2つ目
駅前の公衆トイレ
風が強い静かな夜
階段で見た腕時計
記憶に強く残っている場面がある。
それは匂いや音を伴い、時間が経っても薄れることなく頭の中に存在し続ける。
私が経験した2つ目の人生の岐路は、そういったいくつかの場面の先に用意されていた。
1つ目の岐路を通して拾われたグループに参加するようになっても、学校では変わらず呼び出しを受けていたが、そのことに対する自分の心持ちは変化した。何というか、外側と内側を分けて考えられるようになったのだ。
ヤラレている私だけが、私じゃない。そう思えるようになれたのは、避難所という居場所を確保したことにより、どうしようもない愚か者という役柄以外でいられる時間が増えたのが大きかった。
四六時中仲間に会い、何事もなかったかのように服や音楽の話をしていると、自分が新しく生まれ変わったような気持ちになれた。
笑顔を見せる度に、蘇る自尊心。
仲間たちとの楽しい時間が増えれば増えるほど、自分の殆どを形作る情けなさを消し去りたいと願うようになっていった。
岐路
集まりのメンバーたちに合わせて、流行りのスニーカーや皆が好きだったCD、PHSなどを欲するようになり、それらを購入する金が必要になった。
仲間たちと出会い、学校での体面をあまり気にしなくなっていた私は、当時やっていた新聞配達の配達部数を増やすことにした。勤務時間は夜中から朝方になるので、今まで通り登校することは不可能になったが、そんなことはどうでもよかった。
説明を受けた金額を稼げれば、通常通り週3日の上納を入れても、メンバーたちと同じような服を着て、彼らと変わらない生活ができる計算だった。
大幅に増えた配達先のひとつに、どうしても許せない奴の自宅があると知ったのは、順路帳に沿ってルートを確認している時だった。奴の家の近くまでは、荷物や現金の手渡しなどで何度も訪れていたので見間違うわけがなかった。
憎くて仕方がなかった奴の自宅に新聞を配る。それはまるで、悪い冗談のようだった。
深夜、新聞を手にして、奴が寝ているであろう家を見据える。きっと奴の人生には、眠れない夜などないのだろう、そう考えると収まらない怒りが心を占めた。
奴の家へ配達をする度に積み上がっていく憤り。繰り返された暴力と人格否定によって壊されたはずの復讐心を強く認識した私は、そいつの家へ新聞を配った後に向かいのアパートの階段をのぼり、奴の家を見つめるようになった。
物事の全ては、紙一重なのだと思う。
人生を変えてしまうトリガーは至る所に撒かれていて、誰かに引かれる瞬間を待っている。 暗い穴への誘導は巧妙で、気付いた時には動けなくなっているのだ。
何故そんなことが起きたのか分からないが、奴の家の前に張り付くようになってから少しして、顔見知り程度だった人物からナイフをもらった。もらったというか、目の前でカバンを開けられて、その中にナイフを押し込まれた。
どう頭を働かせても、どうしてその人物が私にそんなことをしたのか今でも理解できない。その時の私の状況を彼が知っていたとは思えないし、そもそも彼とは話をするような間柄でもなかった。もしかしたら、彼は彼で何かトラブルを抱えていて、そのナイフを処分したかったのかもしれない。それに誰かが彼に入れ知恵でもして、何をしても問題なさそうだという理由で私を選んだのかもしれない。ただ、仮にそうだとしても、やはり納得できない。単純にナイフを処分したいのであれば、わざわざ私なんかに預けなくても、どこかの山や川に捨てればいいだけの話だ。
どの角度から考えても彼が取った行動は不自然だったが、当時の私は、渡されたナイフを捨てずに、持ち続けることを選んだ。
そのナイフは、私にとってのトリガーだった。
煮え切らない私の背中を押すきっかけ。ストレートに「やれ」と言われている気がした。
その出来事を機に、配達時に携帯していた百円ライターをオイルライターへ変え、小型のオイル缶を携帯するようになり、作業用のカッターナイフを、渡された折りたたみ式ナイフに変えた。
オイルライター、オイル缶、火を広げるための新聞紙、そして、上着のポケットに入れたナイフ。
私の願望を叶えるための道具が揃い、私はトリガーに指をかけた。
新聞紙の束にオイルをかけて火をつける。燃え上がった炎が全てを焼き尽くしてくれたら文句無し。例えボヤになっても、奴を燻り出せればそれでいい。私はヘルメットを深くかぶった新聞配達員。夜の景色に溶け込み、野次馬としてその場所にいても何の違和感もない。もちろん、外に出てきた奴の背後に立っていたっておかしくはない。
ポケットに忍ばせたナイフを右手で握る。呼吸を整え、煙が出ている家を見ている彼に近づき、真後ろから首を目掛けて刺す。
頭でイメージした一連の動作を繰り返し再生する。映像が定まった後は、駅前の公衆トイレの個室で動きを確認し、流れを体に叩き込んだ。
狭い空間にこもった独特の臭いとカビだらけのタイル。蜘蛛の巣に絡まった蛾の死骸が強く残って今も消えない。
その日は、風が強い日だった。
いつもは遅くまで電気がついている近くの家も真っ暗だった。
条件は全て揃っている。後は気持ちを決めるだけ。それは分かっているのになかなか覚悟が決まらず、向かいのアパートの2階から長い時間奴の家を見つめていた。
今まで受けた仕打ちを頭でなぞり、定まらない気持ちを固めていく。
午前2時40分、午前2時45分。腕時計を凝視して自分との約束をする。
2時50分になったら、何が何でもやろう。
そう決心した。
約束の午前2時50分。
心を決めた私は、駆け足でアパートの階段をくだり1階におりた。その瞬間、階段の真裏にある部屋のドアが開き、若い女の人が出てきた。
私の様子がおかしかったのか、もしくは、こんな時間に人がいるとは予想していなかったのか、その女の人は私を見て小さな悲鳴をあげた。彼女の声を聞いて、部屋の中から男の人が出てくる。彼は一旦私に対峙してから、アパートの前にとめていたスーパーカブに顔を向け、軽く頭をさげた。
「新聞配達の人だよ」
男の人がそう言ったのを聞いて、私は急いでバイクに戻り、エンジンをかけて走り出した。
今まで何度も、同じ時間帯にこのアパートに来ていたが、人と遭遇したことなど一度もなかった。丑三つ時の住宅街、計画を立てた時点で人に出くわす可能性など考えておらず、ましてやあんなタイミングで誰かと鉢合わせするなど想像もしていなかった。
顔を見られたことが、とにかく怖かった。
偶然会ったカップルに、こちらの魂胆など分かるはずがないのだが、内側にある殺意を見透かされた気がして頭が真っ白になった。
決めた覚悟を失った私は、自ら抱え込んだ悪意が恐ろしくなり、逃げるようにしてコンビニへ向かった。
それから、私が行動を起こすことはなかった。
我に返ってからのうろたえを目の当たりにした後では、憎悪を持つことさえ身分不相応に思えた。
己の行動で状況を打破できないと痛感した私は、決して頼りたくはなかった方向からの助けで救われるまで、従順なカモとして金と自尊心を奴らに提供し続けた。
物事の全ては、紙一重なのだと思う。
あの日、あのタイミングでアパートのドアが開くまで、私は私ではなくなっていた。
午前2時40分、45分、50分。時間が過ぎるごとに、それまでの焦りが取れて気持ちが落ち着いた。感情が暗い落とし穴にはまっているようで、身動きは取れないが何故か心地よかった。
もしも、あのまま邪魔が入らずに奴の家へ行けたなら、火をつけたのだろうか。
もしも、あのまま正気に戻らず、怨恨に体を動かされたままだったら、ナイフで刺したのだろうか。
あれからずっとそのことを考えているが、答えは出ない。
あの夜の「もしも」の先は分からないが、あの時、「たまたま」アパートのドアが開いたことで、私の世界は2つに分かれた。
私が生きている世界。
私が生きている別の世界。
私は今、私が生きている世界を生きている。
(続く)