スタジオ負け犬

 皆さま、お久しぶりです。

 お元気ですか? お元気でなくても、生きていますか? 暑いですけど、ご飯を食べていますか? 食べていなくても飲んでいますか? 下町のナポレオンに癒されていますか? たまには遊んでいますか? ボーリングとかやっていますか? 今年はスイカバーを買いましたか? プールに行きましたか? 水面に飛び込みましたか? 遊園地はどうですか? 帰りに欲しくもないキーホルダーとか買いましたか?

 夏がくるとソワソワするのは、大人になっても変わらないのだと実感しました。ソワソワするからといって、日常が様変わりするわけではないのですが、太陽の照りが強くなって首筋にジワッと汗をかくようになると、起きて寝るまでのルーティンの中で思い出す記憶の内容は、夏とそうでない季節とで大きく変化します。

 ラジオから流れる曲のように、次に何がくるのか予想できないのが記憶の面白い(恐ろしい)ところで、いわゆる『フトした時』に浮かぶ場面は、「ヘイ、シリ」でも「ハロー、アレクサ」でもコントロール不可能な代物だと思います。ちなみに最近のお気に入りは、「ブルーハワイの扇風機に当たりながら、夜更かしして『ねるとん』を観る」という子供の頃の思い出で、付属メモリーは「ミズノのCM」「半凍りのチューペットいっぽん飲み」「鮭を咥える熊の置物」といった、私的昭和オールスターズとなっております。

 前置きが長くなりましたが、Amazon Kindleストアで電子書籍「スタジオ負け犬」を出版しました。表紙は敬愛する深海武範さんに描いて頂きました。何と言いますか、喜びを通り越して、家宝です。嬉しさが収まりきらない時に口から出るのは、何かしらの文ではなく、濁音をふりかけた感嘆詞の連続だということを再確認しました。

 以下が本のあらすじと、商品ページのリンクになります。よろしければ読んでみてください。

 ありがとうございました。

 

 

 

 

1998年3月某日の深夜、発泡酒をぶっかける

区切りをつけるという行為は、とても大事なことだ。

今いる場所、状況、従事している事柄から距離を取り、関わり合いを断つ。それは何かを成し遂げた後でも、中途半端な状態でも構わない。とにもかくにも「終わり」と決めて、さよならするのが重要なのだ。

去年の3月から区切りをつけられない毎日を生きている。でもそれはきっと、私だけではないのだろう。

北国特有の長い冬が終わり、街中いたる所に色が付いて木々も青々としてきた。ひと足先に自然界が衣替えを終えても、人間界に住む私は足踏みしたままだ。

半地下にある職場の窓から気持ちよく晴れた日を見上げていると、さまざまな思いが頭に浮かぶ。喜怒哀楽バランス良く湧いてくるのならこの上ないが、最近はそうもいかない。猫で頭を満たそうとしても、新しい生活様式へと変わっていく社会への不安が思考を覆う。

好きな音楽をかけても頭に響かない時、私は心に残っている昔の場面を思い返す。そうすると、まとわりつく圧迫感が幾分ましになる。

ついこの間、整理できない「区切り」について考えていた時に浮かべたものも、忘れずにとっておいた20年以上前の記憶だった。

 

私は、1998年の3月を心待ちにしていた。

それは真っ黒だった高校生活が終わる月であり、逃避先として選んだカナダのバンクーバーへと出発する月でもあった。

やっと終わる、やっと逃げれる、やっと息ができる。私はドロップアウトすれすれだった状況からどうにか卒業まで漕ぎ着けられたことにたいそう浮かれ、のぼせ切ったようになっていた。

「優勝だ! 優勝した!」

嬉しい、の最上級を優勝だと捉えていた当時の私は、居場所をくれた仲間たちに優勝記念にビールかけをしようと提案した。熱にやられて周りが見えなくなった優勝男の戯れ言なのだが、彼らは案外すんなりとこの発案を受け入れてくれた。

 

(以下の内容は、今よりも規制が緩かった時代のお話です。もしくはフィクションです)

 

各々のバイト代と相談し合った結果、飲まないんだから発泡酒でいいだろ、となり、免許を取ったばかりの小金持ち友人の運転で量販店に向かった。最悪無理なら自販機巡りになるなと考えていたが、無事に数ケースの発泡酒をトランクに積み込むことに成功した。今でも印象に残っているヨタヨタ運転で小金持ち友人宅へと戻った私たちは、発泡酒の上にビニールシートを被せて夜がふけるのを待った。

1998年3月某日深夜、私たちと発泡酒が乗る車はいつもの集まり場所である国道沿いの公園に到着した。

人影がないことを確認して、トランクから酒の箱を運び出す。事前に示し合わせていた通り、殆どのメンバーはそれぞれの高校の制服に着替えを済ませていた。

「残したくないから、制服は終わった後に燃やしてしまおう」それが私たちの計画だった。

自然と円陣を組むような形でスタンバイして、手に持った発泡酒を勢いよく振る。

「優勝おめでとう!」

「おめでとう!」

みな口々にそう叫び、深夜の発泡酒ぶっかけ祭りはスタートした。

私のイメージでは華々しく「イェーイ!」となる予定だっだのだがそうはならない。正確には、ならないのではなく、なれなかった。スプラッシュしたアルコール液が目に入って痛い。いや、痛いなんてものではない激痛で目が開けられなかったのだ。それまで生きてきた中で優勝した経験もビールかけをした経験もなかった私にとって、この激痛は想定外だった。

これは、テレビで観たやつと違う。「イェーイ!」とピースして笑う野球選手のイメージは開始直後に崩れ去った。

発泡酒をぶっかけ合って分かったのだが、まず襲ってる感覚が「痛い」で、その次に忍び寄るのが「臭い」だった。これも予想外だったが、発泡酒漬けになった制服が臭くってたまらない。何だか、人の気力を奪い取る臭いだった。

抱いていた華やかな絵面とかけ離れた発泡酒ぶっかけ祭りは、目や皮膚を刺す痛みと異臭のコラボレーションでトランス状態になり、奇声を発しながら痛臭水を浴びせ合う狂乱の宴と化した。

祭りの後に訪れるものは虚無感だと相場は決まっている。

もちろん私たちが催した奇祭も例に漏れず、全ての缶を弾けさせた後に残ったものは、何とも言えない虚しさと痛みと臭みだった。

口数も少なく、持参したゴミ袋に黙々と空き缶を入れる我々の姿は優勝した者のそれではなく、一回戦敗退で甲子園の土を拾う高校球児そのものだった。

3月は冬ではないが夏でもない。どう考えても、異臭を漂わせてびしょ濡れで外にいる時間でないことは明白で、寒くて仕方がなかったことを覚えている。

「燃やす」と宣言した手前あとに引けず、罰ゲームのような感覚で制服を脱いで一箇所にまとめ、ホワイトガソリンをかけて火をつけた。そう、確かに着火したのだが燃えない。燃えるはずがない。少し頭を使えば分かるのだが、びっしょびしょに濡れた衣類は火をつけようがびしょびしょのままなのだ。 

痛くて臭い思いをしたのに燃えてなくならない制服。何の反応もなく横たわるその様子は、自分の高校生活そのものを表しているようだった。

 

想像通りにはいかず、成仏できない感情は中途半端な不燃物になった。それでも、ベタついた発泡酒を熱いシャワーで流したその日、一旦の区切りはつけられた。何も解決していなくても、背中を向けて逃げ出すことができたのだ。

あれからずいぶん時は流れ、私は色々なことに区切りをつけて生きてきた。縁やタイミング、猫や人に助けれられ、奇跡的に自分を捨てずにやってこれた。

今、目の前に、どう区切りをつけて良いのか分からない事柄がある。背伸びをして先を見通そうとしても真っ白で何も見えない。

どうなるんだろう。どうするんだろう。そんな思いばかりが顔を見せる夜が続く。

区切りをつけたいと願っている。

そんな日が来ることを願っている。

傷つかず、傷つけず、押し付けず、押し付けられず。そんな形でトンネルを抜けられたら、今度こそ発泡酒ではなく、盛大にビールでぶっかけ合いたいと思う。

 

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それは、「未来」という魔法だった

「未来」という言葉に希望が含まれていた少年時代、ブラウン管の中にはサトームセンのジャガーや、オノデン坊やが息をしていた。

元気があった街の本屋にはジャンプやマガジン、コロコロやファミ通といったカタカナの少年誌が平積みされており、高橋名人や毛利名人が競ってファミコンの腕前を披露していた。

私は、アナログとデジタルの狭間に生まれた。

機種変更やモデルチェンジを含め、今までなかったものが生まれ、そして消えていった様を数多く見てきた。それらは私にとって、「未来」という魔法だった。

 

ビデオデッキ

世に出た後に、随分遅れて我が家にやってきた未来機器。

一言でいうと、タイムマシーンだった。

どうでもよいCMを録画し、すぐに再生する。そうすると、ついさっき見た映像がそっくりそのまま画面に流れた。

ボタンひとつで時間が操れる角ばった箱は、夢でしかなかった。

このドリームマシーンのおかげで、巨人戦の裏番組を後で視聴できるというミラクルが発生した。

 

ゲームボーイとスーパーファミコン

何ともいえない大人の事情で手に入れることになった超小型モノクロファミコン、ゲームボーイ。入手経路が微妙だったために見てみぬフリをしていたが、いつのまにか虜になった。魔界塔士サガとの出会いで夜更かしを覚え、朝と夜が入れ替わったのもこの頃。極小の音量でラジオを聴きながら夜中にピコピコボタンを弾く近未来生活は至福以外の何物でもなかった。

「未来ボックス」であるファミコンを凌駕した「超未来ボックス」スーパーファミコンは、全てが規格外だった。

ボタンが4つ。しかも色付き。パッと見、m&m'sのチョコレートが埋め込まれているように感じるコントローラーは、欲張りを具現化したかのようなデザインだった。

先代であるファミコン同様、ゲーム応援係に回ることが多かったが、ブラウン管に映し出された立体感に魅了された。

 

テレビデオ

はじめてのバイト代をつぎ込んで手に入れた未来。

テレビとビデオが一体になった奇跡の融合体。

これひとつで砂壁の四畳半が月9に出てくる華やかな部屋に姿を変えた(気がした)。

テレビデオさえあれば、襖が破けていてもオシャレルーム。小田原と書かれた提灯がぶら下がっていてもオシャレルーム。橋本真也のポスターが貼ってあってもやっぱりオサレなルームになった。

ある程度のものは何とか誤魔化せてしまう七味唐辛子のような未来を手に入れたことで、長年相思相愛だったラジオと距離が出来てしまった。

 

PlayStation

未来の終着駅、すなわち、欲張りの終着点。

オープニング画面なんて、なんなら映画じゃないか。

カセットがCD? なんでCDに映像が入るんだ? え、カセットじゃなくてソフト?

新しい情報の群れが一斉に飛び込んできて回線がパンク状態。プールから水が溢れ出す感覚で、理解を完全に超えた瞬間。

映像欲が落ち着いた後は、もっぱらサウンドノベルやアドベンチャーの虜に。応援係にならなくてよいゲーム。自分のためにするゲーム。

PS版の弟切草、かまいたちの夜に時間を捧げ、神宮寺三郎とトワイライトシンドロームを抱きしめて部屋に籠もった。

 

セガサターンとドリームキャスト

せがた三四郎と湯川専務が運んできた未来。

小学生の頃にメガドライブを持っていたセガ贔屓の友人がゲットした進化版。

あの当時、セガとソニーはコーラとペプシのような関係だった。少なくとも私はそう感じていた。だからセガが作ったゲーム機はプレーステーションと同じ世界にはいない。何というか、コーラを飲んでいる自分とペプシを飲んでいる自分が同じ空間にいないように感じる現象と一緒で、セガのゲーム機とソニーのゲーム機は、パラレルワールドのように決して交わることのない線の上を進んでいる感覚を覚えた。

こちらの世界では姿を消したセガサターンとドリームキャストだが、あちらの未来世界では2、3、4と続編機を出しているに違いない。

 

CD-ROMという未来型円盤に収録された、Ken Ishiiの"Extra"

ミュージックビデオは、歌手が歌って踊るものだと思っていた。もしくは海岸線を物憂げに歩いたりするものだと。そんな自分の思い込みを打ち砕いた未来型円盤に収められていた映像。

衝撃だった。生まれてはじめて、頭の中を撃ち抜かれた。

未来を纏ったMVを観たその日から、音楽に対しての価値観が覆された。

 

Windows 98とNINTENDO64

そのミュージックビデオを流したパソコンという新未来型マシン。

新聞配達業務に削られ、高校から遠ざかっていた頃に出会った正真正銘のフューチャーマシン。未来を超えた先にあったリアルフューチャー。アンコ型ボディに搭載されたテクノロジーに触れて、世界がおかしくなった。

最先端すぎて扱えない。所有者であった友人も同様だったようで、ネットサーフィンというものを実行しては波に飲み込まれ、電子の海の底に沈むのが常だった。

そんなパソコンと、3D世界を四つのコントローラーで遊べるタコ足配線未来ゲームNINTENDO64を抱え込んでいた小金持ちの友人部屋に居座るようになり、家にいる時間が極端に減った。

未来に触れると、それまでの生活が一変してしまうんですね。

 

ポケベル

制服のポケットに入れた未来。

公衆電話というアナログ機のボタンを早打ちして信号を送る優れもの。まさに過去と未来のコラボレーション。

持ってることにステータスを覚えてしまい、ポケベルが鳴らなくてもバイト代をつぎ込む羽目に。本来の存在意義を忘れたポケット未来はコレクターズアイテムと化した。

クラスで目立つ子はだいたい薄型ボディのテクノジョーカーを装備しているか、センティシリーズをキラキラデコレーションでシノラーくるくるにしていた。

そういう時代だった。

 

PHSと携帯電話

PHS。又の名をピッチ。

言葉の響きが既に未来。三文字の疾走感がポップでキャッチーでフューチャー。

ポケットに忍ばせていた鳴らない旧未来を取り出し、細長の新未来に入れ替える。

機体にきらめくASTELの文字。あやしく光るグリーンライト。アンテナを空に伸ばせば、狭い教室を飛び抜けられた(気がした)。

ベルからピッチに進化しても、黙っている時間ばかりなのは通常運転。それはニューエラという大気圏に突入した携帯電話になっても同じで、高校を半ば放棄して稼いだ新聞配達の銭を、試しに鳴らすだけの着信音や誰も見ることのない壁紙に貢ぐ生活を送った。

四畳半で開くハーフノートジャズのページ。がっつり課金されて四和音でダウンロードする『我が心のジョージア』を流して悦に浸っていた。

私はアムラーにもシノラーにもハマダーにもなびかない、そんな未来を生きるのだと息巻いて、テレビデオで擦り切れそうな『さんぴんCAMP』を観ていた。

携帯電話に付けたストラップは桃屋のごはんですよ。それが個性だと思っていた。

 

iPodと少しのiPhone

iPod。今まで気が触れたように未来、未来と繰り返してきたが、私の中ではこのデジタルオーディオプレイヤーがこれまでで一番のフューチャーショックだった。

これぞ、未来。いや、未来というか宇宙。だってカセット(ソフトor CD)を入れなくていいんだもん。

時代の最先端に触れてみようと背伸びしてMDを買った自分をこんちくしょうと恨んだ。あと少し待てば宇宙が掴めていたではないかと。

Windows 98とNINTENDO64を所持していた小金持ちの友人のiPodをいじり倒しては、中央のサークルをクルクル回すたびに聞こえるカチカチ音に酔いしれていた。

シノラーくるくるが混沌とした時代の傾奇者だとしたら、こちらのクルクルは時代という概念を超越したスペースフロンティアだった。

真っ平らな液晶画面で全てを完結させるiPhoneやタブレット端末も疑うことなく宇宙なのだが、その全てが初代iPodのアップデート版に思えてしまって、カセットいらずのクルクルジュークボックスの時に受けたビッグバン級の衝撃を感じることは出来なかった。

 

iPodの未来的大爆発以降、私のビックリドッキリ未来は止まってしまった。

いわゆるひとつの大人になった訳でも、何にでも冷めてしまった訳でもないのだが、オノデン坊やと遊んでいた時に描いていた未来予想図は霧が晴れるように消えてしまった。

私のドキワクが立ち止まってからも当たり前のように時代は進み、新しいテクノロジーもたくさん登場した。AIを筆頭に、自動運転や顔認証、いつでもどこでも繋がれるSNSに、電子決済。ドローンも空を飛んでいるし、スーパーでは普通に培養肉が売られている。

スライドとタップだけで殆どの用事は済んでとても便利になった。でも、何かが違う。うまく説明できないのだが、心の中に「こんなんじゃない」感が常にある。

胸がおどらないというか、しっくりこないというか、とにもかくにもこんなんじゃないのだ。

すっきりしない違和感をかき分けて探しているのは、金曜ロードショーで観たバックトゥザフューチャーや、夢中で読んだ漫画の中にあった未来。ドラゴンボールのエンディングテーマの言葉を借りるとしたら、「ロマンチック」な未来なのだと思う。

24時間365日誰かと繋がれなくてもいい。世界中どこにいても自分の居場所が誰かに伝わるアプリもいらないし、スライドとタップだけで生きていけなくても構わない。

ソファーに寝転んでポチッと出来る便利さよりも、ロマンチックが欲しい。

バケツいっぱいの混乱をぶちまけたかのような現状の先に何が待っているのか分からないが、未来という言葉を聞いて希望を抱き、魔法にかかったような気持ちになれる世界で私は生きたい。

 

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人間と悪魔を分ける線

寝る前に開いたページで見つけた記事を、放っておくことは出来なかった。

全ての人間が人間のまま生きているとは思えない。実際、人間の皮を被った悪魔を何人も見てきた。「未成年」「未熟さゆえの過ち」「集団心理の暴走」この事件にそれっぽいフレーズは幾らでも付けられると思うが、そんなものは知らない。加害者たちの行動の意味を見つけようとしても、個人的にはそんなものがあるとは思えない。記事で書かれている行為は人間のそれではない。卑劣で残酷で鬼畜な行為。それ以上でも以下でもない。

清廉潔白に生きるべきだなんて考えは持っていない。そんな風に生きてこれなかったし、生きたいとも思わない。マイナススタートでも、紆余曲折があっても、どうにかこうにか立っていればいい、そう思って生きている。事情や状況は人それぞれだ。どうしようもなく流せない日は呑めばいいし、打てばいいし、巻けばいいし、吸えばいい。人に迷惑がかかる云々言う人は言う。それはその人の物差しであって、こちらの物差しではない。もっというと、人間どうこうと書いているが、なんなら人間じゃなくてもいいとさえ感じる日もある。あまりにも周りの考えや行動に馴染めない時、「自分は人間じゃないんだ」と思うだけで、気持ちが軽くなり呼吸が出来るようになる。そういった具合に十人十色の思考が入り乱れても、「線」というものはある。これもこちらが勝手に決めてることなのだが、その線は自分の中で確実に存在する。実際の暴力、及び、言葉の暴力を使って追い込み、人の心を折る。それだけでは飽き足らず、真っ二つになった心を粉々になるまで踏み潰す。そういった行為は引かれた線を飛び越える。人間と悪魔を分ける線を。

記事を読んでいる間、心が痛くて堪らなかった。性を使った継続的な脅しと暴力、そして絶望した後の諦め。書かれている内容が記憶と繋がって、悔しさと怒りで涙が出た。

痛みや恐怖や屈辱は、どれだけ歳を取っても消えない。錠剤や瞑想、タッピングなどで薄めても頭と体に染み付いていて取れない。真っ黒くなった感情は怒りを誘発し、自己嫌悪を連れてくる。そうした負のサイクルに陥っている時は、線を超えて悪魔になった奴らの顔が決まって浮かぶ。

今回の事件の加害者たちは、少年法に守られて刑事責任を問われることはなかった。人一人を死に追いやっても、彼らの時間は止まらず、進み続ける権利を保証された。

この事件に限らず、それが現行の法律判断だから仕方がない、などと思ったことは一度もない。そんなこと思えるわけがない。以前、何とも出来ないやるせなさと向き合おうとして、「じゃあ、またね」という話を書いた。どんな思いが湧き上がっても飲み込もうと決めて進めたが、書き終えた時に心から感情移入できたのは、復讐に対して葛藤を抱く主人公よりも復讐をやり遂げた登場人物の方だった。それが現時点での線を超えた悪魔への本音であり本心。そこに年齢は関係ないと思っている。

軽装でマイナス17度の外へ出た14歳の女の子。

記事の中にあった彼女の写真と描かれた絵を心に刻む。

彼女が生きたこと、そして死を選んだことを忘れない。

ミレニアム前後のセレナーデ

シーブリーズを首もとにふりかけた女の子が、あぶらとり紙で頬についた98年を拭き取った。クラスで目立つグループに入っていた生徒は、だいたい「よーじや」を使っていて、1、2年前まで愛用していた白いルーズソックスの代わりに、シュッとしたラルフのハイソックスを履いていた。

売れている音楽を悪だと勘違いしていたあの頃の私は、借りてきたアイデンティティにならって3、4番手がイケてるのだと信じて疑わず、シーブリーズでもギャツビーでもなくGymを選んで、暇さえあればプシュープシューとノズルを押していた。

どうしようもなく息苦しくて、嫌なことばかりだった毎日。それでも笑ったり笑われたり、騙したり騙されたりしながら、窓の外を眺めて6時間目が終わるのを待った。

行ってもいいコンビニと行ってはいけないコンビニを見分けるのがあの頃を生き残るコツで、何も知らないうちは誤って魔窟へと足を踏み入れてしまい、入り口付近を占拠する鬼たちに「パーティー券」と呼ばれる紙クズを押し付けられ、バイト代をむしり取られたりした。ここなら安全だろ、と向かったデイリーヤマザキでさえ、曜日と共に移動するノマド的な鬼に捕まることもあり、全く気が抜けなかった。

ジョーダン狩り、エアマックス狩り、リーガルのローファー狩り、紺色ラルフのベスト狩り、クロムハーツ狩り(手が届く代物ではなかったが)などといった世紀末の名に相応しいワイルドワイルドウエストの荒野に放り込まれた私は、ラッシュの小瓶が転がる駅前を抜けて、完全自殺マニュアルが平積みになったヴィレッジヴァンガード脇でミスティオを飲み、身分証提示を必要としない合法と非合法がごっちゃ混ぜになった世界をすっ転びながら生きた。

デスクトップでもラップトップでもタブレットでもなかったアンコ型の「パソコン」はあの当時まだまだ遠い存在で、四角いセンティーAの殻を破り、小型化に成功したPHSを手に入れても、ライトグリーンに光る狭いスクリーンは世の中の不思議を何一つ教えてはくれなかった。

目に見えるもの殆どが不透明だったミレニアム前後、距離で言えばSiriよりも一太郎の亀の方が断然近くにおり、私は所轄の刑事よろしく、とにかく足を動かして街を彷徨い、雑誌をめくっては漠然とした情報を集めて、DA.YO.NEの向こう側にある宝物を探し求めた。知らないということは時として幸せなことであり、何百何千のレビュー代わりに信じるのは自分の感性で、CDのジャケット買いを繰り返しては、ナンバーワンになり得ないもっともっと特別なオンリーワンを見つけ出せたぞ、と自惚れられる自由さがあった。それは服や映画も同じで、下北のシカゴで古着を買えば、その服のデザインがどうあれ、めちゃくちゃオシャレに感じたし、金曜ロードショーの常連作品以外の映画を鑑賞すれば、とんでもなくディープな世界に浸れた気がした。四畳半の薄暗い部屋に閉じこもっていても、ソニーのヘッドホン越しに人間発電所やペーパードライヴァーズミュージックを耳に流せば、気分はMTVトップチョイスになれた時代だった。

10代後半から20代前半のセレナーデ。深夜過ぎに終わったバイト帰りの国道で2000年サングラスをかけた集団とすれ違った時、自分自身の今後も含め、本当に何もかもが漠然としていた。予想に反して1999年に世界は滅びず、勝手に世紀だけが変わってしまった社会で生きていく見通しがつけられなかった私は、だんだんとその場限りの快楽に逃げるようになり、新しい時代と歩調を合わすようにスピードを上げていく周りの人たちを羨んでは悪態をつき、布団の中に潜るようになった。

絶対に戻りたくはないけれど、所々ではちゃんと楽しかった日々。大嫌いで吐きそうな日々だったけれど、不透明な分ワクワクが多かったミレニアム前後。

あの頃に対する拒否感が薄れていき、浮かべる場面が増えていくほど、記憶は思い出に変わり、とんでもなかった時間に対して愛おしさが生まれる。

歳を重ねれば「あの頃」と踊れるものだと言われたことがあるが、あながち嘘でもないらしい。

これから世界がどうなろうとも、記憶が思い出に変わっていくのなら、生きていくのも悪くない。

今年の3月から見てきた混乱とも、いつの日かステップを踏める日がくるのだろうか。

どうして良いのか分からない規制が並び、手足を縛られた感覚に押し潰される時もあるけれど、近い将来、2020年前後のセレナーデが歌えることを願って、今日も眠りにつきたいと思う。

 

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赤い爪

雨が降っても開かない傘

帰れない火曜日に石を投げる

 

肌色が透ける磨りガラス

必死に動いてバカみたいだね

 

赤い靴下に真っ赤な下着

足の爪まで朱色に染まった

 

欲望は美しいって言われたって

子供に分かるわけないだろって

 

チューインガムで貼り付けた似顔絵

ペラペラの薄さでヘラヘラ笑う

鉛筆を回して尖らせた感情

突き刺した紙の目がこっちを見てんだ

 

消えない影は伸びた髪の毛

しつこく絡んで首を絞める

 

目を閉じても寝れない真夜中

苦しくなったら鏡を覗きな

 

目を背けなきゃ会えるから

あん時の自分に会えるから

 

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腕を伸ばして手を握ってくれ
自分を救えるのは自分だけだ

 

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衝動解放活動

楽しい時間はあっという間に終わる。

本当に同じ尺を使っているのかと疑いたくなるほど、楽しい時とそうでない時の体感差が激しい。それはもちろん集中しているか否か、脳内のナンチャラ成分が分泌されているか否かなどと言ってしまえばそれだけの話なのだが、どうもその説明では素直に納得できない。

まだ私が日本にいた頃、銀色の髪をした恐ろしい人の部屋に閉じ込められたことがある。『閉じ込められた』と言うと表現が強くなってしまうが、拉致や監禁ではなく、軟禁だ。

「お前、エヴァンゲリオン知ってるか?」

地元の駅で数年ぶりに再会してしまった恐ろしい中学の同級生は、銀色の髪をしていた。

「お前、エヴァンゲリオン知ってるか?」

私がその時、彼にどう返答したのか覚えていないが、しばらくして何故に何故だか私の体はその銀髪さんが住むアパートにテレポートしていた。時期が夏だったので、酷く蒸し暑い部屋だったことを記憶している。

鬼のようだった中学時代の銀髪さんと、新世紀エヴァンゲリオンとの接点を見出せないまま固まっていると、何の説明もなくビデオデッキにテープが差し込まれた。

「おもしろいから観ろよ」

銀髪の鬼はそんな感じの言葉を口にして、私の横に座った。

残酷な天使のように

少年よ神話になれ

早送り機能が壊れていたのか、もしくはアニメの主題歌に惚れ込んでいたのかは定かでないが、銀髪鬼はそのオープニングテーマを決して飛ばさなかった。

例えどんなに素晴らしいものであっても、受け取る状況によってその印象は大きく変化する。

まだ外が明るいうちに閉じ込められ、辺りが完全に暗くなるまでの間、蒸し暑い部屋で延々と主題歌付きの映像を観させられたせいで、エヴァンゲリオンのイメージがとんでもないものになってしまった。

終わりなきスパイラルのように繰り返された『残酷な天使テーゼ』、そのタイトルが全てを表しているかのような状況で、無言の圧力を感じながら碇シンジの憂鬱と共に時間を過ごした。

今考えても、何故あの時あの蒸し暑い部屋で強制的にエヴァンゲリオンを視聴させられたのか分からない。彼が夢中になった作品の伝道活動だったのかもしれないが、もしそうなら逆効果であり大失敗だ。

私が彼の部屋に軟禁されている間、その場に流れる時間の進みがすさまじく遅かった。アニメの30分枠があれほどまでに長く感じたのは、後にも先にもあの蒸し暑い部屋で観たエヴァンゲリオンだけだった。

 

1日を構成する時間は24で区切られていて、その24の内訳が60だということに異論はない。そして、それらの数が毎日変わらず平等に私たちに配られていることも理解している。だがその事実から数字という概念を取っ払うと、時間は平等なものではなくなるはずだ。……そう、なくなるはずだと言い切りたいのだが、実際のところはよく分からない。

ただ、「1日は24時間で1年は365日だから絶対的に時間は平等!」という説明よりも、「時間は状況次第で速くも遅くもなるから、24時間じゃないかもしれないし、365日でもないかもしれないので平等とは言えない」と説かれた方が腑に落ちるのだ。

楽しい時間とそうでない時間が選択肢としてあるのなら、もちろん楽しい時間を選んで生きていきたい。気が付いたら1、2時間などパッと過ぎてしまっているあの感覚だ。

年を取ったら落ち着くものだ、などと言う定説に賛同する気はないが、年を取ることでいわゆる「あの頃」におこなっていた衝動解放活動の回数は確実に減ってしまった。ここで言う衝動解放活動とは、心が躍る行為であり、もっと平たく表現すると「楽しくて好きで仕方のないこと」である。他の誰かのためではなく、湧き上がる思いを自ら肩に担いで走り回る衝動解放活動。私の頭の中にある「これぞ」という感覚を、さかもツイン id:sakamotwinのねねさんが記事に書いておられた。

『火曜サスペンスごっこ』と銘打たれた彼女の活動は、私が思い描く衝動解放活動そのものだった。ねねさんが取り組んでいる『火曜サスペンスごっこ』とは如何なるものかは、以下の写真で確認して頂きたい。

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1枚目は写真自体が話してくれているので、何の説明もいらない。最初の写真も素敵なのだが、私のお気に入りは2枚目だ。誰もいない波止場、遠くに見える工場の夜景、その光が映った日没後の海、といった火曜サスペンス的な要素が詰め込まれたザ・火サス的なフォトグラフで、「何ともまぁ」という気分になった。

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学生時代50m12秒台の栄光は波より遅いダッシュとして今も私のなかに輝き続ける。

適切に表現できないのだが記事内にある上記のフレーズを目にした時、昔大好きだった炭酸飲料が頭に浮かんだ。「そうだよな、やっぱライフガードだよな」という感情が弾け、液晶画面に向かって何度も頷いた。

上に貼ったリンクの見出しにもあるように、大きな声を出して走り回ったり笑ったりしたほうがいいと、個人的にも強く思う。それは彼女のように実際に体を動かしても、体ではなく心を動かしてもどちらでも良いのだと考えている。

フワッとしたイメージが景色になり、映像に変わって色がつく。そこに音と匂いが入って会話が始まると「よしっ!」となる。胸が高鳴ると楽しい。頭の中で生まれた世界がオンギャーと歩き出した気がして嬉しくなる。その感覚は小説を書いてる時や自分の街を作ってる時だったり、シャワーを浴びている最中に現れるのだが、忙しさにかまけているとすぐに何処かへ行ってしまう。

COVID-19が日常を変える半年ほど前、私は仕事を通して自分の承認欲求を満たそうと決めて昇進のオファーを受けた。その決断が自分の周りにかかるモヤを吹き飛ばすと考えていたからだ。書く時間を犠牲にしてでも、心の隙間を欲で埋めれば総合的に見てプラスに働くものだと思っていた。

でも、違った。私の選択は間違っていた。

心と距離が離れた場所で承認欲求を満たそうとすると、穴の空いた袋にビー玉を詰め込んでいる気分になる。どれだけ玉を入れたところで、袋が満たされることはない。

(これはマズイことになった)

底が抜けた袋を手にしていたことに気付き、慌てて床に散らばったビー玉を回収していると、予告もなしに空からパンデミックが降ってきた。

(とんでもねぇことになった)

穴の空いた袋を手放し、必死に集めたビー玉を放り投げた私は、とんでもねぇことになった社会に対応するため、とんでもねぇ空気になっている会社の会議に参加した。

『マネージャー陣は基本継続して勤務』という有無を言わせない方針が決まり、訳が分からぬまま消毒グッズに囲まれる日々が始まったのが3月中旬。その少し前に、カナダ政府が4ヶ月を上限に月々2000ドルを個人に支給するという政策を耳にしていた私は、半年前に自分が下した決断を深く後悔した。

4ヶ月間の合計労働時間=0hrs

4ヶ月間の合計不労収入=$8000

上の数字は夢だ。言うなれば、エンジェルナンバーだ。

あのまま社員でいたら、4ヶ月間書き放題だったじゃないか。つまり、昼過ぎに起きてチョコが付着したビスケットをかじりながらコーヒーを飲み、好き放題猫んズと戯れてラーメンなどを食い、気になる事件を調べた後にストリートビューで多摩ニュータウンに舞い降りることができたわけだ。

半年前の自分が享受できたであろう生活が頭をかすめ、「何やってんだよ!」という感情が腹の底から湧き上がった。

そもそも動悸が不純だった。決して承認欲求が悪い訳じゃない。対象をすり替えたのがいけなかった。エリーゼを強く欲してる時に、ルマンドやバームロールでは替えがきかない。ルマンドもバームロールも美味しいのだが、そういう問題ではないのだ。それに、承認欲求と衝動解放活動を天秤にかけること自体おかしい。このふたつは全く別物であって比べる対象ではない。たけのこの里を食べたらきのこの山が食べたくなるように、両者の関係が「衝動解放活動ー承認欲求」と付随するのなら分かる、でもmeijiの二枚看板を計りにかけちゃいけない。まさに、「何やってんだよ!」だ。

今回の騒動しかり、自分の昇進の件しかり、物事は何か意味があって起こっているのだと信じている。本当の本当など分からないが、ただそう信じている。自分の身に起こったことを全て都合よく捉えるならば、このきっかけがなければ承認欲求と衝動解放活動の違いをこういった形で意識することができなかったのかもしれない。今の仕事を辞める気はないが、今後何かの決断を下す時は衝動解放活動を最優先に考えようと心に決めた。食べていくことの次に大事なことは、嬉しくて楽しいことだ。嬉しくて楽しい時間が続くと、承認欲求は影をひそめる。きっと、使う脳みそが違うのだろう。

 

どうせなら、嬉しく生きる。

どうせなら、好きに咲く。

 

楽しくて好きで仕方がないから、私は書いているんだ。

 

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