリプルポーションがこの国の気質を象徴している。

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写真の順序が前後するが、橋の手前にある公園にもひと家族がいるだけだった。

時間制限なしの貸切公園。後ろが詰まっていない安心感。気を使って早風呂することもない。

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個人的な見解だが、人がいないと成り立たない風景があると思う。

人馴れしている場面と言うべきか。

それはかつて、人との距離が近かったものほど大きな違和感を覚え、その建物単体だと嘘みたいになってしまうのだ。

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ほら、やっぱり嘘みたいだ。

 

車が走らない道路。雑草扱いされ忌み嫌われるたんぽぽも咲き放題。

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誰かが損をすると誰かが得をする法則は、この状況でも変わらないみたいだ。

 

COVID-19に意味があるとすれば、私にとってそれは、ラーの鏡だ。

サマンオサのニセモノ王よろしく、その対象が人であろうが会社であろうが街であろうが、バッサバッサと化けの皮を剥がし、隠されている正体を暴いていく。

自分自身を含め、本性を晒されたらきっと元には戻れないのだろう。

その時に直視するものが、本来の姿なのだから。

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***

 

これからって時に、敬語はやめませんか

「一応確認しますけど、手順は分かってますよね」

「はい」

「準備はできているので大丈夫だと思います」

「色々ありがとうございました」

「あの、あれですよ、約束では『目が覚めちゃったら自分で』ってなってますけど、もしその時に気が変わってたら、いいですよ、逃げちゃって」

「え、いや、逃げませんから」

「もしもの話ですから。これ、けっこう強いやつなんで、起きることはまずないでしょうけど」

「はい」

「とりあえず話しておくことはそれぐらいですかね。何か質問はありますか? 特になければ——」

「あの、ポーク鍋さんは、何で終わらそうと思ったんですか?」

「え?」

「何で、終わらそうって決めたんですか?」

「……今の段階でそれ聞きます?」

「すみません。でも、こうして顔を合わせたのも何かの縁ですし、最後に聞いておきたいなって思いまして」

「はぁ。いや、最後に聞くような話ではないですよ。そんな大それたものではないですし」

「何でもいいんです。話、聞かせてもらえませんか」

「話って言われましても、まぁ、理由はたくさんあるんですけど、ひとことで言うなら、疲れたってことになります」

「疲れた、ですか」

「はい。何て言うか、この世界って、何かズルっこじゃないですか」

「ズルっこ?」

「別にこっちだって清廉潔白に生きてきたわけじゃないですけど、それなりに気を使ってやってきたんです。それこそ、物心がついた時から。母親が癇癪持ちだったもので。なるべく人様に迷惑かけないように、空気読んで、顔色伺って。でも、そんなの何の意味もなかったんですよ。何たってズルっこが得をする世界なんで。って、今更こんな話しても時間の無駄です。もう終わるんですから」

「だから、もう終わってしまうから聞きたいんです。もし、ポーク鍋さんが嫌じゃなければ、話を続けてくれませんか?」

「いや、嫌とかそういうんじゃなくて、ただ意味がないなって思いまして」

「お願いします」

「うーん、まぁ、ですから、そんな世界に疲れてしまったんです」

「何か直接的な原因があったんですか?」

「直接的って言うか、まぁそうなるなっていうのは、会社の上司になりますね」

「その人がポーク鍋さんの言う、ズルっこですか」

「他にもたくさんいるんですが、彼がその代表格になりますね」

「あの、ポーク鍋さん、敬語やめませんか?」

「敬語?」

「はい。これからって時に、敬語はやめませんか?」

「気になります?」

「はい。あー、うん。気になる。すっごい気になる。だってもうすぐ終わっちゃうんだよ。それなのに、何で敬語で喋ってるの。ちゃんと考えたらおかしくない?」

「おかしいですかね。いやだって、今日初めて会ったんですよ。だったら敬語が普通じゃないですか。友達じゃないんですから」

「随分前からチャットしてたよね」

「それはネットでの話ですよね。顔を合わしてないんですから別物ですよ」

「何で? 実際に会わなきゃダメなの? そんなのおかしいよね」

「ですから—— 」

「敬語やめて」

「あの—— 」

「やめて」

「いやいや、やめてって、いや、おかしいのはそっちでしょ。何でこの段階で自分の身の上話をしなきゃなんないんだよ。俺は終わらせるためにここに来てんの。ひとりで終わらせる踏ん切りがつかないから、一緒に終わらせましょうってことでこうして会ってるんでしょうが。それをおかしい、おかしいって。おかしいのはあんただろっ!」

「……ごめん。あの、ごめんなさい」

「あ、いや、そういうことじゃなくて。あー、何て言うかその、おっきな声出して申し訳ない。それは、ごめんなさい。だから、あのー、うん、分かった。よし、そうしよう。話もするし、敬語もやめるから。約束する」

「ごめんなさい。私が悪かったです。本当に、ごめんなさい」

「いやいや、悪いのはこっちだから。おっきな声出しちゃったし、ごめん。怒鳴って押さえ込もうとするのって最悪だよね。それがどれだけ嫌かって、ずっと受けてきて分かってるのに自分がやっちゃって。本当に、ごめんね」

「悪いのは私です。ごめんなさい」

「敬語、やめようか。あと、謝るのももうやめよう。俺も謝んないし、ネコ腹さんも、もう謝んないでね。謝って終わるのは、何か寂しいから」

「……分かった」

「じゃあ、話の続きをするね。えーと、それで、そのズルっこ上司がさ、病気になって入院したんだ。そん時に部署のひとりが、まぁ、ズルっこの子分みたいな奴なんだけど、そいつが『ズルっこにメッセージを送ろう』なんて言い出して、スマホでビデオレターみたいのを撮り始めたんだ。正気かよ、って思った。散々理不尽にやりたいことやり散らかして、こっちの手柄横取りして、意見したら周りを囲んで嫌がらせしてきて、そんな奴のために何でこっちがメッセージなんか送んなきゃならないんだよって。分かっててやってんだ。わざわざ業務終わった後に会社残って、こっちが困る姿を見て楽しんでたんだよ。本当に、クソみたいな構造だ。ズルっこの子分がズルっこに年貢を貢いで、貢がれたズルっこがそのまた上のズルっこに上納する。いや分かってるよ。それが社会ってもんなんだろ。能力云々の話じゃない、力を持ってる奴に上手く取り入ったもん勝ち。やったもん勝ちじゃなくて、言ったもん勝ちの世界だもんな」

「ポーク鍋さんはコメントしたの? そのビデオレターで」

「コメントはしたんだけど、そこで俺、おかしくなっちゃってね。今までもさ、寄せ書きとかはあったんだよ。退職する時とか、子供生まれた時とか、大して仲良くもないのに形だけで『お疲れ様』とか『おめでとう』とか言うやつ。あれは問題なかった。感情入れないで書けばいいだけだしね。でも、ビデオレターは違った。声に出さなきゃいけないでしょ、あれ。声に出すとさ、嫌でも感情が入るんだよ。『一生病院に入ってろ、何なら死ね』っていう感情が。口ではそれっぽいことを言うんだけど、顔がどんどん歪んでいくわけ。それで何度もズルっこの子分にダメ出しされて、『ちゃんと心配してる顔しろ』って注意されるんだけど、言われれば言われるほど眉間にシワが寄っちゃって。それで何回目かの時に、胸ぐらを掴まれた。『何年社会人やってんだ、クズが』って。それ言われた後に撮ったテークで、俺、言っちゃったんだ……」

「何て、言ったの?」

「『お元気ですか? 心配なんかしてません。一生病院に入ってろクソが!』って。そしたらズルっこの子分がキョトンとした顔してさ。俺、その顔見たら急にムカムカしてきて、バァーってそいつの元に走って、そいつのスマホを取り上げて会社の窓から投げ捨ててやった。それでもさ、そいつ固まってるんだよ。心底驚いたような目でこっちを見て。いやふざけんなよって、だってお前らが仕掛けてきたんだろって、何で予想外ですみたいな顔してんだよって。だから次にズルっこ上司の机に行って、パソコン持ち上げて床に叩き落としてやった。大きな音がするもんだからムカついて、何度もやった。そうやって散々投げ落とした後に、俺、硬いもの探してたんだ」

「硬いもの? 硬いものって、何?」

「分からない。よく分からないんだけど、他の社員の机を開けまくって、片手で持てる何か硬いやつを探してた。きっと……それでズルっこの子分をぶん殴ろうとしてたんだと思う。でも、なかなか見つかんなくて。そうこうしてるうちに、ズルっこの子分が『警備員さん!』って叫びながら部屋を出て行った。それで俺、怖くなって、走って非常階段から逃げた。それっきり、会社には戻ってない。でも、ダメなんだ。せっかく溜め込んだものを出したっていうのに、毎日毎日襲ってくるのは罪悪感ばかりで、嬉しくも何ともならなかった。何かこうもっと開放感っていうか、ワァーってなるのかなって思ってたけど、情けないことに申し訳ない気持ちにしかならなくてね。自分の感情すらも背負っていけないんだって分かった時、あぁダメなんだなって心底思った。それをすんなり受け入れてしまう自分が、そうやって生きてきた自分の人生が嫌で嫌で堪らなくなって、終わらそうって決めた」

「……そうなんだ」

「俺さ、ずっとスーパーの通路の真ん中にカートを置いてる客に憧れてたんだ」

「え、カート?」

「ほら、時々いるじゃん。買い物の途中で通路の真ん中にカートを放置して他の商品を探す客。あれ、本当に羨ましくて憧れてた」

「あぁ、それ私も分かる。きっと私なんかよりずっと生きやすいんだろうなぁって思う」

「そうなんだよ。俺には絶対に真似できない。そんなことしたら周りに迷惑をかけてることが気になって仕方がなくなるからね」

「ねぇ、小さい頃に学校で受けた道徳の授業って何だったんだろうね。人に迷惑をかけちゃいけないとか、思いやりとか助け合いとか、そういう教えを守って生きようとすると、どんどん息が詰まっていく」

「確かに。さっきも言ったけど、俺の母親は癇癪持ちだったんだ。何かあるとヒステリー起こして怒鳴って暴れて。それで部屋が散らかり放題になるんだけど、その部屋を片付けると、母親が褒めてくれたんだ。『自分がやったんじゃないのに偉いねぇ』って。あんまり子供に関心がなかった人だから、そうやって言われることが嬉しくてね。だから頼まれてもないことも率先してやるようになったんだ。でもそうしているうちに、どんどん褒め言葉のハードルが上がっていった。ちょっと手伝ったくらいじゃ何の反応もなくて、だから更にやらなくちゃいけないっていう悪循環になった。まぁ、勝手にやってるのはこっちなんだけど、ただ認めて欲しかったんだよね。どうしようもない母親にさえ、自分という存在がいるってことを。今にして思うと、道徳って言われるものは、一種の洗脳みたいに感じるよ。その逆を実践してる奴らがピラミッドの上部にいて、こっちを支配している構造。小さい頃の話でいうと、母親がそのピラミッドの頂点。負け犬の遠吠えと言われちゃそれまでだけど、実際に見てきたものがそうだから何とも言えない気分になる」

「私はポーク鍋さんみたいな構造を考えたことないけど、自分がやりたいわけでもないのに、知らないうちに『そうすべきだ』っていう言葉に縛られて行動して、何か嘘ばっかりついた気分になって苦しくなる繰り返しだった。ポーク鍋さんと同じ、勝手にやってるのは自分なのにね」

「何か、バカらしいよ。何でこんな風に生きてきちゃったんだろ。何で今まで。まぁでも、それも今日で終わり。長々と話しちゃってごめんね。とにかく、そんな感じで疲れちゃったんだ。ズルっこばっかの世界にも、このままずっと自分のままで生きていくことにも。これが俺の話。じゃあ次、ネコ腹さんの番」

「え、いや、私は——」

「ダメだよ。ここは平等にいこう。俺も話したんだ。ネコ腹さんの話も教えて欲しい。ネコ腹さんは、何で終わらせようと思ったの?」

「スギハラ」

「はい?」

「スギハラミウ。私の名前」

「あ、あー、そうなんですか。スギハラさんとおっしゃるんですね。あ、どうもはじめまして」

「何で急に敬語に戻っちゃうの」

「いや、何か名前聞いたら現実に引き戻されるっていうか」

「さっきも今も現実。何も変わらないよ」

「まぁそうだよね。確かに一緒だ。あー、じゃあこっちも、私の名前は、あの、名前は——」

「無理に言わなくてもいいよ。私は自分で言いたかっただけ。それだけのことだから」

「別に無理なんてしてない。何の問題もないよ。俺の名前は、ポーク鍋こと、ワタナベトシヤです。よろしくお願いします」

「ふっ……ふっふっ……ちょっと、やめてよ。ふっふっふっ」

「え、何で笑ってんの? いや、名前言っただけじゃん。え、だから何で笑ってるの?」

「だって、言い方が。ふっふっ、何その自己紹介。名前だけでいいよね? 何、『ポーク鍋こと』って。しかも最後また敬語になってるし……ふっふっふっ、ハハハッ!」

「そんなに笑うことかなぁ。一応アカウント名も言うでしょ。初めて会ったんだし。そういうもんだと思うけどなぁ」

「ごめんごめん。あー、びっくりした。久しぶりに笑ったぁ。私こんなに笑えるんだね。あー、驚いた。あー、いやー、ワタナベさん、ありがとう」

「感謝されても、何か心外だなぁ。まぁ、いいけど」

「ごめんって、ごめん。でも、ありがとう。感謝してる」

「どういたしまして」

「ねぇワタナベさん、私の話、本当に聞きたい?」

「え、うん。だってそれでイーブンになるから」

「あんまり気持ちのいい話じゃないよ」

「俺のだって全く清々しい話じゃなかったからね」

「分かった。じゃあ、話す。ちょっと深呼吸するね」

 

(スー フー スー フー スゥーーー フゥーーー)

 

「はい、ありがとう。えっと、どっから話せばいいのかなぁ。あのね、あのー、私、介護士だったんだ。老人ホームとかデイサービスとかで働く介護職員。介護の仕事自体は嫌いじゃなかったんだけど、人付き合いが上手くいかなくて。もともと社交的な方じゃないし、意見とかも言えるタイプじゃないから色んなこと溜め込んじゃうことが癖になってて、我慢して我慢して限界になると逃げるように仕事を辞めてた。そうやって逃げ続けてたら七回も職場を変えることになって、再就職の面接で落ちることが多くなったの。だから八番目の職場に移った時、どんなことがあっても耐え抜こうって心に決めた。仕事が見つからない時の不安はもう嫌だったし、ずっと介護職でやってきたから今更、他の職種に就く自信もなかったから」

「うん、そうなるよね」

「最後の職場、その八番目の場所はね、いつも人手が足りなくて、忙しさでピリピリしてた環境だったからストレスが溜まりやすかったんだけど、主戦力で働いてた二人の職員さんがいなくなってから特に酷くなったの。担当する利用者さんも増えるし、泊まり込み勤務も増えるしで、もう限界だった。そんな状態の時、新しく個室で入ってきた認知症のお婆ちゃんがいてね。その人が、夜中に何度も私のこと呼び出すの。最初はちゃんと部屋に行ったよ。何か緊急だったら大変だからね。でも、そのお婆ちゃん、私が行くと、口半開きでこっちを見てるだけなの。『どうしたんですか?』って声かけても何にも言わなくて。呼び出す時は、ちゃんと話せるのに。そんなことが何度か続いて、呼び出しも無視するようになってたんだけど、違う利用者さんがトラブル起こして大変だった夜に、また連絡があって。私、頭にきて、部屋に行って怒鳴っちゃったの。でも、結構強く怒ったのに、その人、何の反応も示さなくて。またいつもの、ボォーっと口半開きしたまま。何か私、その姿を見てたら、無性に腹が立って仕方がなくなって、怒りを抑えきれなかった。それで気付いたら、そのお婆ちゃんの頭を引っ叩いて、手の甲を凄い力でつねってたの」

「あの、スギハラさん、大丈夫」

「ごめん、ちょっと深呼吸するね」

 

(スー フー スー フー スゥーーー フゥーーー)

 

「ありがとう、大丈夫。ずっとね、介護職に携わっていて、今までどんなに溜め込むことがあっても絶対に線は超えなかったのに、あぁ、私とうとうやっちゃったんだって絶望した。だから、次の日に問題になって呼び出されるのを覚悟したの。だって、前に十年以上勤めてた人が利用者さんの顔を殴って、家族からのクレームでクビになったことがあったって聞いたことがあったから。でも、私は何のお咎めもなかった。今、考えたら、あの時辞めてればよかったんだと思う。きっと、あの期間は神様がくれたチャンスだったんだ。でも、私は辞めなかった。もうその頃は仕事を続けていく自信をなくしていたけど、今まで自分が費やした時間を全部捨てるのが怖かった。うん、怖かったっていうか、それにすがってた。それで、結果的に私は仕事も、そのお婆ちゃんに関わることも、どっちもやめなかった。もう絶対手をあげるのはやめようって、その時は心に誓ったんだけど、日々のイライラが溜まって呼び出された夜は、私、また同じことしてた。しかも、今度はもっとズルくなって、ぶたない代わりに体の目立たない部分を思いっきりつねることにしたの。そうすると、そうするとね、凄いスッキリして……。私、その時、自分の中の悪魔に食べられちゃったんだと思う。今でも、夢を見るんだ。夜、真っ暗な廊下を歩いている自分の姿の夢。そのお婆ちゃんの部屋を目指して誰もいない廊下をツカツカツカって、こう、前傾姿勢で歩いてるの。で、彼女の部屋の手前に資料室があるんだけど、そのドアのガラスに私の横顔が映るの。目が据わってて、何ていうか、獲物を狩る前の動物みたいな顔。映ってるのは私の顔なんだけど自分じゃないみたいで。とにかくその顔が怖くて、気味が悪かった」

「スギハラさん——」

「私が弱いから、悪魔に心を食べられた。私が弱くて価値がないから、自分の中にいる悪魔に乗っ取られちゃったんだ」

「スギハラさん、強い弱いじゃないって。気持ちを保てる環境があってこそ、俺たちはこうして何とか他人同士、クソみたいな社会で共存していけてるんだろ。その環境が崩れちゃったら、人のモラルどうこうの話じゃないんだよ。そんな状況で働いてたら、皆んな頭おかしくなっちゃうんだって。だからスギハラさんが悪いんじゃない。そもそもおかしいんだよ! 人をボロ雑巾みたいに扱う社会が!」

「ワタナベさん、それは言い訳だよ。悪いのは私。その社会に馴染める強さを持たない私が悪いんだ」

「いや、そんなのおかしいだろ! 何でだよ、何でスギハラさんがおかしいことになるんだよ!」

「何度も言うけど、悪いのは私。だから神様は、私の前にお婆さんを遣わせたんだ。私の本性を暴くために」

「そんなこと——」

「私がそこから逃げるまでの一ヶ月、私は私自身の意思でそのお婆ちゃんの部屋に行くようになった。ただ私の欲望を満たすためだけに。そんなどうしようもない私の前に、神様は姿を見せたの。あのね、すごく不思議なことなんだけど、やられる日が続いても、そのお婆ちゃん、毎日私を呼び出すの。それで部屋に行くでしょ、そうするといつも通り口を開けてるんだけど、私が一歩一歩近づくと急に思い出したかのように怯えた顔になるの。私がそこを逃げ出す夜も彼女の部屋に入って、お婆ちゃんに近づいて膝立てて座ってから、ふくらはぎの裏を目一杯つねったの。いつもはね、そのお婆ちゃん『うぐぅぅ』とか『あがぁぁ』とか言って耐えてるだけなんだけど、その日はこっち向いてさ、『ごめんね、もう大丈夫だよ』って言ったの。心臓がとまりそうなくらいビックリして、そのお婆ちゃんの顔を見たら、お婆ちゃん、泣いてた。そしてね、すごい優しい顔で私の頭を撫でたの。私、つねってるのに。私の全部を包むように、ゆっくり、何度も撫でてくれて……。ビックリしたけど、暖かくて、とても安心した。神様がね、こっちへ来いって言ってるみたいだった。そこをさよならして、こっちに来いって。だから、行くことにした。これもただの言い訳で、結局逃げてるだけだけど、あの時私が感じた暖かさは本物だと思うから、それに包まれたいと強く願った。……自分でね、色々試したんだ。でも最後の一歩が踏み込めなかった。怖くてね、怖くて仕方がなかったの。だからあの掲示板に書き込んだ。そしてポーク鍋さ、あ、ワタナベさんに会った。これが、私の話。初めて他の人に話した。聞いてくれて——え、何で、何でワタナベさんが泣いてるの?」

「分かんない。悔しくて、寂しくて、苦しい。何でこんな気持ちになるのか分かんない。どうしていいか分かんなくて、どうしていいか分かんないから涙が出てくる」

「……ワタナベさん。あのね、ワタナベさん、これ、最後の質問。本当に最後の最後。もし何かひとつ、全部が終わっちゃう前に、何かひとつできるとしたら、何がしたい? 今まで生きてきて、一番楽しかったこと。もう一回それができるとしたら、ワタナベさんは何がしたい?」

「今までで、一番楽しかったこと?」

「うん、そう。もう一度できるとしたら、何がしたい?」

「……大磯かな。もし叶うなら、大磯ロングビーチに行きたい」

「大磯ロングビーチ?」

「うん。ずっと昔、子供会で行ったんだ。その時の記憶が強く残ってる」

「そこで何がしたい?」

「何がしたいとかはない。ただ、あの時の雰囲気を味わいたい。スギハラさんは、大磯ロングビーチに行ったことある?」

「ううん。名前は聞いたことがあるけど、行ったことはないよ」

「日本なのに、南国なんだ。ザ・南国リゾートって感じ。まぁ、南国に行ったことがないからイメージなんだけど。海の真ん前でヤシの木がいっぱいあってさ、オーシャンブルーのパラソルがプールサイドに続いているんだ。高い飛び込み台があって、でっかい流れるプールもある。何ていうか、ハワイみたい。これも勝手なイメージだけど。子供会でそこに行った日、散々泳いだ後にすぐ近くにあるボーリング場に行ったんだ。日焼けして身体中痛かったけど、その痛いままでボールを投げるのが本当に楽しかった。痛いから全然まっすぐいかなくて、ガーターばっかりだったけど、それが楽しかった。本当に、楽しかった」

「そうなんだ。いいねぇ」

「じゃあ、スギハラさんは? 何がしたい? 何が一番楽しかった?」

「楽しかったじゃないけど、一番したいことは、おんぶかな」

「おんぶ?」

「うん。あ、するほうじゃなくて、されるほうね。私、中学生になるまでお婆ちゃんと一緒に暮らしてたの。子供の頃、嫌なことされて泣いてると、お婆ちゃんがよくおんぶをしてくれたんだ。こうやってゆっくり左右にリズムをつけながら。お婆ちゃんは背が低かったんだけど、おぶられるとすごく安心できたの。暖かくて優しくて、その時だけ嫌なことが全部飛んでいった。それでね、しばらくすると『ミッちゃん、あまパン食べようか?』って聞いてくるの。あれね、あまパンってシロノワールのこと。あの、コメダ珈琲に売ってるやつ。分かる?」

「いや、コメダ珈琲行ったことないから分かんない」

「形は丸型の大きなデニッシュパンで、中央にアイスクリームがドンって盛られてて、真っ赤なサクランボが一個添えてあるの。え、ワタナベさん、食べたことない? もったいないよ、すごく美味しいんだから」

「コメダ珈琲に行く機会がなかったからなぁ」

「そっかぁ。それが、本当に美味しくて。安心した後だからかなぁ、お婆ちゃんと食べる時はいつも特別美味しかった。美味しく感じただけかもしれないけど」

「いや、きっと美味しかったんだよ。あの時行った大磯ロングビーチの楽しさと、きっと似てるものがあると思う」

「ワタナベさんは、最後にいつロングビーチに行ったの?」

「えー、最後も何も、その子供会で行ったのが最初で最後だよ」

「え?! 何で? 何でそれから一度も行ってないの?」

「いや何でって、行く機会がなかったからね」

「行く機会がないって、だって一番楽しかったんでしょ? それなのに何で? 行く機会なんていくらでもあったよね? 今まで生きてきた中でいくらでも。だって——」

「ないよ、そんな機会。なかったよ。本当に楽しかった場所だから、気を使わなきゃいけない人とは一緒に行きたくなかった。誰か心から気を許せる人がいたら、絶対に行きたいなって思ってたけど、そういう人に会えなかったしね。それに、ひとりで行ったってしょうがない場所だし」

「行けばよかったじゃない、ひとりだって何だって。せっかくそんな場所があるのに。何で一度も……」

「ひとりでなんて行かないよ。行けるわけないよ。そんなことしたら人の目が気になって無理だよ。そうやって言うけど、じゃあ、スギハラさんは? お婆さん以外に誰かにおぶってもらった? お婆さんの時と同じ味のあまパンを食べられた? あの時と同じような安心感を得られた? 得られないでしょ? 無理なんだよ、楽しかった思い出を掴もうとするなんて。なくなってしまったから、俺たちここにいるんでしょ? なくなってしまったから、こうして終わらせようとしてるんでしょうが!」

「……」

「あ、また……。違うんだ……違うんだって。申し訳ない。いや、責めるつもりはなかったんだ。そういうんじゃなくて、だから、違うんだよ。あの、あー、もう、本当に嫌だ。もうおっきな声なんか出したくない。もうこれ以上、自分も誰かも責めたくない……」

 

(ダンッ)

(スタスタスタ)

(バリ バリ バリリリ バリ)

 

「ちょっと! え、何してんの? え? スギハラさん! ちょ、ダメだよ! 目張り取ったら窓の密封が——」

「今日、何曜日?」

「え? は?」

「今日は何曜日かって聞いてるの!!!」

「え、あ、はい。え、だから、一昨日が日曜日だったから、えっと、火曜日、です。はい」

「半額日」

「……はい?」

「大磯のボウリング場じゃないけど、国道沿いの緑奥ボウル。火曜日は半額日なの」

「あ……はぁ」

「ボーリング、したいんでしょ? だったらすればいいじゃない!!!」

「え? 一体、何の話を——」

「敬語はやめてって!!!」

「あ、はい、あ、あの、おぅ」

「何『おぅ』って。ワタナベさん、錠剤が入ってる小瓶取って」

「え、あの、取ってって言われても」

「はやく!!!」

「はい、お、いや、おぅ」

 

(スタスタスタ)

(ガッ ガンッ ガガッ)

(スッ)

 

「え、何で、何で投げるの?」

 

(……バリッン……)

 

「あ、え、何で? 何でそんなことすんの?」

「あんただって、窓からスマホ投げ捨てたでしょ」

「それとこれとは——」

「一緒だよ。全部、一緒」

「スギハラ、さん?」

「ワタナベさん、ごめんね。でも、どうせなら、やることやろう。どうせ終わりにするなら、やることやってから、終わりにしよう」

「スギハラさん……」

「だって、シロノワール食べたことないんでしょ? あんなに美味しいのに、食べたことないんでしょ? だったら、食べようよ。最悪、食べてから終わりにしようよ。だって本当に美味しいんだから!」

「……」

「世界はね、きっとこのまま。ワタナベさんが言ったように、ズルっこたちがはびこって、それに馴染めない人たちはズルっこたちの餌食になる。しょうがないよね、弱肉強食だもん。それが世の中ってやつなんだから。ショッピングカートを通路の真ん中に置けない私たちは、くだらない道徳に縛られて、しつこく付いてくる罪悪感に襲われるの。どうしようもないけど、そういったものを受け入れるしかないよね。だって仕方がないでしょ、そうやって育てられて、その感覚を染みつけて生きてきたんだから。ワタナベさん、人生は映画やドラマじゃない。都合よく物事が運んだり、救世主が窓を割って助けに来てくれたりはしない。だから、だからどうせなら、やりたいことしようよ。少なくとも、やれることをしよう。……私はやる。急に計画を変えて申し訳ないんだけど、やっぱり私は死なない。卑怯だけど、死にたくない。だって、まだやれることやり尽くしてないもん。情けなさも恥ずかしさも全部受け止めて、やれることしてから死ぬ。ワタナベさん、本当に、本当にごめんなさい。ワタナベさんが自己紹介した時、あの時に心から笑っちゃって、死ぬ気がすごく削がれたの。本当に身勝手でごめんなさい。何もかも台無しにしちゃって、本当にごめんなさい」

「……救世主は、窓を割って入ってこなかったけど、窓を開けて瓶を割ったよ。スギハラさん、人生は映画やドラマじゃないってさっき言ったけど、あなたが立ち上がって窓の目張りを剥がした時点で、じゅうぶん都合よく物事が運んでいるよ。何だよこれ、何だよこの展開。……フゥー。あの、ちょっとごめん、訳わかんないから、深呼吸させて」

 

(スー フー スー フー スゥーーー フゥーーー)

(スー フー スー フー スゥーーー フゥーーー)

(スー フー スー フー スゥーーー フゥーーー)

 

「ありがとう。少し落ち着いた。あのー、あのさ、おんぶするの、俺でもいいかな? 今すぐできることって、とりあえずおんぶでしょ?」

「ワタナベさん……」

「あんまし長くできないかもしれないけど、とにかくやってみるよ。リズムの速度は、おぶった時に教えて」

 「うん」

「それとさ、おんぶ終わったら、シロノ——何とかだっけ? まぁその、あまパン食べに行こう。あ、でも、あの、ボウリングはさ、半額日だけど今日はやめとこう。どうせだったら、やっぱり大磯に行きたいんだ。あのさ、色々と整理しなくちゃいけないことがあるから、いつになるかは分からないけど、もし迷惑じゃなければ、大磯、一緒に来てくれないかな? スギハラさんさえよければ、その時も、あまパンをご馳走するから」

 

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