「未来」という言葉に希望が含まれていた少年時代、ブラウン管の中にはサトームセンのジャガーや、オノデン坊やが息をしていた。
元気があった街の本屋にはジャンプやマガジン、コロコロやファミ通といったカタカナの少年誌が平積みされており、高橋名人や毛利名人が競ってファミコンの腕前を披露していた。
私は、アナログとデジタルの狭間に生まれた。
機種変更やモデルチェンジを含め、今までなかったものが生まれ、そして消えていった様を数多く見てきた。それらは私にとって、「未来」という魔法だった。
ビデオデッキ
世に出た後に、随分遅れて我が家にやってきた未来機器。
一言でいうと、タイムマシーンだった。
どうでもよいCMを録画し、すぐに再生する。そうすると、ついさっき見た映像がそっくりそのまま画面に流れた。
ボタンひとつで時間が操れる角ばった箱は、夢でしかなかった。
このドリームマシーンのおかげで、巨人戦の裏番組を後で視聴できるというミラクルが発生した。
ゲームボーイとスーパーファミコン
何ともいえない大人の事情で手に入れることになった超小型モノクロファミコン、ゲームボーイ。入手経路が微妙だったために見てみぬフリをしていたが、いつのまにか虜になった。魔界塔士サガとの出会いで夜更かしを覚え、朝と夜が入れ替わったのもこの頃。極小の音量でラジオを聴きながら夜中にピコピコボタンを弾く近未来生活は至福以外の何物でもなかった。
「未来ボックス」であるファミコンを凌駕した「超未来ボックス」スーパーファミコンは、全てが規格外だった。
ボタンが4つ。しかも色付き。パッと見、m&m'sのチョコレートが埋め込まれているように感じるコントローラーは、欲張りを具現化したかのようなデザインだった。
先代であるファミコン同様、ゲーム応援係に回ることが多かったが、ブラウン管に映し出された立体感に魅了された。
テレビデオ
はじめてのバイト代をつぎ込んで手に入れた未来。
テレビとビデオが一体になった奇跡の融合体。
これひとつで砂壁の四畳半が月9に出てくる華やかな部屋に姿を変えた(気がした)。
テレビデオさえあれば、襖が破けていてもオシャレルーム。小田原と書かれた提灯がぶら下がっていてもオシャレルーム。橋本真也のポスターが貼ってあってもやっぱりオサレなルームになった。
ある程度のものは何とか誤魔化せてしまう七味唐辛子のような未来を手に入れたことで、長年相思相愛だったラジオと距離が出来てしまった。
PlayStation
未来の終着駅、すなわち、欲張りの終着点。
オープニング画面なんて、なんなら映画じゃないか。
カセットがCD? なんでCDに映像が入るんだ? え、カセットじゃなくてソフト?
新しい情報の群れが一斉に飛び込んできて回線がパンク状態。プールから水が溢れ出す感覚で、理解を完全に超えた瞬間。
映像欲が落ち着いた後は、もっぱらサウンドノベルやアドベンチャーの虜に。応援係にならなくてよいゲーム。自分のためにするゲーム。
PS版の弟切草、かまいたちの夜に時間を捧げ、神宮寺三郎とトワイライトシンドロームを抱きしめて部屋に籠もった。
セガサターンとドリームキャスト
せがた三四郎と湯川専務が運んできた未来。
小学生の頃にメガドライブを持っていたセガ贔屓の友人がゲットした進化版。
あの当時、セガとソニーはコーラとペプシのような関係だった。少なくとも私はそう感じていた。だからセガが作ったゲーム機はプレーステーションと同じ世界にはいない。何というか、コーラを飲んでいる自分とペプシを飲んでいる自分が同じ空間にいないように感じる現象と一緒で、セガのゲーム機とソニーのゲーム機は、パラレルワールドのように決して交わることのない線の上を進んでいる感覚を覚えた。
こちらの世界では姿を消したセガサターンとドリームキャストだが、あちらの未来世界では2、3、4と続編機を出しているに違いない。
CD-ROMという未来型円盤に収録された、Ken Ishiiの"Extra"
ミュージックビデオは、歌手が歌って踊るものだと思っていた。もしくは海岸線を物憂げに歩いたりするものだと。そんな自分の思い込みを打ち砕いた未来型円盤に収められていた映像。
衝撃だった。生まれてはじめて、頭の中を撃ち抜かれた。
未来を纏ったMVを観たその日から、音楽に対しての価値観が覆された。
Windows 98とNINTENDO64
そのミュージックビデオを流したパソコンという新未来型マシン。
新聞配達業務に削られ、高校から遠ざかっていた頃に出会った正真正銘のフューチャーマシン。未来を超えた先にあったリアルフューチャー。アンコ型ボディに搭載されたテクノロジーに触れて、世界がおかしくなった。
最先端すぎて扱えない。所有者であった友人も同様だったようで、ネットサーフィンというものを実行しては波に飲み込まれ、電子の海の底に沈むのが常だった。
そんなパソコンと、3D世界を四つのコントローラーで遊べるタコ足配線未来ゲームNINTENDO64を抱え込んでいた小金持ちの友人部屋に居座るようになり、家にいる時間が極端に減った。
未来に触れると、それまでの生活が一変してしまうんですね。
ポケベル
制服のポケットに入れた未来。
公衆電話というアナログ機のボタンを早打ちして信号を送る優れもの。まさに過去と未来のコラボレーション。
持ってることにステータスを覚えてしまい、ポケベルが鳴らなくてもバイト代をつぎ込む羽目に。本来の存在意義を忘れたポケット未来はコレクターズアイテムと化した。
クラスで目立つ子はだいたい薄型ボディのテクノジョーカーを装備しているか、センティシリーズをキラキラデコレーションでシノラーくるくるにしていた。
そういう時代だった。
PHSと携帯電話
PHS。又の名をピッチ。
言葉の響きが既に未来。三文字の疾走感がポップでキャッチーでフューチャー。
ポケットに忍ばせていた鳴らない旧未来を取り出し、細長の新未来に入れ替える。
機体にきらめくASTELの文字。あやしく光るグリーンライト。アンテナを空に伸ばせば、狭い教室を飛び抜けられた(気がした)。
ベルからピッチに進化しても、黙っている時間ばかりなのは通常運転。それはニューエラという大気圏に突入した携帯電話になっても同じで、高校を半ば放棄して稼いだ新聞配達の銭を、試しに鳴らすだけの着信音や誰も見ることのない壁紙に貢ぐ生活を送った。
四畳半で開くハーフノートジャズのページ。がっつり課金されて四和音でダウンロードする『我が心のジョージア』を流して悦に浸っていた。
私はアムラーにもシノラーにもハマダーにもなびかない、そんな未来を生きるのだと息巻いて、テレビデオで擦り切れそうな『さんぴんCAMP』を観ていた。
携帯電話に付けたストラップは桃屋のごはんですよ。それが個性だと思っていた。
iPodと少しのiPhone
iPod。今まで気が触れたように未来、未来と繰り返してきたが、私の中ではこのデジタルオーディオプレイヤーがこれまでで一番のフューチャーショックだった。
これぞ、未来。いや、未来というか宇宙。だってカセット(ソフトor CD)を入れなくていいんだもん。
時代の最先端に触れてみようと背伸びしてMDを買った自分をこんちくしょうと恨んだ。あと少し待てば宇宙が掴めていたではないかと。
Windows 98とNINTENDO64を所持していた小金持ちの友人のiPodをいじり倒しては、中央のサークルをクルクル回すたびに聞こえるカチカチ音に酔いしれていた。
シノラーくるくるが混沌とした時代の傾奇者だとしたら、こちらのクルクルは時代という概念を超越したスペースフロンティアだった。
真っ平らな液晶画面で全てを完結させるiPhoneやタブレット端末も疑うことなく宇宙なのだが、その全てが初代iPodのアップデート版に思えてしまって、カセットいらずのクルクルジュークボックスの時に受けたビッグバン級の衝撃を感じることは出来なかった。
iPodの未来的大爆発以降、私のビックリドッキリ未来は止まってしまった。
いわゆるひとつの大人になった訳でも、何にでも冷めてしまった訳でもないのだが、オノデン坊やと遊んでいた時に描いていた未来予想図は霧が晴れるように消えてしまった。
私のドキワクが立ち止まってからも当たり前のように時代は進み、新しいテクノロジーもたくさん登場した。AIを筆頭に、自動運転や顔認証、いつでもどこでも繋がれるSNSに、電子決済。ドローンも空を飛んでいるし、スーパーでは普通に培養肉が売られている。
スライドとタップだけで殆どの用事は済んでとても便利になった。でも、何かが違う。うまく説明できないのだが、心の中に「こんなんじゃない」感が常にある。
胸がおどらないというか、しっくりこないというか、とにもかくにもこんなんじゃないのだ。
すっきりしない違和感をかき分けて探しているのは、金曜ロードショーで観たバックトゥザフューチャーや、夢中で読んだ漫画の中にあった未来。ドラゴンボールのエンディングテーマの言葉を借りるとしたら、「ロマンチック」な未来なのだと思う。
24時間365日誰かと繋がれなくてもいい。世界中どこにいても自分の居場所が誰かに伝わるアプリもいらないし、スライドとタップだけで生きていけなくても構わない。
ソファーに寝転んでポチッと出来る便利さよりも、ロマンチックが欲しい。
バケツいっぱいの混乱をぶちまけたかのような現状の先に何が待っているのか分からないが、未来という言葉を聞いて希望を抱き、魔法にかかったような気持ちになれる世界で私は生きたい。