残った欠片との別れ
雪が降った木曜の朝8時、ブラックももひきをはいた私は、リクライニングチェアーに腰掛けて、口を大きく開いていた。
目の前にはマスクをしたインド系歯科医。
彼のタレ目に見守られ、これでもかとリピートされるクリスマスソングに包まれながら、残り1本になっていた私の前歯は勢いよく引き抜かれた。
たくさん打たれた麻酔のせいで痛みはなかったが、歯がなくなった後、何とも言い表せない寂しさを感じた。
診察が終わってトイレに寄った私は、口をニカッとあけて鏡を見た。
何だかなぁ、という気持ちが心を覆う。
こんな羽目になった原因は分かっている。しかし、その時の私は、30代で全ての前歯とさよならすることになるとは思ってもいなかった。
私の前歯は、入れ歯だ。
抜き差しするタイプや、両脇の歯で支えるブリッジタイプではなく(支える歯が欠けているため、不可能)、口内の形状に合わせて、上の歯茎にカパッとはめる形をとっている。
カナダ(オンタリオ州)の医療費は基本無料だが、歯に関してはその制度が適応されない。
そのため多くの会社では、国がカバーしないビジョンケアやデンタルケアなどが含まれているベネフィットを従業員に提供しているのだが、取得するのに色々な制約があり、勤めていれば誰でも支給されるというものになっていない。
ベネフィットを利用せずに個人で歯の治療を進めようとすると、この国ではとんでもなくお金がかかるのだ。
こちらに移住して初めて入れ歯を作った時、私は何のベネフィットも持っていなかった。
もちろん働いていたのだが、当時勤めていた会社に人権などという言葉は存在せず、生きていくのに必死で声を上げる術も知らなかった私は、外国人労働者のど真ん中をいく扱いを甘んじて受けていた。
なので、診察後に告げられた金額を聞いた時は、悪寒がした。
(全額負担治療、マジでおっかない)
私は、そんなおっかない思いをして作った入れ歯を、いちど失くしたことがある。
食事を取る際、私は入れ歯を外す。
カパッとはめた入れ歯の隙間に、食べかすが入り込む感覚が嫌だからだ。
「外したら、失くさないように専用のケースに入れてくださいね」
真っ白な歯をした受付スタッフに渡された、アマガエル色をしたケースが何だか好きになれず、雪のように白い歯をしたお姉さんの言い付けを守らずに、その辺にある紙ナプキンに外した入れ歯を包む癖がついていた。
頭ではダメだと分かっていても、なあなあでことを済ます。
外した歯をケースに入れるという、ほんのひと手間を嫌がった無精な私に、天罰が下った。
それは、ショッピングモールのフードコートで軽食をした際の出来事だった。
いつものように紙ナプキンに入れ歯をくるんだ私は、それを、食べていたサブウェイの袋の横に置いた。
通常ならポケットにしまうのに、何故に何故だか、その日は無造作に「ポイっとな」してしまったのだ。
何も考えず、トレーの上にあるものを全てゴミ箱に投げ捨て、車に戻ってから青ざめた顔でポケットをまさぐった私を、凍った目で見つめ続けた妻の顔が今でも忘れられない。
今思い出しただけでも、寒気がする。
私はサブウェイの袋と一緒に入れ歯を捨ててから、カレッジを挟んで、2回転職をした。
色々と思うところもある現職だが、今回の新しい入れ歯も含め、オファーしてくれているベネフィットで治療費をカバー出来ることは、素直にありがたいと思う。
今でも支払っている学生ローンの価値を感じる瞬間だ。
雪が降った木曜日、残った前歯がグラグラした状態でレントゲンを撮った。
出来上がった写真を眺めたインド系歯科医は、優しい目をして「抜きましょう」と言った。
それを聞いた私は、1本残った前歯に対して、申し訳ない気持ちになった。
痛い思いばっかりさせてきた。
喧嘩で殴り合い、などといった武勇伝ならば、この歯も少しは報われたのだろうか。
そんな派手な話もなく、立ち向かうことも出来ずに、ただただ、痛く辛い思いばかりをさせてきた。
キャッチャーミットでもないのに、投げられた硬球を受け止めた顔面と歯。
「顔面ストラックアウト!」と騒ぐ声が耳に残っている。
タレ目の歯科医が手に持つツールに力を込めた時、あんなにボロボロだった前歯は、ミキィィと音を立てて踏ん張った。
もう、いいよ。
ご苦労様。
長い間、痛い思いをさせてごめんなさい。
もう、踏ん張らなくていいよ。
ありがとうございました。
上唇の裏全体に麻酔の感覚が残ったまま、家の駐車場に車をとめた私は、運転席のドアを開けずにその場に留まった。
クソッタレ。
言葉に言い表せない寂しさを、クソッタレが飲み込んでいく。
クソッタレ。
クソッタレが。
クソッタレどもが。
予想していなかった怒りが、とめどなく湧き上がる。
心が乱れて収まりがつかなくなった私は、シートを倒して浮かぶひとつひとつの場面に悪態をつき、クソッタレを浴びせた。
見える景色が雪白で覆われたその日は、静まった車内でクソッタレに溺れた。
私は、こちら側で声を上げる。
溢れ出た声を、書く。
書き残す。
クソッタレの渦中にいる人
クソッタレを引きずって生きている人
クソッタレを終わらせようとしている人
クソッタレのせいで自らを絶とうとした人
そのままいってしまった人
そういった感情の横で、私は声をあげる。
その人自身になって書けはしないけど、私は、私が受けてきたクソッタレを背負って、思いを書く。
区切りはつけた。
20年続いた感情のクソッタレは、10月の終わりに応募した作品に全てぶつけた。
でも、 区切りをつけたって横にいる。
怒りと憎しみだけじゃ終わらせない。
クソッタレだけに取り込まれるのは悔しいから、その先を書く。
その先にあったものを、しっかりと書く。
プラスもマイナスも、頂いた感謝と共に全部出す。
そして、強く願う。
どんなにこんがらがった中で生きていても、先を見続けている人たちに幸を。
真っ暗に囲まれて、先を見れない人にも幸を。
理不尽なゲームに搾取されている人たちに幸を。
暴力、非暴力に限らず、やられてる人たちに幸を。
戦う人たちにも、戦わない人たちにも幸を。
最後に。
私は、入れ歯を舌先で外して口の中で動かす癖がある。
カパッとはめたフリッパーを、コロコロと横にスライドさせる動きだ。
カナダの永住権を取った後に、私は政府が援助している移民学校に入学した。
そこは、私のような新規永住権取得者たちよりも、たくさんの国から亡命してきた難民の方たちの割合の方が多い場所だった。
バックグラウンド、文化、言語、置かれている状況など、何もかもが違う人たちが一堂に会するその場所は、何というか独特な空気が漂っており、ある程度期間が経っても、なかなその雰囲気に溶け込むことが出来なかったが、はめていた入れ歯が、その輪に入る突破口を開いてくれた。
ある日、いつも通り授業中にコロコロと入れ歯を動かしていたところ、隣に座るソマリアからの移民のお兄さんが私の肩を叩いてきた。
「キャンディー、くれよ」
キャンディー?
彼の言っている意味が分からず、しばらくその場で固まっていると、その人は右手で私の口を指差してもう一度、声を出した。
「キャンディー、持ってるだろ。キャンディー、くれよ」
彼の意図を理解した私は、コロコロムーヴを一旦とめて、舌で入れ歯を外し、チロっと唇の間から義歯を覗かせて言った。
「これは、入れ歯です。キャンディーではありません」
目を開いて、一瞬キョトンとした彼は、すぐさま手を叩いて大きく笑った。
正確に言葉で表すと、爆笑だった。
笑い転げた彼の様子に引き寄せられて人が集まり、その結果、私は先生を含む、クラスメートの前でコロコロ動かしてチロっと覗かせる入れ歯曲芸を何度もやらされることになった。
とても単純な動きなはずなのに、やる度にウケる。
熟練の鉄板芸の如く、国の枠を飛び越えてドッカンドッカンわきまくる。
笑わせているというよりも、笑われているので、どうもスッキリとしない気分だったが、皆が心底楽しそうにしている様子は、見ていて悪い気分はしなかった。
関係性の距離が縮まった、入れ歯芸。
それは、憂鬱の種だった入れ歯の存在意義が少し変わった出来事だった。