これからって時に、敬語はやめませんか

「一応確認しますけど、手順は分かってますよね」

「はい」

「準備はできているので大丈夫だと思います」

「色々ありがとうございました」

「あの、あれですよ、約束では『目が覚めちゃったら自分で』ってなってますけど、もしその時に気が変わってたら、いいですよ、逃げちゃって」

「え、いや、逃げませんから」

「もしもの話ですから。これ、けっこう強いやつなんで、起きることはまずないでしょうけど」

「はい」

「とりあえず話しておくことはそれぐらいですかね。何か質問はありますか? 特になければ——」

「あの、ポーク鍋さんは、何で終わらそうと思ったんですか?」

「え?」

「何で、終わらそうって決めたんですか?」

「……今の段階でそれ聞きます?」

「すみません。でも、こうして顔を合わせたのも何かの縁ですし、最後に聞いておきたいなって思いまして」

「はぁ。いや、最後に聞くような話ではないですよ。そんな大それたものではないですし」

「何でもいいんです。話、聞かせてもらえませんか」

「話って言われましても、まぁ、理由はたくさんあるんですけど、ひとことで言うなら、疲れたってことになります」

「疲れた、ですか」

「はい。何て言うか、この世界って、何かズルっこじゃないですか」

「ズルっこ?」

「別にこっちだって清廉潔白に生きてきたわけじゃないですけど、それなりに気を使ってやってきたんです。それこそ、物心がついた時から。母親が癇癪持ちだったもので。なるべく人様に迷惑かけないように、空気読んで、顔色伺って。でも、そんなの何の意味もなかったんですよ。何たってズルっこが得をする世界なんで。って、今更こんな話しても時間の無駄です。もう終わるんですから」

「だから、もう終わってしまうから聞きたいんです。もし、ポーク鍋さんが嫌じゃなければ、話を続けてくれませんか?」

「いや、嫌とかそういうんじゃなくて、ただ意味がないなって思いまして」

「お願いします」

「うーん、まぁ、ですから、そんな世界に疲れてしまったんです」

「何か直接的な原因があったんですか?」

「直接的って言うか、まぁそうなるなっていうのは、会社の上司になりますね」

「その人がポーク鍋さんの言う、ズルっこですか」

「他にもたくさんいるんですが、彼がその代表格になりますね」

「あの、ポーク鍋さん、敬語やめませんか?」

「敬語?」

「はい。これからって時に、敬語はやめませんか?」

「気になります?」

「はい。あー、うん。気になる。すっごい気になる。だってもうすぐ終わっちゃうんだよ。それなのに、何で敬語で喋ってるの。ちゃんと考えたらおかしくない?」

「おかしいですかね。いやだって、今日初めて会ったんですよ。だったら敬語が普通じゃないですか。友達じゃないんですから」

「随分前からチャットしてたよね」

「それはネットでの話ですよね。顔を合わしてないんですから別物ですよ」

「何で? 実際に会わなきゃダメなの? そんなのおかしいよね」

「ですから—— 」

「敬語やめて」

「あの—— 」

「やめて」

「いやいや、やめてって、いや、おかしいのはそっちでしょ。何でこの段階で自分の身の上話をしなきゃなんないんだよ。俺は終わらせるためにここに来てんの。ひとりで終わらせる踏ん切りがつかないから、一緒に終わらせましょうってことでこうして会ってるんでしょうが。それをおかしい、おかしいって。おかしいのはあんただろっ!」

「……ごめん。あの、ごめんなさい」

「あ、いや、そういうことじゃなくて。あー、何て言うかその、おっきな声出して申し訳ない。それは、ごめんなさい。だから、あのー、うん、分かった。よし、そうしよう。話もするし、敬語もやめるから。約束する」

「ごめんなさい。私が悪かったです。本当に、ごめんなさい」

「いやいや、悪いのはこっちだから。おっきな声出しちゃったし、ごめん。怒鳴って押さえ込もうとするのって最悪だよね。それがどれだけ嫌かって、ずっと受けてきて分かってるのに自分がやっちゃって。本当に、ごめんね」

「悪いのは私です。ごめんなさい」

「敬語、やめようか。あと、謝るのももうやめよう。俺も謝んないし、ネコ腹さんも、もう謝んないでね。謝って終わるのは、何か寂しいから」

「……分かった」

「じゃあ、話の続きをするね。えーと、それで、そのズルっこ上司がさ、病気になって入院したんだ。そん時に部署のひとりが、まぁ、ズルっこの子分みたいな奴なんだけど、そいつが『ズルっこにメッセージを送ろう』なんて言い出して、スマホでビデオレターみたいのを撮り始めたんだ。正気かよ、って思った。散々理不尽にやりたいことやり散らかして、こっちの手柄横取りして、意見したら周りを囲んで嫌がらせしてきて、そんな奴のために何でこっちがメッセージなんか送んなきゃならないんだよって。分かっててやってんだ。わざわざ業務終わった後に会社残って、こっちが困る姿を見て楽しんでたんだよ。本当に、クソみたいな構造だ。ズルっこの子分がズルっこに年貢を貢いで、貢がれたズルっこがそのまた上のズルっこに上納する。いや分かってるよ。それが社会ってもんなんだろ。能力云々の話じゃない、力を持ってる奴に上手く取り入ったもん勝ち。やったもん勝ちじゃなくて、言ったもん勝ちの世界だもんな」

「ポーク鍋さんはコメントしたの? そのビデオレターで」

「コメントはしたんだけど、そこで俺、おかしくなっちゃってね。今までもさ、寄せ書きとかはあったんだよ。退職する時とか、子供生まれた時とか、大して仲良くもないのに形だけで『お疲れ様』とか『おめでとう』とか言うやつ。あれは問題なかった。感情入れないで書けばいいだけだしね。でも、ビデオレターは違った。声に出さなきゃいけないでしょ、あれ。声に出すとさ、嫌でも感情が入るんだよ。『一生病院に入ってろ、何なら死ね』っていう感情が。口ではそれっぽいことを言うんだけど、顔がどんどん歪んでいくわけ。それで何度もズルっこの子分にダメ出しされて、『ちゃんと心配してる顔しろ』って注意されるんだけど、言われれば言われるほど眉間にシワが寄っちゃって。それで何回目かの時に、胸ぐらを掴まれた。『何年社会人やってんだ、クズが』って。それ言われた後に撮ったテークで、俺、言っちゃったんだ……」

「何て、言ったの?」

「『お元気ですか? 心配なんかしてません。一生病院に入ってろクソが!』って。そしたらズルっこの子分がキョトンとした顔してさ。俺、その顔見たら急にムカムカしてきて、バァーってそいつの元に走って、そいつのスマホを取り上げて会社の窓から投げ捨ててやった。それでもさ、そいつ固まってるんだよ。心底驚いたような目でこっちを見て。いやふざけんなよって、だってお前らが仕掛けてきたんだろって、何で予想外ですみたいな顔してんだよって。だから次にズルっこ上司の机に行って、パソコン持ち上げて床に叩き落としてやった。大きな音がするもんだからムカついて、何度もやった。そうやって散々投げ落とした後に、俺、硬いもの探してたんだ」

「硬いもの? 硬いものって、何?」

「分からない。よく分からないんだけど、他の社員の机を開けまくって、片手で持てる何か硬いやつを探してた。きっと……それでズルっこの子分をぶん殴ろうとしてたんだと思う。でも、なかなか見つかんなくて。そうこうしてるうちに、ズルっこの子分が『警備員さん!』って叫びながら部屋を出て行った。それで俺、怖くなって、走って非常階段から逃げた。それっきり、会社には戻ってない。でも、ダメなんだ。せっかく溜め込んだものを出したっていうのに、毎日毎日襲ってくるのは罪悪感ばかりで、嬉しくも何ともならなかった。何かこうもっと開放感っていうか、ワァーってなるのかなって思ってたけど、情けないことに申し訳ない気持ちにしかならなくてね。自分の感情すらも背負っていけないんだって分かった時、あぁダメなんだなって心底思った。それをすんなり受け入れてしまう自分が、そうやって生きてきた自分の人生が嫌で嫌で堪らなくなって、終わらそうって決めた」

「……そうなんだ」

「俺さ、ずっとスーパーの通路の真ん中にカートを置いてる客に憧れてたんだ」

「え、カート?」

「ほら、時々いるじゃん。買い物の途中で通路の真ん中にカートを放置して他の商品を探す客。あれ、本当に羨ましくて憧れてた」

「あぁ、それ私も分かる。きっと私なんかよりずっと生きやすいんだろうなぁって思う」

「そうなんだよ。俺には絶対に真似できない。そんなことしたら周りに迷惑をかけてることが気になって仕方がなくなるからね」

「ねぇ、小さい頃に学校で受けた道徳の授業って何だったんだろうね。人に迷惑をかけちゃいけないとか、思いやりとか助け合いとか、そういう教えを守って生きようとすると、どんどん息が詰まっていく」

「確かに。さっきも言ったけど、俺の母親は癇癪持ちだったんだ。何かあるとヒステリー起こして怒鳴って暴れて。それで部屋が散らかり放題になるんだけど、その部屋を片付けると、母親が褒めてくれたんだ。『自分がやったんじゃないのに偉いねぇ』って。あんまり子供に関心がなかった人だから、そうやって言われることが嬉しくてね。だから頼まれてもないことも率先してやるようになったんだ。でもそうしているうちに、どんどん褒め言葉のハードルが上がっていった。ちょっと手伝ったくらいじゃ何の反応もなくて、だから更にやらなくちゃいけないっていう悪循環になった。まぁ、勝手にやってるのはこっちなんだけど、ただ認めて欲しかったんだよね。どうしようもない母親にさえ、自分という存在がいるってことを。今にして思うと、道徳って言われるものは、一種の洗脳みたいに感じるよ。その逆を実践してる奴らがピラミッドの上部にいて、こっちを支配している構造。小さい頃の話でいうと、母親がそのピラミッドの頂点。負け犬の遠吠えと言われちゃそれまでだけど、実際に見てきたものがそうだから何とも言えない気分になる」

「私はポーク鍋さんみたいな構造を考えたことないけど、自分がやりたいわけでもないのに、知らないうちに『そうすべきだ』っていう言葉に縛られて行動して、何か嘘ばっかりついた気分になって苦しくなる繰り返しだった。ポーク鍋さんと同じ、勝手にやってるのは自分なのにね」

「何か、バカらしいよ。何でこんな風に生きてきちゃったんだろ。何で今まで。まぁでも、それも今日で終わり。長々と話しちゃってごめんね。とにかく、そんな感じで疲れちゃったんだ。ズルっこばっかの世界にも、このままずっと自分のままで生きていくことにも。これが俺の話。じゃあ次、ネコ腹さんの番」

「え、いや、私は——」

「ダメだよ。ここは平等にいこう。俺も話したんだ。ネコ腹さんの話も教えて欲しい。ネコ腹さんは、何で終わらせようと思ったの?」

「スギハラ」

「はい?」

「スギハラミウ。私の名前」

「あ、あー、そうなんですか。スギハラさんとおっしゃるんですね。あ、どうもはじめまして」

「何で急に敬語に戻っちゃうの」

「いや、何か名前聞いたら現実に引き戻されるっていうか」

「さっきも今も現実。何も変わらないよ」

「まぁそうだよね。確かに一緒だ。あー、じゃあこっちも、私の名前は、あの、名前は——」

「無理に言わなくてもいいよ。私は自分で言いたかっただけ。それだけのことだから」

「別に無理なんてしてない。何の問題もないよ。俺の名前は、ポーク鍋こと、ワタナベトシヤです。よろしくお願いします」

「ふっ……ふっふっ……ちょっと、やめてよ。ふっふっふっ」

「え、何で笑ってんの? いや、名前言っただけじゃん。え、だから何で笑ってるの?」

「だって、言い方が。ふっふっ、何その自己紹介。名前だけでいいよね? 何、『ポーク鍋こと』って。しかも最後また敬語になってるし……ふっふっふっ、ハハハッ!」

「そんなに笑うことかなぁ。一応アカウント名も言うでしょ。初めて会ったんだし。そういうもんだと思うけどなぁ」

「ごめんごめん。あー、びっくりした。久しぶりに笑ったぁ。私こんなに笑えるんだね。あー、驚いた。あー、いやー、ワタナベさん、ありがとう」

「感謝されても、何か心外だなぁ。まぁ、いいけど」

「ごめんって、ごめん。でも、ありがとう。感謝してる」

「どういたしまして」

「ねぇワタナベさん、私の話、本当に聞きたい?」

「え、うん。だってそれでイーブンになるから」

「あんまり気持ちのいい話じゃないよ」

「俺のだって全く清々しい話じゃなかったからね」

「分かった。じゃあ、話す。ちょっと深呼吸するね」

 

(スー フー スー フー スゥーーー フゥーーー)

 

「はい、ありがとう。えっと、どっから話せばいいのかなぁ。あのね、あのー、私、介護士だったんだ。老人ホームとかデイサービスとかで働く介護職員。介護の仕事自体は嫌いじゃなかったんだけど、人付き合いが上手くいかなくて。もともと社交的な方じゃないし、意見とかも言えるタイプじゃないから色んなこと溜め込んじゃうことが癖になってて、我慢して我慢して限界になると逃げるように仕事を辞めてた。そうやって逃げ続けてたら七回も職場を変えることになって、再就職の面接で落ちることが多くなったの。だから八番目の職場に移った時、どんなことがあっても耐え抜こうって心に決めた。仕事が見つからない時の不安はもう嫌だったし、ずっと介護職でやってきたから今更、他の職種に就く自信もなかったから」

「うん、そうなるよね」

「最後の職場、その八番目の場所はね、いつも人手が足りなくて、忙しさでピリピリしてた環境だったからストレスが溜まりやすかったんだけど、主戦力で働いてた二人の職員さんがいなくなってから特に酷くなったの。担当する利用者さんも増えるし、泊まり込み勤務も増えるしで、もう限界だった。そんな状態の時、新しく個室で入ってきた認知症のお婆ちゃんがいてね。その人が、夜中に何度も私のこと呼び出すの。最初はちゃんと部屋に行ったよ。何か緊急だったら大変だからね。でも、そのお婆ちゃん、私が行くと、口半開きでこっちを見てるだけなの。『どうしたんですか?』って声かけても何にも言わなくて。呼び出す時は、ちゃんと話せるのに。そんなことが何度か続いて、呼び出しも無視するようになってたんだけど、違う利用者さんがトラブル起こして大変だった夜に、また連絡があって。私、頭にきて、部屋に行って怒鳴っちゃったの。でも、結構強く怒ったのに、その人、何の反応も示さなくて。またいつもの、ボォーっと口半開きしたまま。何か私、その姿を見てたら、無性に腹が立って仕方がなくなって、怒りを抑えきれなかった。それで気付いたら、そのお婆ちゃんの頭を引っ叩いて、手の甲を凄い力でつねってたの」

「あの、スギハラさん、大丈夫」

「ごめん、ちょっと深呼吸するね」

 

(スー フー スー フー スゥーーー フゥーーー)

 

「ありがとう、大丈夫。ずっとね、介護職に携わっていて、今までどんなに溜め込むことがあっても絶対に線は超えなかったのに、あぁ、私とうとうやっちゃったんだって絶望した。だから、次の日に問題になって呼び出されるのを覚悟したの。だって、前に十年以上勤めてた人が利用者さんの顔を殴って、家族からのクレームでクビになったことがあったって聞いたことがあったから。でも、私は何のお咎めもなかった。今、考えたら、あの時辞めてればよかったんだと思う。きっと、あの期間は神様がくれたチャンスだったんだ。でも、私は辞めなかった。もうその頃は仕事を続けていく自信をなくしていたけど、今まで自分が費やした時間を全部捨てるのが怖かった。うん、怖かったっていうか、それにすがってた。それで、結果的に私は仕事も、そのお婆ちゃんに関わることも、どっちもやめなかった。もう絶対手をあげるのはやめようって、その時は心に誓ったんだけど、日々のイライラが溜まって呼び出された夜は、私、また同じことしてた。しかも、今度はもっとズルくなって、ぶたない代わりに体の目立たない部分を思いっきりつねることにしたの。そうすると、そうするとね、凄いスッキリして……。私、その時、自分の中の悪魔に食べられちゃったんだと思う。今でも、夢を見るんだ。夜、真っ暗な廊下を歩いている自分の姿の夢。そのお婆ちゃんの部屋を目指して誰もいない廊下をツカツカツカって、こう、前傾姿勢で歩いてるの。で、彼女の部屋の手前に資料室があるんだけど、そのドアのガラスに私の横顔が映るの。目が据わってて、何ていうか、獲物を狩る前の動物みたいな顔。映ってるのは私の顔なんだけど自分じゃないみたいで。とにかくその顔が怖くて、気味が悪かった」

「スギハラさん——」

「私が弱いから、悪魔に心を食べられた。私が弱くて価値がないから、自分の中にいる悪魔に乗っ取られちゃったんだ」

「スギハラさん、強い弱いじゃないって。気持ちを保てる環境があってこそ、俺たちはこうして何とか他人同士、クソみたいな社会で共存していけてるんだろ。その環境が崩れちゃったら、人のモラルどうこうの話じゃないんだよ。そんな状況で働いてたら、皆んな頭おかしくなっちゃうんだって。だからスギハラさんが悪いんじゃない。そもそもおかしいんだよ! 人をボロ雑巾みたいに扱う社会が!」

「ワタナベさん、それは言い訳だよ。悪いのは私。その社会に馴染める強さを持たない私が悪いんだ」

「いや、そんなのおかしいだろ! 何でだよ、何でスギハラさんがおかしいことになるんだよ!」

「何度も言うけど、悪いのは私。だから神様は、私の前にお婆さんを遣わせたんだ。私の本性を暴くために」

「そんなこと——」

「私がそこから逃げるまでの一ヶ月、私は私自身の意思でそのお婆ちゃんの部屋に行くようになった。ただ私の欲望を満たすためだけに。そんなどうしようもない私の前に、神様は姿を見せたの。あのね、すごく不思議なことなんだけど、やられる日が続いても、そのお婆ちゃん、毎日私を呼び出すの。それで部屋に行くでしょ、そうするといつも通り口を開けてるんだけど、私が一歩一歩近づくと急に思い出したかのように怯えた顔になるの。私がそこを逃げ出す夜も彼女の部屋に入って、お婆ちゃんに近づいて膝立てて座ってから、ふくらはぎの裏を目一杯つねったの。いつもはね、そのお婆ちゃん『うぐぅぅ』とか『あがぁぁ』とか言って耐えてるだけなんだけど、その日はこっち向いてさ、『ごめんね、もう大丈夫だよ』って言ったの。心臓がとまりそうなくらいビックリして、そのお婆ちゃんの顔を見たら、お婆ちゃん、泣いてた。そしてね、すごい優しい顔で私の頭を撫でたの。私、つねってるのに。私の全部を包むように、ゆっくり、何度も撫でてくれて……。ビックリしたけど、暖かくて、とても安心した。神様がね、こっちへ来いって言ってるみたいだった。そこをさよならして、こっちに来いって。だから、行くことにした。これもただの言い訳で、結局逃げてるだけだけど、あの時私が感じた暖かさは本物だと思うから、それに包まれたいと強く願った。……自分でね、色々試したんだ。でも最後の一歩が踏み込めなかった。怖くてね、怖くて仕方がなかったの。だからあの掲示板に書き込んだ。そしてポーク鍋さ、あ、ワタナベさんに会った。これが、私の話。初めて他の人に話した。聞いてくれて——え、何で、何でワタナベさんが泣いてるの?」

「分かんない。悔しくて、寂しくて、苦しい。何でこんな気持ちになるのか分かんない。どうしていいか分かんなくて、どうしていいか分かんないから涙が出てくる」

「……ワタナベさん。あのね、ワタナベさん、これ、最後の質問。本当に最後の最後。もし何かひとつ、全部が終わっちゃう前に、何かひとつできるとしたら、何がしたい? 今まで生きてきて、一番楽しかったこと。もう一回それができるとしたら、ワタナベさんは何がしたい?」

「今までで、一番楽しかったこと?」

「うん、そう。もう一度できるとしたら、何がしたい?」

「……大磯かな。もし叶うなら、大磯ロングビーチに行きたい」

「大磯ロングビーチ?」

「うん。ずっと昔、子供会で行ったんだ。その時の記憶が強く残ってる」

「そこで何がしたい?」

「何がしたいとかはない。ただ、あの時の雰囲気を味わいたい。スギハラさんは、大磯ロングビーチに行ったことある?」

「ううん。名前は聞いたことがあるけど、行ったことはないよ」

「日本なのに、南国なんだ。ザ・南国リゾートって感じ。まぁ、南国に行ったことがないからイメージなんだけど。海の真ん前でヤシの木がいっぱいあってさ、オーシャンブルーのパラソルがプールサイドに続いているんだ。高い飛び込み台があって、でっかい流れるプールもある。何ていうか、ハワイみたい。これも勝手なイメージだけど。子供会でそこに行った日、散々泳いだ後にすぐ近くにあるボーリング場に行ったんだ。日焼けして身体中痛かったけど、その痛いままでボールを投げるのが本当に楽しかった。痛いから全然まっすぐいかなくて、ガーターばっかりだったけど、それが楽しかった。本当に、楽しかった」

「そうなんだ。いいねぇ」

「じゃあ、スギハラさんは? 何がしたい? 何が一番楽しかった?」

「楽しかったじゃないけど、一番したいことは、おんぶかな」

「おんぶ?」

「うん。あ、するほうじゃなくて、されるほうね。私、中学生になるまでお婆ちゃんと一緒に暮らしてたの。子供の頃、嫌なことされて泣いてると、お婆ちゃんがよくおんぶをしてくれたんだ。こうやってゆっくり左右にリズムをつけながら。お婆ちゃんは背が低かったんだけど、おぶられるとすごく安心できたの。暖かくて優しくて、その時だけ嫌なことが全部飛んでいった。それでね、しばらくすると『ミッちゃん、あまパン食べようか?』って聞いてくるの。あれね、あまパンってシロノワールのこと。あの、コメダ珈琲に売ってるやつ。分かる?」

「いや、コメダ珈琲行ったことないから分かんない」

「形は丸型の大きなデニッシュパンで、中央にアイスクリームがドンって盛られてて、真っ赤なサクランボが一個添えてあるの。え、ワタナベさん、食べたことない? もったいないよ、すごく美味しいんだから」

「コメダ珈琲に行く機会がなかったからなぁ」

「そっかぁ。それが、本当に美味しくて。安心した後だからかなぁ、お婆ちゃんと食べる時はいつも特別美味しかった。美味しく感じただけかもしれないけど」

「いや、きっと美味しかったんだよ。あの時行った大磯ロングビーチの楽しさと、きっと似てるものがあると思う」

「ワタナベさんは、最後にいつロングビーチに行ったの?」

「えー、最後も何も、その子供会で行ったのが最初で最後だよ」

「え?! 何で? 何でそれから一度も行ってないの?」

「いや何でって、行く機会がなかったからね」

「行く機会がないって、だって一番楽しかったんでしょ? それなのに何で? 行く機会なんていくらでもあったよね? 今まで生きてきた中でいくらでも。だって——」

「ないよ、そんな機会。なかったよ。本当に楽しかった場所だから、気を使わなきゃいけない人とは一緒に行きたくなかった。誰か心から気を許せる人がいたら、絶対に行きたいなって思ってたけど、そういう人に会えなかったしね。それに、ひとりで行ったってしょうがない場所だし」

「行けばよかったじゃない、ひとりだって何だって。せっかくそんな場所があるのに。何で一度も……」

「ひとりでなんて行かないよ。行けるわけないよ。そんなことしたら人の目が気になって無理だよ。そうやって言うけど、じゃあ、スギハラさんは? お婆さん以外に誰かにおぶってもらった? お婆さんの時と同じ味のあまパンを食べられた? あの時と同じような安心感を得られた? 得られないでしょ? 無理なんだよ、楽しかった思い出を掴もうとするなんて。なくなってしまったから、俺たちここにいるんでしょ? なくなってしまったから、こうして終わらせようとしてるんでしょうが!」

「……」

「あ、また……。違うんだ……違うんだって。申し訳ない。いや、責めるつもりはなかったんだ。そういうんじゃなくて、だから、違うんだよ。あの、あー、もう、本当に嫌だ。もうおっきな声なんか出したくない。もうこれ以上、自分も誰かも責めたくない……」

 

(ダンッ)

(スタスタスタ)

(バリ バリ バリリリ バリ)

 

「ちょっと! え、何してんの? え? スギハラさん! ちょ、ダメだよ! 目張り取ったら窓の密封が——」

「今日、何曜日?」

「え? は?」

「今日は何曜日かって聞いてるの!!!」

「え、あ、はい。え、だから、一昨日が日曜日だったから、えっと、火曜日、です。はい」

「半額日」

「……はい?」

「大磯のボウリング場じゃないけど、国道沿いの緑奥ボウル。火曜日は半額日なの」

「あ……はぁ」

「ボーリング、したいんでしょ? だったらすればいいじゃない!!!」

「え? 一体、何の話を——」

「敬語はやめてって!!!」

「あ、はい、あ、あの、おぅ」

「何『おぅ』って。ワタナベさん、錠剤が入ってる小瓶取って」

「え、あの、取ってって言われても」

「はやく!!!」

「はい、お、いや、おぅ」

 

(スタスタスタ)

(ガッ ガンッ ガガッ)

(スッ)

 

「え、何で、何で投げるの?」

 

(……バリッン……)

 

「あ、え、何で? 何でそんなことすんの?」

「あんただって、窓からスマホ投げ捨てたでしょ」

「それとこれとは——」

「一緒だよ。全部、一緒」

「スギハラ、さん?」

「ワタナベさん、ごめんね。でも、どうせなら、やることやろう。どうせ終わりにするなら、やることやってから、終わりにしよう」

「スギハラさん……」

「だって、シロノワール食べたことないんでしょ? あんなに美味しいのに、食べたことないんでしょ? だったら、食べようよ。最悪、食べてから終わりにしようよ。だって本当に美味しいんだから!」

「……」

「世界はね、きっとこのまま。ワタナベさんが言ったように、ズルっこたちがはびこって、それに馴染めない人たちはズルっこたちの餌食になる。しょうがないよね、弱肉強食だもん。それが世の中ってやつなんだから。カートを通路の真ん中に置けない私たちは、くだらない道徳に縛られて、しつこく付いてくる罪悪感に襲われるの。どうしようもないけど、そういったものを受け入れるしかないよね。だって仕方がないでしょ、そうやって育てられて、その感覚を染みつけて生きてきたんだから。ワタナベさん、人生は映画やドラマじゃない。都合よく物事が運んだり、救世主が窓を割って助けに来てくれたりはしない。だから、だからどうせなら、やりたいことしようよ。少なくとも、やれることをしよう。……私はやる。急に計画を変えて申し訳ないんだけど、やっぱり私は死なない。卑怯だけど、死にたくない。だって、まだやれることやり尽くしてないもん。情けなさも恥ずかしさも全部受け止めて、やれることしてから死ぬ。ワタナベさん、本当に、本当にごめんなさい。ワタナベさんが自己紹介した時、あの時に心から笑っちゃって、死ぬ気がすごく削がれたの。本当に身勝手でごめんなさい。何もかも台無しにしちゃって、本当にごめんなさい」

「……救世主は、窓を割って入ってこなかったけど、窓を開けて瓶を割ったよ。スギハラさん、人生は映画やドラマじゃないってさっき言ったけど、あなたが立ち上がって窓の目張りを剥がした時点で、じゅうぶん都合よく物事が運んでいるよ。何だよこれ、何だよこの展開。……フゥー。あの、ちょっとごめん、訳わかんないから、深呼吸させて」

 

(スー フー スー フー スゥーーー フゥーーー)

(スー フー スー フー スゥーーー フゥーーー)

(スー フー スー フー スゥーーー フゥーーー)

 

「ありがとう。少し落ち着いた。あのー、あのさ、おんぶするの、俺でもいいかな? 今すぐできることって、とりあえずおんぶでしょ?」

「ワタナベさん……」

「あんまし長くできないかもしれないけど、とにかくやってみるよ。リズムの速度は、おぶった時に教えて」

 「うん」

「それとさ、おんぶ終わったら、シロノ——何とかだっけ? まぁその、あまパン食べに行こう。あ、でも、あの、ボウリングはさ、半額日だけど今日はやめとこう。どうせだったら、やっぱり大磯に行きたいんだ。あのさ、色々と整理しなくちゃいけないことがあるから、いつになるかは分からないけど、もし迷惑じゃなければ、大磯、一緒に来てくれないかな? スギハラさんさえよければ、その時も、あまパンをご馳走するから」

 

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