スタジオ負け犬

 皆さま、お久しぶりです。

 お元気ですか? お元気でなくても、生きていますか? 暑いですけど、ご飯を食べていますか? 食べていなくても飲んでいますか? 下町のナポレオンに癒されていますか? たまには遊んでいますか? ボーリングとかやっていますか? 今年はスイカバーを買いましたか? プールに行きましたか? 水面に飛び込みましたか? 遊園地はどうですか? 帰りに欲しくもないキーホルダーとか買いましたか?

 夏がくるとソワソワするのは、大人になっても変わらないのだと実感しました。ソワソワするからといって、日常が様変わりするわけではないのですが、太陽の照りが強くなって首筋にジワッと汗をかくようになると、起きて寝るまでのルーティンの中で思い出す記憶の内容は、夏とそうでない季節とで大きく変化します。

 ラジオから流れる曲のように、次に何がくるのか予想できないのが記憶の面白い(恐ろしい)ところで、いわゆる『フトした時』に浮かぶ場面は、「ヘイ、シリ」でも「ハロー、アレクサ」でもコントロール不可能な代物だと思います。ちなみに最近のお気に入りは、「ブルーハワイの扇風機に当たりながら、夜更かしして『ねるとん』を観る」という子供の頃の思い出で、付属メモリーは「ミズノのCM」「半凍りのチューペットいっぽん飲み」「鮭を咥える熊の置物」といった、私的昭和オールスターズとなっております。

 前置きが長くなりましたが、Amazon Kindleストアで電子書籍「スタジオ負け犬」を出版しました。表紙は敬愛する深海武範さんに描いて頂きました。何と言いますか、喜びを通り越して、家宝です。嬉しさが収まりきらない時に口から出るのは、何かしらの文ではなく、濁音をふりかけた感嘆詞の連続だということを再確認しました。

 以下が本のあらすじと、商品ページのリンクになります。よろしければ読んでみてください。

 ありがとうございました。

 

 

 

 

おかけになった感情は、現在使われておりません

日を跨ぐ瞬間は人それぞれ

並ぶ数字に意味はない

誰かにとってのおやすみは

誰かにとってのおはようだ

 

雨のち晴れの木曜日

メキシコからの着信は無視

セージを焚くのは心のため

気を許すと飲み込まれるから

 

ソファーに座って耳を澄ます

冷蔵庫の音が動く合図

雑音が減ってちょうどいい

 

深夜過ぎに家を出て

静かになった通りを走る

月が見えなくても問題ない

空にいるのはちゃんと知ってる

 

帰路を忘れたシーイーグル

食べ残した時間をつついている

暗闇に佇む信号は灯台

三色に光って先を照らす

 

おつかれさん

いつもごくろうさん

投げる言葉は挨拶代わり

 

カジノの赤い看板を超え

バッツの匂いをくぐり抜け

昼に染み付いた汚れを払う

 

十字路脇のヘビースモーカー

あなたの笑顔が大好きだよ

夜にひざまずくブラックジョーカー

あなたの祈りが叶いますように

 

草や酒があなたを救うなら

それはそれでいい

アシッドでもそれは同じ

善も悪も人それぞれ

同じ箱には収まれないんだ

 

”we're all in this together”になって久しいが

いつまで経っても馴染めない

迫る思いがしつこくて

口に入れても飲み込めない

 

右も左も

表も裏も

正直そんなのどうでもいいんだ

色々強制になっちゃったけど

あなたが何を信じていようが

打っていようが打っていまいが

好き嫌いの基準にならない

私はあなたが好きだから好きで

あなたのことが嫌いだから嫌い

それ以上でも以下でもない

 

手の中にあるのはシンプルなソウル

それはかけがえのない大切なもので

それは誰かが奪えないもの

私はそれがあればいい

それがあれば怖くない

 

生まれ直したこの国で

これまで長い時間を過ごした

名前を変えたこの国で

沢山の感情を抱いて捨てた

何もかもが姿を変えたし

随分遠くまでやってきたけど

引き返そうとは思わない

I got used to 取捨選択

これが私の歩く道

 

深夜過ぎの空気を纏って 

静かになった家に帰る

ひとりと五匹が眠る部屋

聞こえる寝息が命の証

生きる意味がそこにある

 

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1998年3月某日の深夜、発泡酒をぶっかける

区切りをつけるという行為は、とても大事なことだ。

今いる場所、状況、従事している事柄から距離を取り、関わり合いを断つ。それは何かを成し遂げた後でも、中途半端な状態でも構わない。とにもかくにも「終わり」と決めて、さよならするのが重要なのだ。

去年の3月から区切りをつけられない毎日を生きている。でもそれはきっと、私だけではないのだろう。

北国特有の長い冬が終わり、街中いたる所に色が付いて木々も青々としてきた。ひと足先に自然界が衣替えを終えても、人間界に住む私は足踏みしたままだ。

半地下にある職場の窓から気持ちよく晴れた日を見上げていると、さまざまな思いが頭に浮かぶ。喜怒哀楽バランス良く湧いてくるのならこの上ないが、最近はそうもいかない。猫で頭を満たそうとしても、新しい生活様式へと変わっていく社会への不安が思考を覆う。

好きな音楽をかけても頭に響かない時、私は心に残っている昔の場面を思い返す。そうすると、まとわりつく圧迫感が幾分ましになる。

ついこの間、整理できない「区切り」について考えていた時に浮かべたものも、忘れずにとっておいた20年以上前の記憶だった。

 

私は、1998年の3月を心待ちにしていた。

それは真っ黒だった高校生活が終わる月であり、逃避先として選んだカナダのバンクーバーへと出発する月でもあった。

やっと終わる、やっと逃げれる、やっと息ができる。私はドロップアウトすれすれだった状況からどうにか卒業まで漕ぎ着けられたことにたいそう浮かれ、のぼせ切ったようになっていた。

「優勝だ! 優勝した!」

嬉しい、の最上級を優勝だと捉えていた当時の私は、居場所をくれた仲間たちに優勝記念にビールかけをしようと提案した。熱にやられて周りが見えなくなった優勝男の戯れ言なのだが、彼らは案外すんなりとこの発案を受け入れてくれた。

 

(以下の内容は、今よりも規制が緩かった時代のお話です。もしくはフィクションです)

 

各々のバイト代と相談し合った結果、飲まないんだから発泡酒でいいだろ、となり、免許を取ったばかりの小金持ち友人の運転で量販店に向かった。最悪無理なら自販機巡りになるなと考えていたが、無事に数ケースの発泡酒をトランクに積み込むことに成功した。今でも印象に残っているヨタヨタ運転で小金持ち友人宅へと戻った私たちは、発泡酒の上にビニールシートを被せて夜がふけるのを待った。

1998年3月某日深夜、私たちと発泡酒が乗る車はいつもの集まり場所である国道沿いの公園に到着した。

人影がないことを確認して、トランクから酒の箱を運び出す。事前に示し合わせていた通り、殆どのメンバーはそれぞれの高校の制服に着替えを済ませていた。

「残したくないから、制服は終わった後に燃やしてしまおう」それが私たちの計画だった。

自然と円陣を組むような形でスタンバイして、手に持った発泡酒を勢いよく振る。

「優勝おめでとう!」

「おめでとう!」

みな口々にそう叫び、深夜の発泡酒ぶっかけ祭りはスタートした。

私のイメージでは華々しく「イェーイ!」となる予定だっだのだがそうはならない。正確には、ならないのではなく、なれなかった。スプラッシュしたアルコール液が目に入って痛い。いや、痛いなんてものではない激痛で目が開けられなかったのだ。それまで生きてきた中で優勝した経験もビールかけをした経験もなかった私にとって、この激痛は想定外だった。

これは、テレビで観たやつと違う。「イェーイ!」とピースして笑う野球選手のイメージは開始直後に崩れ去った。

発泡酒をぶっかけ合って分かったのだが、まず襲ってる感覚が「痛い」で、その次に忍び寄るのが「臭い」だった。これも予想外だったが、発泡酒漬けになった制服が臭くってたまらない。何だか、人の気力を奪い取る臭いだった。

抱いていた華やかな絵面とかけ離れた発泡酒ぶっかけ祭りは、目や皮膚を刺す痛みと異臭のコラボレーションでトランス状態になり、奇声を発しながら痛臭水を浴びせ合う狂乱の宴と化した。

祭りの後に訪れるものは虚無感だと相場は決まっている。

もちろん私たちが催した奇祭も例に漏れず、全ての缶を弾けさせた後に残ったものは、何とも言えない虚しさと痛みと臭みだった。

口数も少なく、持参したゴミ袋に黙々と空き缶を入れる我々の姿は優勝した者のそれではなく、一回戦敗退で甲子園の土を拾う高校球児そのものだった。

3月は冬ではないが夏でもない。どう考えても、異臭を漂わせてびしょ濡れで外にいる時間でないことは明白で、寒くて仕方がなかったことを覚えている。

「燃やす」と宣言した手前あとに引けず、罰ゲームのような感覚で制服を脱いで一箇所にまとめ、ホワイトガソリンをかけて火をつけた。そう、確かに着火したのだが燃えない。燃えるはずがない。少し頭を使えば分かるのだが、びっしょびしょに濡れた衣類は火をつけようがびしょびしょのままなのだ。 

痛くて臭い思いをしたのに燃えてなくならない制服。何の反応もなく横たわるその様子は、自分の高校生活そのものを表しているようだった。

 

想像通りにはいかず、成仏できない感情は中途半端な不燃物になった。それでも、ベタついた発泡酒を熱いシャワーで流したその日、一旦の区切りはつけられた。何も解決していなくても、背中を向けて逃げ出すことができたのだ。

あれからずいぶん時は流れ、私は色々なことに区切りをつけて生きてきた。縁やタイミング、猫や人に助けれられ、奇跡的に自分を捨てずにやってこれた。

今、目の前に、どう区切りをつけて良いのか分からない事柄がある。背伸びをして先を見通そうとしても真っ白で何も見えない。

どうなるんだろう。どうするんだろう。そんな思いばかりが顔を見せる夜が続く。

区切りをつけたいと願っている。

そんな日が来ることを願っている。

傷つかず、傷つけず、押し付けず、押し付けられず。そんな形でトンネルを抜けられたら、今度こそ発泡酒ではなく、盛大にビールでぶっかけ合いたいと思う。

 

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それは、「未来」という魔法だった

「未来」という言葉に希望が含まれていた少年時代、ブラウン管の中にはサトームセンのジャガーや、オノデン坊やが息をしていた。

元気があった街の本屋にはジャンプやマガジン、コロコロやファミ通といったカタカナの少年誌が平積みされており、高橋名人や毛利名人が競ってファミコンの腕前を披露していた。

私は、アナログとデジタルの狭間に生まれた。

機種変更やモデルチェンジを含め、今までなかったものが生まれ、そして消えていった様を数多く見てきた。それらは私にとって、「未来」という魔法だった。

 

ビデオデッキ

世に出た後に、随分遅れて我が家にやってきた未来機器。

一言でいうと、タイムマシーンだった。

どうでもよいCMを録画し、すぐに再生する。そうすると、ついさっき見た映像がそっくりそのまま画面に流れた。

ボタンひとつで時間が操れる角ばった箱は、夢でしかなかった。

このドリームマシーンのおかげで、巨人戦の裏番組を後で視聴できるというミラクルが発生した。

 

ゲームボーイとスーパーファミコン

何ともいえない大人の事情で手に入れることになった超小型モノクロファミコン、ゲームボーイ。入手経路が微妙だったために見てみぬフリをしていたが、いつのまにか虜になった。魔界塔士サガとの出会いで夜更かしを覚え、朝と夜が入れ替わったのもこの頃。極小の音量でラジオを聴きながら夜中にピコピコボタンを弾く近未来生活は至福以外の何物でもなかった。

「未来ボックス」であるファミコンを凌駕した「超未来ボックス」スーパーファミコンは、全てが規格外だった。

ボタンが4つ。しかも色付き。パッと見、m&m'sのチョコレートが埋め込まれているように感じるコントローラーは、欲張りを具現化したかのようなデザインだった。

先代であるファミコン同様、ゲーム応援係に回ることが多かったが、ブラウン管に映し出された立体感に魅了された。

 

テレビデオ

はじめてのバイト代をつぎ込んで手に入れた未来。

テレビとビデオが一体になった奇跡の融合体。

これひとつで砂壁の四畳半が月9に出てくる華やかな部屋に姿を変えた(気がした)。

テレビデオさえあれば、襖が破けていてもオシャレルーム。小田原と書かれた提灯がぶら下がっていてもオシャレルーム。橋本真也のポスターが貼ってあってもやっぱりオサレなルームになった。

ある程度のものは何とか誤魔化せてしまう七味唐辛子のような未来を手に入れたことで、長年相思相愛だったラジオと距離が出来てしまった。

 

PlayStation

未来の終着駅、すなわち、欲張りの終着点。

オープニング画面なんて、なんなら映画じゃないか。

カセットがCD? なんでCDに映像が入るんだ? え、カセットじゃなくてソフト?

新しい情報の群れが一斉に飛び込んできて回線がパンク状態。プールから水が溢れ出す感覚で、理解を完全に超えた瞬間。

映像欲が落ち着いた後は、もっぱらサウンドノベルやアドベンチャーの虜に。応援係にならなくてよいゲーム。自分のためにするゲーム。

PS版の弟切草、かまいたちの夜に時間を捧げ、神宮寺三郎とトワイライトシンドロームを抱きしめて部屋に籠もった。

 

セガサターンとドリームキャスト

せがた三四郎と湯川専務が運んできた未来。

小学生の頃にメガドライブを持っていたセガ贔屓の友人がゲットした進化版。

あの当時、セガとソニーはコーラとペプシのような関係だった。少なくとも私はそう感じていた。だからセガが作ったゲーム機はプレーステーションと同じ世界にはいない。何というか、コーラを飲んでいる自分とペプシを飲んでいる自分が同じ空間にいないように感じる現象と一緒で、セガのゲーム機とソニーのゲーム機は、パラレルワールドのように決して交わることのない線の上を進んでいる感覚を覚えた。

こちらの世界では姿を消したセガサターンとドリームキャストだが、あちらの未来世界では2、3、4と続編機を出しているに違いない。

 

CD-ROMという未来型円盤に収録された、Ken Ishiiの"Extra"

ミュージックビデオは、歌手が歌って踊るものだと思っていた。もしくは海岸線を物憂げに歩いたりするものだと。そんな自分の思い込みを打ち砕いた未来型円盤に収められていた映像。

衝撃だった。生まれてはじめて、頭の中を撃ち抜かれた。

未来を纏ったMVを観たその日から、音楽に対しての価値観が覆された。

 

Windows 98とNINTENDO64

そのミュージックビデオを流したパソコンという新未来型マシン。

新聞配達業務に削られ、高校から遠ざかっていた頃に出会った正真正銘のフューチャーマシン。未来を超えた先にあったリアルフューチャー。アンコ型ボディに搭載されたテクノロジーに触れて、世界がおかしくなった。

最先端すぎて扱えない。所有者であった友人も同様だったようで、ネットサーフィンというものを実行しては波に飲み込まれ、電子の海の底に沈むのが常だった。

そんなパソコンと、3D世界を四つのコントローラーで遊べるタコ足配線未来ゲームNINTENDO64を抱え込んでいた小金持ちの友人部屋に居座るようになり、家にいる時間が極端に減った。

未来に触れると、それまでの生活が一変してしまうんですね。

 

ポケベル

制服のポケットに入れた未来。

公衆電話というアナログ機のボタンを早打ちして信号を送る優れもの。まさに過去と未来のコラボレーション。

持ってることにステータスを覚えてしまい、ポケベルが鳴らなくてもバイト代をつぎ込む羽目に。本来の存在意義を忘れたポケット未来はコレクターズアイテムと化した。

クラスで目立つ子はだいたい薄型ボディのテクノジョーカーを装備しているか、センティシリーズをキラキラデコレーションでシノラーくるくるにしていた。

そういう時代だった。

 

PHSと携帯電話

PHS。又の名をピッチ。

言葉の響きが既に未来。三文字の疾走感がポップでキャッチーでフューチャー。

ポケットに忍ばせていた鳴らない旧未来を取り出し、細長の新未来に入れ替える。

機体にきらめくASTELの文字。あやしく光るグリーンライト。アンテナを空に伸ばせば、狭い教室を飛び抜けられた(気がした)。

ベルからピッチに進化しても、黙っている時間ばかりなのは通常運転。それはニューエラという大気圏に突入した携帯電話になっても同じで、高校を半ば放棄して稼いだ新聞配達の銭を、試しに鳴らすだけの着信音や誰も見ることのない壁紙に貢ぐ生活を送った。

四畳半で開くハーフノートジャズのページ。がっつり課金されて四和音でダウンロードする『我が心のジョージア』を流して悦に浸っていた。

私はアムラーにもシノラーにもハマダーにもなびかない、そんな未来を生きるのだと息巻いて、テレビデオで擦り切れそうな『さんぴんCAMP』を観ていた。

携帯電話に付けたストラップは桃屋のごはんですよ。それが個性だと思っていた。

 

iPodと少しのiPhone

iPod。今まで気が触れたように未来、未来と繰り返してきたが、私の中ではこのデジタルオーディオプレイヤーがこれまでで一番のフューチャーショックだった。

これぞ、未来。いや、未来というか宇宙。だってカセット(ソフトor CD)を入れなくていいんだもん。

時代の最先端に触れてみようと背伸びしてMDを買った自分をこんちくしょうと恨んだ。あと少し待てば宇宙が掴めていたではないかと。

Windows 98とNINTENDO64を所持していた小金持ちの友人のiPodをいじり倒しては、中央のサークルをクルクル回すたびに聞こえるカチカチ音に酔いしれていた。

シノラーくるくるが混沌とした時代の傾奇者だとしたら、こちらのクルクルは時代という概念を超越したスペースフロンティアだった。

真っ平らな液晶画面で全てを完結させるiPhoneやタブレット端末も疑うことなく宇宙なのだが、その全てが初代iPodのアップデート版に思えてしまって、カセットいらずのクルクルジュークボックスの時に受けたビッグバン級の衝撃を感じることは出来なかった。

 

iPodの未来的大爆発以降、私のビックリドッキリ未来は止まってしまった。

いわゆるひとつの大人になった訳でも、何にでも冷めてしまった訳でもないのだが、オノデン坊やと遊んでいた時に描いていた未来予想図は霧が晴れるように消えてしまった。

私のドキワクが立ち止まってからも当たり前のように時代は進み、新しいテクノロジーもたくさん登場した。AIを筆頭に、自動運転や顔認証、いつでもどこでも繋がれるSNSに、電子決済。ドローンも空を飛んでいるし、スーパーでは普通に培養肉が売られている。

スライドとタップだけで殆どの用事は済んでとても便利になった。でも、何かが違う。うまく説明できないのだが、心の中に「こんなんじゃない」感が常にある。

胸がおどらないというか、しっくりこないというか、とにもかくにもこんなんじゃないのだ。

すっきりしない違和感をかき分けて探しているのは、金曜ロードショーで観たバックトゥザフューチャーや、夢中で読んだ漫画の中にあった未来。ドラゴンボールのエンディングテーマの言葉を借りるとしたら、「ロマンチック」な未来なのだと思う。

24時間365日誰かと繋がれなくてもいい。世界中どこにいても自分の居場所が誰かに伝わるアプリもいらないし、スライドとタップだけで生きていけなくても構わない。

ソファーに寝転んでポチッと出来る便利さよりも、ロマンチックが欲しい。

バケツいっぱいの混乱をぶちまけたかのような現状の先に何が待っているのか分からないが、未来という言葉を聞いて希望を抱き、魔法にかかったような気持ちになれる世界で私は生きたい。

 

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人間と悪魔を分ける線

寝る前に開いたページで見つけた記事を、放っておくことは出来なかった。

全ての人間が人間のまま生きているとは思えない。実際、人間の皮を被った悪魔を何人も見てきた。「未成年」「未熟さゆえの過ち」「集団心理の暴走」この事件にそれっぽいフレーズは幾らでも付けられると思うが、そんなものは知らない。加害者たちの行動の意味を見つけようとしても、個人的にはそんなものがあるとは思えない。記事で書かれている行為は人間のそれではない。卑劣で残酷で鬼畜な行為。それ以上でも以下でもない。

清廉潔白に生きるべきだなんて考えは持っていない。そんな風に生きてこれなかったし、生きたいとも思わない。マイナススタートでも、紆余曲折があっても、どうにかこうにか立っていればいい、そう思って生きている。事情や状況は人それぞれだ。どうしようもなく流せない日は呑めばいいし、打てばいいし、巻けばいいし、吸えばいい。人に迷惑がかかる云々言う人は言う。それはその人の物差しであって、こちらの物差しではない。もっというと、人間どうこうと書いているが、なんなら人間じゃなくてもいいとさえ感じる日もある。あまりにも周りの考えや行動に馴染めない時、「自分は人間じゃないんだ」と思うだけで、気持ちが軽くなり呼吸が出来るようになる。そういった具合に十人十色の思考が入り乱れても、「線」というものはある。これもこちらが勝手に決めてることなのだが、その線は自分の中で確実に存在する。実際の暴力、及び、言葉の暴力を使って追い込み、人の心を折る。それだけでは飽き足らず、真っ二つになった心を粉々になるまで踏み潰す。そういった行為は引かれた線を飛び越える。人間と悪魔を分ける線を。

記事を読んでいる間、心が痛くて堪らなかった。性を使った継続的な脅しと暴力、そして絶望した後の諦め。書かれている内容が記憶と繋がって、悔しさと怒りで涙が出た。

痛みや恐怖や屈辱は、どれだけ歳を取っても消えない。錠剤や瞑想、タッピングなどで薄めても頭と体に染み付いていて取れない。真っ黒くなった感情は怒りを誘発し、自己嫌悪を連れてくる。そうした負のサイクルに陥っている時は、線を超えて悪魔になった奴らの顔が決まって浮かぶ。

今回の事件の加害者たちは、少年法に守られて刑事責任を問われることはなかった。人一人を死に追いやっても、彼らの時間は止まらず、進み続ける権利を保証された。

この事件に限らず、それが現行の法律判断だから仕方がない、などと思ったことは一度もない。そんなこと思えるわけがない。以前、何とも出来ないやるせなさと向き合おうとして、「じゃあ、またね」という話を書いた。どんな思いが湧き上がっても飲み込もうと決めて進めたが、書き終えた時に心から感情移入できたのは、復讐に対して葛藤を抱く主人公よりも復讐をやり遂げた登場人物の方だった。それが現時点での線を超えた悪魔への本音であり本心。そこに年齢は関係ないと思っている。

軽装でマイナス17度の外へ出た14歳の女の子。

記事の中にあった彼女の写真と描かれた絵を心に刻む。

彼女が生きたこと、そして死を選んだことを忘れない。

朝は寝てるから夜しか知らない

助手席専用の不適合者

左から世界が流れていく

身分書なんて持ってない

フレンチクルーラーがご馳走だった

 

光を浴びろと人は言うけど

朝は寝てるから夜しか知らない

前を向けって人は言うけど

朝は寝てるから夜しか知らない

 

理想に火をつけて煙を吐き

アキレス腱を伸ばして歩く

くすぶってるのは社会のせい

「どうでもいい」で今日が溶けてく

アルコールに浸かれば壁はバラ色

錠剤と混ぜれば輝く虹色

揺れる景色に手を振って

布団の底に沈んで消える

 

光を浴びろと人は言うけど

朝は寝てるから夜しか知らない

前を向けって人は言うけど

朝は寝てるから夜しか知らない

 

そんな暮らしを続けていると

誰かが未来を決めつけてくる

そんな暮らしを続けていると

勝手に終わったと告げられる

 

今すぐ目を瞑って耳を塞げ

十五年後があの日の答えだ

偏見が呼吸を止めた時

出ていった心が戻ってくる

 

ここに生きてる自分以外に

自分のことなど誰も知らない

誰かがかけた呪いの言葉は

いつかの予言と一緒に崩れる

 

繰り返す毎日はいつか終わる

 

服を着替えて外に出ても

長く続いた夜を知ってる

何もかもが変わっていっても

過去があるから今を生きてる

 

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登場人物になれなかった14歳へ


映画「14歳の栞」予告 -90秒編-

 

トータル4本、合わせて約5分の予告編に、いつかの姿は見つけられなかった。

四角い教室の中ではしゃぐ14歳たち。表と裏、理想と現実、ほんの少しの時間だけであの時に感じた空気を作り上げるカットは心から凄いと思った。背伸びして上から見る角度も、机に突っ伏して眺める角度も、期間限定の単館上映。望むと望まざるとにかかわらず、同じ経験は二度と出来ない。

スクリーンに映し出された登場人物たちの等身大の姿。そこに俺や君のリアルがなくても、14歳という日々は確かにあった。作品の登場人物になれなくても、俺や君もちゃんと存在した。

彼らと同じような「ふつう」を送れなくても、取り残されているわけじゃない。彼らの「社会」から弾かれているように感じても、姿が消えるわけじゃない。

まるでいなかった者のように扱われたとしても、しっかりとここにいる。ここで息をしている。

あの頃、一度も話さなかったあの子は、何を考えていたんだろう

登場人物になれなかった14歳へ。

90%に向けた歌もあれば、10%に向けた歌もある。

誰も俺や君の歌を歌ってくれないのなら、自分たちで口ずさめばいい。

俺や君の目で見てきた、俺や君の世界を。

 

大丈夫、ちゃんと存在した。

14歳の栞を外してページを引きちぎっても、ちゃんとそこに存在したから。

 

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