3つ目
出来過ぎた展開に、都合の良いタイミング。
この話をもし小説として書くのなら、プロットの段階で大幅に修正しなければいけなくなるだろう。
まるで、ご都合主義の王道を行くようなストーリー。3つ目の岐路は、そんな事例の連続で作られていった。
2つ目の岐路で「たまたま」アパートのドアが開いたことにより、コチラの世界にとどまった私は、何とか高校を卒業し、自分を取り巻いていた煩わしさから逃げるようにしてカナダのバンクーバーへと渡った。
異国で勉強する楽しさを知った私は、帰国後に大学へ進んだが、自ら勝手に上げたハードルにつまずき、行き場のない感情に飲み込まれてそこを中退することになった。
それからは、先の見えない毎日が続いた。
生きるために単発の仕事をし、呼吸をするために食事を取る日々。やられていた頃のように眠れない夜が多くなり、心のバランスを徐々に崩していった。
一方通行の救いを求めて訪れた大学病院の精神科に打ちのめされた私は、無色透明の時間の中で、いつしかカナダという国にすがるようになった。
あそこへ戻れば、全て上手くいく。
あそこへ帰れば、未来が見える。
何でも良かったのだと思う。
ただ、四六時中一緒にいたメンバーが社会に入っていくのを横目で見ていた当時の私には、カナダしかなかった。
あの時、真っ暗な現状が怖くて仕方がなかった。何もないことが恐ろしくて、先を照らしてくれる光を強く求めていた。
変化を切望しているはずなのに、変化を起こす勇気がない。そんな私の背中を押した、いや、蹴ったのは、後に嫁となる人だった。
何故だかは分からないが、彼女は人生を変えるタイミングが来る瞬間を知っていた。
「おい、来たぞ」
「ここで飛べ」
「早くしろ」
自分の中に抱えたものを処理できず、過去と現在に押し潰されていた私の後頭部を叩き、背中を蹴った。
彼女の後押しを得て重い腰を上げた私は、現地の小学校で日本文化を紹介するという留学プログラムを利用して、オンタリオ州にあるストラトフォードという街へ赴任することになった。
岐路
ストラトフォードは一風変わった街だった。
人口約3万人の小さな街だが、国際的に有名な芸術祭が毎年4月から10月まで行われている影響で、古き良き街並みが廃れずに維持されている稀有な場所だった。
地元の小学校に赴任していると言ってもボランティアなので勿論収入はなく、生活に余裕はなかったが、メインストリートを歩いているだけでも印象的な景色に出会える美しい街だった。
私はその街で、とても不思議な体験をした。
ストラトフォードでの滞在が半年ほど過ぎたある日、日本からメンバーのひとりが訪ねてくることになった。
無収入だったので外食など殆どしなかったが、海を越えて会いに来てくれる友人をもてなす店は、味も良く値段もリーズナブルなダイナーと決めていた。
しかし、彼が到着した次の日の昼に目当ての店へ向かうと、入り口のドアには「Sorry, WE'RE CLOSED」という看板がかけられていた。
そんなはずなかった。
彼が来る前にダイナーの定休日は調べていたし、到着したのも真昼間のランチタイムだったので、店じまいをするには早過ぎる時間だった。
条件的に他の選択肢など用意していなかった私の頭は真っ白になったが、閉まった店の前にいても仕方がないので、友人の提案に乗り、メインストリートを歩きながら入れそうなレストランを探すことになった。
身の丈にあった店を求めて彷徨っていると、友人がある建物の前に立ち止まり、「ここにしよう」と指をさした。
彼が示したレストランは外観が地味で、何度もその道を通っているはずなのに記憶に残っていない店だった。
パッとしない見た目に加え、何だが古臭い感じを覚えたので他にしようと勧めたのだが、友人は聞く耳を持たずに店のドアを開けた。
店内に入ると、先客は誰もおらず、外から見るよりも広いダイニングルームがその閑散とした様子に拍車をかけていた。
サーバーに渡されたメニューに載っていた品は、サンドウィッチやバーガーなど一般的なものだったが、その店の壁にかけられている絵がとても変わっていた。そこにあったのは、ヨーロッパ風な内装に不似合いな日本画だったのだ。
目の前にあるアンバランスさが気になり、サーバーに飾られている絵のことを尋ねると、彼女はそれが日本画であると話し、このレストランのオーナーが日本人であることを教えてくれた。
私は自分の耳を疑った。
仮にこの街がトロントやバンクーバーなら特別な話ではないのだが、アジア人を見かけることすら珍しいこの場所では、話の意味合いは大きく変わる。
サーバーの女性に自分の反応の意味を伝えると、彼女はオーナーを呼んでくると言い、店の奥に消えた。
少しして私たちの前に現れた初老の男性は、「こんにちは」と言って頭を下げた。
「ご旅行ですか?」そう尋ねてきた彼に、私はこの街での自分の状況を話した。一通り会話が終わった後に名前を聞かれて答えると、彼は驚いた顔をして私を見た。
私たちは、同じ名前だったのだ。
白人が人口の大半を占める典型的なイギリス系の街で、目星をつけていた店が原因不明の臨時休業。訪ねて来てくれた友人が代わりに選んだ地味な店は、日本はおろか、オリエンタルな趣は微塵も感じない外観をしているのにも関わらず、主人が何故だか日本人で、しかも私と同じ名前だった。
それだけでも随分と出来過ぎな話だが、自分の娘が出た小学校で日本文化を教えている何処の馬の骨かも分からない日本人に興味を抱いてくれたその方は、私と、無収入状態で無謀にもこちらに呼び寄せた嫁に大変親切に接してくれた。
同じ名前を持つオーナーとの出会いも奇跡的だったが、彼の奥さんと知り合えたことも私の人生の大きな糧になった。
満州生まれの彼女は、私がそれまで生きてきて会ったことのないタイプだった。
常に凛としていて底が深く、自然体で風のような印象を持ちながらも、決して消えない炎のように力強い意思を感じる人。性別や年齢を超え、「こんなふうに生きたい」と思える人だった。
ある時、オーナーと奥さんは、どうにかしてカナダに残りたいと考えていた私にある街の名前を出して、そこに行ってみたら良いのではないかと提言した。そこは、小学校の夏休みに赴任先の校長夫婦に連れて行ってもらった場所で、「いつか、こんな所に住めたら」と嫁と話していた街だった。
彼らの言葉に導かれるようにして移ったその街で、私はビザの延長をしてもらえるスポンサーを見つけることが叶い、オンタリオ州では難しいと言われていた永住権に関しても、申請をする丁度良いタイミングでその制度が変わり、無事に取得することが出来た。
数々の偶然の先に、想像もしていない形で出会った人から告げられた街へ越して広がった道。
歩いてきた道のりを眺めるたびに、姿のない大きな存在を感じずにはいられない。
嫁と出会わなければ私は重い腰を上げずに、四畳半の部屋に居続ける世界を生きたのかもしれない。もっと言うと、嫁が受けた検査結果の誤診がなければ、当時の私は結婚を決めていなかっただろう。
つまり、彼女に背中を蹴られていなければカナダには戻っていない。そうなると、日本から友人が訪ねて来るイベントは発生せず、不思議と閉まっていたダイナーも、彼が何故か指差した店に入る分岐もなくなる。
いや、違う。そのポイントじゃない。
岐路はもっと前、この話は更に遡り、逆再生するように流れながら全て繋がる。
始まりは、やはり小田急線の車内からだ。
あの日、たまたま車両を変えたことにより幼馴染と顔を合わせた。そして、その時期にたまたま入院していたグループのリーダーと縁を持った。このふたつの要素が重なり、私は私が死んだ世界ではなく、私が生きている世界を選んだ。
それから、あの夜たまたまアパートのドアが開いたことにより、私は自分の手を赤く染める世界を回避して、今を生きるルートに乗っかった。
1のイベントが発生しなければ2は起きず、3の世界は消滅する。
振り返ると、その全部が紙一重で恐ろしい。
恐ろしいが、同時に有り難くて仕方がない。
だから手を合わす。心の底から感謝する。
分岐して消滅して繋がって、ひとつになる人生。
私は今、私が生きている世界を生きている。