ミレニアム前後のセレナーデ

シーブリーズを首もとにふりかけた女の子が、あぶらとり紙で頬についた98年を拭き取った。クラスで目立つグループに入っていた生徒は、だいたい「よーじや」を使っていて、1、2年前まで愛用していた白いルーズソックスの代わりに、シュッとしたラルフのハイソックスを履いていた。

売れている音楽を悪だと勘違いしていたあの頃の私は、借りてきたアイデンティティにならって3、4番手がイケてるのだと信じて疑わず、シーブリーズでもギャツビーでもなくGymを選んで、暇さえあればプシュープシューとノズルを押していた。

どうしようもなく息苦しくて、嫌なことばかりだった毎日。それでも笑ったり笑われたり、騙したり騙されたりしながら、窓の外を眺めて6時間目が終わるのを待った。

行ってもいいコンビニと行ってはいけないコンビニを見分けるのがあの頃を生き残るコツで、何も知らないうちは誤って魔窟へと足を踏み入れてしまい、入り口付近を占拠する鬼たちに「パーティー券」と呼ばれる紙クズを押し付けられ、バイト代をむしり取られたりした。ここなら安全だろ、と向かったデイリーヤマザキでさえ、曜日と共に移動するノマド的な鬼に捕まることもあり、全く気が抜けなかった。

ジョーダン狩り、エアマックス狩り、リーガルのローファー狩り、紺色ラルフのベスト狩り、クロムハーツ狩り(手が届く代物ではなかったが)などといった世紀末の名に相応しいワイルドワイルドウエストの荒野に放り込まれた私は、ラッシュの小瓶が転がる駅前を抜けて、完全自殺マニュアルが平積みになったヴィレッジヴァンガード脇でミスティオを飲み、身分証提示を必要としない合法と非合法がごっちゃ混ぜになった世界をすっ転びながら生きた。

デスクトップでもラップトップでもタブレットでもなかったアンコ型の「パソコン」はあの当時まだまだ遠い存在で、四角いセンティーAの殻を破り、小型化に成功したPHSを手に入れても、ライトグリーンに光る狭いスクリーンは世の中の不思議を何一つ教えてはくれなかった。

目に見えるもの殆どが不透明だったミレニアム前後、距離で言えばSiriよりも一太郎の亀の方が断然近くにおり、私は所轄の刑事よろしく、とにかく足を動かして街を彷徨い、雑誌をめくっては漠然とした情報を集めて、DA.YO.NEの向こう側にある宝物を探し求めた。知らないということは時として幸せなことであり、何百何千のレビュー代わりに信じるのは自分の感性で、CDのジャケット買いを繰り返しては、ナンバーワンになり得ないもっともっと特別なオンリーワンを見つけ出せたぞ、と自惚れられる自由さがあった。それは服や映画も同じで、下北のシカゴで古着を買えば、その服のデザインがどうあれ、めちゃくちゃオシャレに感じたし、金曜ロードショーの常連作品以外の映画を鑑賞すれば、とんでもなくディープな世界に浸れた気がした。四畳半の薄暗い部屋に閉じこもっていても、ソニーのヘッドホン越しに人間発電所やペーパードライヴァーズミュージックを耳に流せば、気分はMTVトップチョイスになれた時代だった。

10代後半から20代前半のセレナーデ。深夜過ぎに終わったバイト帰りの国道で2000年サングラスをかけた集団とすれ違った時、自分自身の今後も含め、本当に何もかもが漠然としていた。予想に反して1999年に世界は滅びず、勝手に世紀だけが変わってしまった社会で生きていく見通しがつけられなかった私は、だんだんとその場限りの快楽に逃げるようになり、新しい時代と歩調を合わすようにスピードを上げていく周りの人たちを羨んでは悪態をつき、布団の中に潜るようになった。

絶対に戻りたくはないけれど、所々ではちゃんと楽しかった日々。大嫌いで吐きそうな日々だったけれど、不透明な分ワクワクが多かったミレニアム前後。

あの頃に対する拒否感が薄れていき、浮かべる場面が増えていくほど、記憶は思い出に変わり、とんでもなかった時間に対して愛おしさが生まれる。

歳を重ねれば「あの頃」と踊れるものだと言われたことがあるが、あながち嘘でもないらしい。

これから世界がどうなろうとも、記憶が思い出に変わっていくのなら、生きていくのも悪くない。

今年の3月から見てきた混乱とも、いつの日かステップを踏める日がくるのだろうか。

どうして良いのか分からない規制が並び、手足を縛られた感覚に押し潰される時もあるけれど、近い将来、2020年前後のセレナーデが歌えることを願って、今日も眠りにつきたいと思う。

 

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赤い爪

雨が降っても開かない傘

帰れない火曜日に石を投げる

 

肌色が透ける磨りガラス

必死に動いてバカみたいだね

 

赤い靴下に真っ赤な下着

足の爪まで朱色に染まった

 

欲望は美しいって言われたって

子供に分かるわけないだろって

 

チューインガムで貼り付けた似顔絵

ペラペラの薄さでヘラヘラ笑う

鉛筆を回して尖らせた感情

突き刺した紙の目がこっちを見てんだ

 

消えない影は伸びた髪の毛

しつこく絡んで首を絞める

 

目を閉じても寝れない真夜中

苦しくなったら鏡を覗きな

 

目を背けなきゃ会えるから

あん時の自分に会えるから

 

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腕を伸ばして手を握ってくれ
自分を救えるのは自分だけだ

 

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衝動解放活動

楽しい時間はあっという間に終わる。

本当に同じ尺を使っているのかと疑いたくなるほど、楽しい時とそうでない時の体感差が激しい。それはもちろん集中しているか否か、脳内のナンチャラ成分が分泌されているか否かなどと言ってしまえばそれだけの話なのだが、どうもその説明では素直に納得できない。

まだ私が日本にいた頃、銀色の髪をした恐ろしい人の部屋に閉じ込められたことがある。『閉じ込められた』と言うと表現が強くなってしまうが、拉致や監禁ではなく、軟禁だ。

「お前、エヴァンゲリオン知ってるか?」

地元の駅で数年ぶりに再会してしまった恐ろしい中学の同級生は、銀色の髪をしていた。

「お前、エヴァンゲリオン知ってるか?」

私がその時、彼にどう返答したのか覚えていないが、しばらくして何故に何故だか私の体はその銀髪さんが住むアパートにテレポートしていた。時期が夏だったので、酷く蒸し暑い部屋だったことを記憶している。

鬼のようだった中学時代の銀髪さんと、新世紀エヴァンゲリオンとの接点を見出せないまま固まっていると、何の説明もなくビデオデッキにテープが差し込まれた。

「おもしろいから観ろよ」

銀髪の鬼はそんな感じの言葉を口にして、私の横に座った。

残酷な天使のように

少年よ神話になれ

早送り機能が壊れていたのか、もしくはアニメの主題歌に惚れ込んでいたのかは定かでないが、銀髪鬼はそのオープニングテーマを決して飛ばさなかった。

例えどんなに素晴らしいものであっても、受け取る状況によってその印象は大きく変化する。

まだ外が明るいうちに閉じ込められ、辺りが完全に暗くなるまでの間、蒸し暑い部屋で延々と主題歌付きの映像を観させられたせいで、エヴァンゲリオンのイメージがとんでもないものになってしまった。

終わりなきスパイラルのように繰り返された『残酷な天使テーゼ』、そのタイトルが全てを表しているかのような状況で、無言の圧力を感じながら碇シンジの憂鬱と共に時間を過ごした。

今考えても、何故あの時あの蒸し暑い部屋で強制的にエヴァンゲリオンを視聴させられたのか分からない。彼が夢中になった作品の伝道活動だったのかもしれないが、もしそうなら逆効果であり大失敗だ。

私が彼の部屋に軟禁されている間、その場に流れる時間の進みがすさまじく遅かった。アニメの30分枠があれほどまでに長く感じたのは、後にも先にもあの蒸し暑い部屋で観たエヴァンゲリオンだけだった。

 

1日を構成する時間は24で区切られていて、その24の内訳が60だということに異論はない。そして、それらの数が毎日変わらず平等に私たちに配られていることも理解している。だがその事実から数字という概念を取っ払うと、時間は平等なものではなくなるはずだ。……そう、なくなるはずだと言い切りたいのだが、実際のところはよく分からない。

ただ、「1日は24時間で1年は365日だから絶対的に時間は平等!」という説明よりも、「時間は状況次第で速くも遅くもなるから、24時間じゃないかもしれないし、365日でもないかもしれないので平等とは言えない」と説かれた方が腑に落ちるのだ。

楽しい時間とそうでない時間が選択肢としてあるのなら、もちろん楽しい時間を選んで生きていきたい。気が付いたら1、2時間などパッと過ぎてしまっているあの感覚だ。

年を取ったら落ち着くものだ、などと言う定説に賛同する気はないが、年を取ることでいわゆる「あの頃」におこなっていた衝動解放活動の回数は確実に減ってしまった。ここで言う衝動解放活動とは、心が躍る行為であり、もっと平たく表現すると「楽しくて好きで仕方のないこと」である。他の誰かのためではなく、湧き上がる思いを自ら肩に担いで走り回る衝動解放活動。私の頭の中にある「これぞ」という感覚を、さかもツイン id:sakamotwinのねねさんが記事に書いておられた。

『火曜サスペンスごっこ』と銘打たれた彼女の活動は、私が思い描く衝動解放活動そのものだった。ねねさんが取り組んでいる『火曜サスペンスごっこ』とは如何なるものかは、以下の写真で確認して頂きたい。

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1枚目は写真自体が話してくれているので、何の説明もいらない。最初の写真も素敵なのだが、私のお気に入りは2枚目だ。誰もいない波止場、遠くに見える工場の夜景、その光が映った日没後の海、といった火曜サスペンス的な要素が詰め込まれたザ・火サス的なフォトグラフで、「何ともまぁ」という気分になった。

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学生時代50m12秒台の栄光は波より遅いダッシュとして今も私のなかに輝き続ける。

適切に表現できないのだが記事内にある上記のフレーズを目にした時、昔大好きだった炭酸飲料が頭に浮かんだ。「そうだよな、やっぱライフガードだよな」という感情が弾け、液晶画面に向かって何度も頷いた。

上に貼ったリンクの見出しにもあるように、大きな声を出して走り回ったり笑ったりしたほうがいいと、個人的にも強く思う。それは彼女のように実際に体を動かしても、体ではなく心を動かしてもどちらでも良いのだと考えている。

フワッとしたイメージが景色になり、映像に変わって色がつく。そこに音と匂いが入って会話が始まると「よしっ!」となる。胸が高鳴ると楽しい。頭の中で生まれた世界がオンギャーと歩き出した気がして嬉しくなる。その感覚は小説を書いてる時や自分の街を作ってる時だったり、シャワーを浴びている最中に現れるのだが、忙しさにかまけているとすぐに何処かへ行ってしまう。

COVID-19が日常を変える半年ほど前、私は仕事を通して自分の承認欲求を満たそうと決めて昇進のオファーを受けた。その決断が自分の周りにかかるモヤを吹き飛ばすと考えていたからだ。書く時間を犠牲にしてでも、心の隙間を欲で埋めれば総合的に見てプラスに働くものだと思っていた。

でも、違った。私の選択は間違っていた。

心と距離が離れた場所で承認欲求を満たそうとすると、穴の空いた袋にビー玉を詰め込んでいる気分になる。どれだけ玉を入れたところで、袋が満たされることはない。

(これはマズイことになった)

底が抜けた袋を手にしていたことに気付き、慌てて床に散らばったビー玉を回収していると、予告もなしに空からパンデミックが降ってきた。

(とんでもねぇことになった)

穴の空いた袋を手放し、必死に集めたビー玉を放り投げた私は、とんでもねぇことになった社会に対応するため、とんでもねぇ空気になっている会社の会議に参加した。

『マネージャー陣は基本継続して勤務』という有無を言わせない方針が決まり、訳が分からぬまま消毒グッズに囲まれる日々が始まったのが3月中旬。その少し前に、カナダ政府が4ヶ月を上限に月々2000ドルを個人に支給するという政策を耳にしていた私は、半年前に自分が下した決断を深く後悔した。

4ヶ月間の合計労働時間=0hrs

4ヶ月間の合計不労収入=$8000

上の数字は夢だ。言うなれば、エンジェルナンバーだ。

あのまま社員でいたら、4ヶ月間書き放題だったじゃないか。つまり、昼過ぎに起きてチョコが付着したビスケットをかじりながらコーヒーを飲み、好き放題猫んズと戯れてラーメンなどを食い、気になる事件を調べた後にストリートビューで多摩ニュータウンに舞い降りることができたわけだ。

半年前の自分が享受できたであろう生活が頭をかすめ、「何やってんだよ!」という感情が腹の底から湧き上がった。

そもそも動悸が不純だった。決して承認欲求が悪い訳じゃない。対象をすり替えたのがいけなかった。エリーゼを強く欲してる時に、ルマンドやバームロールでは替えがきかない。ルマンドもバームロールも美味しいのだが、そういう問題ではないのだ。それに、承認欲求と衝動解放活動を天秤にかけること自体おかしい。このふたつは全く別物であって比べる対象ではない。たけのこの里を食べたらきのこの山が食べたくなるように、両者の関係が「衝動解放活動ー承認欲求」と付随するのなら分かる、でもmeijiの二枚看板を計りにかけちゃいけない。まさに、「何やってんだよ!」だ。

今回の騒動しかり、自分の昇進の件しかり、物事は何か意味があって起こっているのだと信じている。本当の本当など分からないが、ただそう信じている。自分の身に起こったことを全て都合よく捉えるならば、このきっかけがなければ承認欲求と衝動解放活動の違いをこういった形で意識することができなかったのかもしれない。今の仕事を辞める気はないが、今後何かの決断を下す時は衝動解放活動を最優先に考えようと心に決めた。食べていくことの次に大事なことは、嬉しくて楽しいことだ。嬉しくて楽しい時間が続くと、承認欲求は影をひそめる。きっと、使う脳みそが違うのだろう。

 

どうせなら、嬉しく生きる。

どうせなら、好きに咲く。

 

楽しくて好きで仕方がないから、私は書いているんだ。

 

***

 

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子供の頃に見た正月みたいな風景

オンタリオ州の緊急事態宣言が発令されてから今日で1ヶ月と18日。4日間の休みが取れたので、念願だった散歩に出た。

政府からの通達に従い、身分証明書を携帯してウォーキングシューズを履く。

天気は雲が散らばる晴れ。気温10度。歩いて5分程の距離にあるメインストリートに着くと、子供の頃に見た正月みたいな風景が広がっていた。

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ご覧の通り、繁華街の機能は停止している。辺りに人がいないわけではないが、まばら。なので自動的にソーシャルディスタンスを保てている。

この街に移って13年経つが、こんなにも人が少ない繁華街を見たことがない。

道沿いの店舗は全て閉まっているのにも関わらず、週末は人が来ているという話を耳にするので、月曜日の昼下がりという要素も手伝っての風景なのだろう。

 

メインストリートの坂を下って滝に近づいても、状況は一緒だった。

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アメリカ滝もカナダ滝も変わらずそこにあるのだが、その周りにあった人混みとビジネスが何かのイリュージョンのように消えた。

 

COVID-19が世界を包んで、私の生活は変わった。もちろん、私だけの話ではないのだが、私が一番よく知っている私の生活が変わった。

消毒液の匂いに囲まれていると頭痛を起こすのだと知ったのは、この騒動がきっかけだったし、労働そのものに対しての疑問を持ち始めたのも、この混乱がきっかけだった。

「雲を掴むよう」とはよく言ったもので、今現在、自分を取り巻く様々なものがおぼろげな状態になっている。そわそわしていて落ち着かない。ふわっふわしていて決められない。まるで、大戸屋のメニューを前にしている気分だ。

定まらない思いが淡い雲のようだとしても、どうせならもっと濃く、欲を言うなら綿アメみたいに甘ければ悩む必要などないのだろう。食べれるようだったら食べてしまえばいいんだし、口の中で溶かしてしまうことだってできる。

右脳と左脳を動員し、「どう思う」「どうだろう」を繰り返しても答えは出ない。答えが出ないから続けて歩く。

 

この時期、アメリカとの国境も商用配達トラック以外は封鎖されているので、観光目的での入国が主なレインボーブリッジは閑散としている。

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ある程度長く住んでいるのだが、上の画像の右側にある高架下をくぐったことがなかったので、行ってみることにした。

入り口を撮り忘れたが、中の様子はこんな感じ。

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最高だった。

柱がいい。連なる柱がいい。ズンって伸びる柱、最高。

 

高架下を抜けた先に佇むアイスクリームの看板。トリプルポーションがこの国の気質を象徴している。

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写真の順序が前後するが、橋の手前にある公園にもひと家族がいるだけだった。

時間制限なしの貸切公園。後ろが詰まっていない安心感。気を使って早風呂することもない。

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個人的な見解だが、人がいないと成り立たない風景があると思う。

人馴れしている場面と言うべきか。

それはかつて、人との距離が近かったものほど大きな違和感を覚え、その建物単体だと嘘みたいになってしまうのだ。

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ほら、やっぱり嘘みたいだ。

 

車が走らない道路。雑草扱いされ忌み嫌われるたんぽぽも咲き放題。

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誰かが損をすると誰かが得をする法則は、この状況でも変わらないみたいだ。

 

COVID-19に意味があるとすれば、私にとってそれは、ラーの鏡だ。

サマンオサのニセモノ王よろしく、その対象が人であろうが会社であろうが街であろうが、バッサバッサと化けの皮を剥がし、隠されている正体を暴いていく。

自分自身を含め、本性を晒されたらきっと元には戻れないのだろう。

その時に直視するものが、本来の姿なのだから。

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***

 

サラバ、私が見てきた世界よ

家の近くにあったレンタルビデオ店は、「TSUTAYA」ではなく、「すみや」だった。

店の内装や雰囲気は駅前にあったTSUTAYAの方が洒落ていたが、私はアットホームなすみやが好きだった。

閉店間際に行って映画を3本借り、すぐ横にあったセブンイレブンでチェリオのライフガードと午後の紅茶レモンティー、牛カルビ弁当とおにぎり2つを購入し、国道沿いの自動販売機でタバコを3箱買って帰宅するのが私の定番だった。

映画はもちろんのこと、CDの購入も殆どせずにレンタルばかりを行なっていた私にとって、すみやは巨大なジュークボックスであり、映画館でもあった。

当時の私は、年がら年中行動を共にしていた集まりの影響で「売れ線=悪」という歪んだ思想に侵されており、すみやジュークボックスのプレイリストでは満足できなくなっていた。

クリックひとつで何でも買える社会が訪れる前の旧世界、箱型Windowsを未来のツールだと認識していた私は、自分の望みを叶えるため、重い腰をあげて電車に乗った。

古着のセーターにLevi's 501、には手が届かなかったのでLeeのジーンズを合わせ、街に出る時だけ箱から出したエアマックスを履いて向かったのは、タワーレコードやディスクユニオン。背伸びのしすぎで足は疲れたが、欲しくて堪らなかったCDを手にした充実感と共に下り電車に揺られるのが好きだった。

アキレス腱を伸ばして背伸びをするのは服を買いに行く時も同じで、お決まりの自己ベストに身を包んで下北沢の駅におりていた。

 

何てことはない、ひと昔前の風景。

インターネットは存在していたが気軽に声をかける間柄ではなく、情報の殆どをテレビや雑誌から得ていた。いつでも知りたい時に知りたい情報が手に入るわけではないため、その正確さは曖昧で、店の営業時間や在庫情報などは出たとこ勝負、せっかく足を伸ばしたのに目当ての商品が置いていないなどということもよくあった。

でも、今は違う。

上に述べた店や在庫の情報はもちろん、何なら実際に足を運ばなくても、クリックひとつで望みの商品を自宅まで届けてくれる。しかも新品だけではなく、お財布に優しい中古品までその状態の詳しい説明付きで販売してくれるのだ。これでもうお手頃価格の小説や漫画を求めてブックオフ巡礼する必要も、趣味の本を探しに有隣堂を歩き回る必要も、その有隣堂にも置いていない雑誌を求めてヴィレッジヴァンガードの門を叩く必要もなくなった。私たちが手にする情報はとても正確で、間違いはほぼない。だから、買い物に関しての失敗は少なくなった。家の中でポチッとすればよいので、着飾る必要もなく、パジャマの裾を靴下にインしたスタイルでそれっぽい服を購入できるようになったのだ。私たちが享受する便利さに反比例して、煩わしさや失敗、背伸びや恥はどんどん減っていった。

あの頃から見れば、今の状況は未来そのものだ。小さい頃におさがりでもらった本に描いてあったようなピタピタの宇宙服や空飛ぶ車を目にすることはないが、確実に私は今、未来世界を生きている。

そう、生きている、未来を生きている、そう思っていた。これが未来なのだ、私はそう思っていたが、何だか違うみたいだ。

2020年、COVID-19がどこからともなく現れた。このウイルスは凄い勢いで世界中に広まり、ここ数ヶ月で私の見ていた景色を飲み込んで変えてしまった。

3月16日、カナダ政府の声明に合わせるように、私の勤めている会社は一部を除き完全冬眠に入った。あれから約1ヶ月。まだ稼働している部署に移った私は、異世界のようになった街に通い、消毒液の匂いに囲まれてる。

PC、電話、椅子、机、ペン、ドアノブなど、ありとあらゆる箇所をサニタイズし、ボォーッとしながら会社のインスタグラムを眺めていると、街の地ビール会社がドローンを使って注文客の家のバックヤードに商品を届けている映像が流れてきた。きっとプロモーションの一環なのだと思うが、その光景は、私の知っている未来ではなかった。

いつか来るであろうが、今すぐには来ないであろうと考えていた近未来の風景。私が認識していた未来は、その映像を見た時点で、もう未来ではなくなってしまった。

この混乱の後に、きっと世界は変わる。

不衛生で危ないものだと認識されてしまった紙幣やコインも、今後登場回数を減らすだろうし(現時点で多くの店舗が受け取りを拒否している)、食品を含めた日用品のデリバリーも、その数を飛躍的に増やすのだろう。人が運ぶ必要のないものは機械が運び、レジや受付、一般的な銀行業務なども今以上に人を配置する必要がなくなる。

ワークスタイルだってそうだ。これを機にテレワークが伸びるだろうから、出勤という概念そのものが変わっていくのだろう。

 

カセット、CD、CD-R、MD、そしてMP3。

すみや、ディスクユニオン、タワーレコード、そしてiTunes Store。

再生プレーヤーと店を変えながら、アナログとデジタルを泳いできた。

インターネットの魔法が使えるようになるまで、紙をめくり、チャンネルを変え、曖昧な情報を抱えたまま電車に揺られて歩き回り、目当ての本や音楽や服を購入してきた。

そのどれもが遠回りで面倒だったけれど、目当てのものを得られた時は心の底から嬉しかった。

 

正直、現時点でも充分過ぎるほど未来なのだが、世界はそのままでいる気はないらしい。

ニケツで自電車を漕いだ安藤政信と金子賢よろしく、旧世界という名の校庭をグルグル回っていたかったけど、どうやらそうもいかないみたいだ。

だから、先に別れを言っておく。

サラバ、私が見てきた世界よ。

前情報なしで入ったラーメン屋、クソまずかったな。

今はレビューが見れるけど、そんなもん無視してまたフラッと入ろうな。

またすぐ思い出すから、それまで元気でな。

 

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恥なんか、多摩川に捨てた

「なぁ、ダメ元で聞くんだけど、『付かず離れず』って、どんな感じの関係を言ってるのか分かるか?」

「付かず離れず? 何だ急に」

「大したことじゃないんだけど、ちょっと気になってね」

「何の雑誌だ?」

「え?」

「お前が変なこと聞いてくるときは、大体雑誌が出所だ。何の雑誌の情報だ?」

「何って、ホットドッグプレスだけど」

「やめとけ。ホットドッグプレスは素人が手を出す雑誌じゃねぇ」

「何だよそれ」

「お前な、ホットドッグプレスなめんなよ。あっこから正解見つけられんのは、カルバンクラインのトランクス履いてる奴らだけだ。諦めろ」

「諦めるもなにも、まだ何も言ってないだろ」

「『いつの間にやら急接近 付かず離れずのアプローチ』だろ? お見通しだよ」

「お前だって読んでんじゃねーか」

「俺のはジャケ買いだ。一緒にすんな」

「それ、言ってて恥ずかしくないか?」

「恥なんか多摩川に捨てた。で? 質問はなんだ?」

「だから、付かず離れずの関係。分からないならいいよ」

「そう簡単に諦めんなよ」

「さっきは諦めろって言ったろ。発言ブレブレだな」

「細かいなぁ。臨機応変に行こうぜ、21世紀なんだから」

「都合のいい脳みそだな」

「まぁあれだな、『付かず離れず』はひとことで言うと、チェリオだ」

「は?」

「間違ってもコーラじゃねぇぞ。あれの売りはハイタッチできる関係だからな」

「何の話をしてんだよ」

「分かんねーかなぁ。だったら図書室をイメージしてみろよ。俺の言ってることが分かるから」

「図書室? うちの学校か?」

「どこだっていいよ。とりあえず、部屋に入るとこからな」

「オッケー。じゃあ……はい、図書室に入ったぞ」

「よし、まずは受付な。カウンター越しにいる図書部員は午後の紅茶だ。細かく言うと、ミルクティーとストレートティーのふたり。レモンティーは陸上部だからここには登場しない」

「ん? 午後の紅茶?」

「頭に浮かぶ疑問は、一旦端っこに置いとけ。続けるぞ」

「疑問しか浮かばないが、了解した」

「いいか、ミルクティーとストレートティーは感じ良く対応してくれるが、各々の仕事を全うしているだけだ。プロフェッショナリズムを優しさと捉えちゃいけない。よって、付かず離れずではない。理解したか?」

「いや、全く」

「ちゃんとついてこいよ。それで、受付を通過したお前の目に飛び込むのは、笑顔で話をしているグループだ。そいつらはファンタな」

「ファンタ?」

「そう。爽やか炭酸のファンタ。ファンタの社交性は高いぞ。そんでもって距離も近い。お前サッカー観るのか? 海外の、あのセリエなんとかって言うやつ」

「俺がサッカーの話なんかしたことないだろ」

「だったら情報仕入れといた方がいいぞ。目が合ったら大体、サッカーの話を振ってくるからな」

「マジかよ。ファンタ怖いな」

「怖くない怖くない。関係性のドアが開けっ広げなだけで、爽やかなグループだ。話振られてよく分かんなかったら、ジーコとかアルシンドの名前を出せば何とかなる」

「ジーコかアルシンドな、分かった」

「まぁ、そんなこんなだから付かず離れずで言うと、ファンタグループも違う」

「ちょっと待て、アルシンドだっけ、アルシエンドだっけ?」

「そこで止まるな、置いてくぞ。とにかく、ファンタ集団の脇を抜けると、窓際に佇む生徒がいる。その子がポッカな」

「窓際の子がポッカね。で、ポッカの何?」

「ポッカはポッカだろ。説明不要のビッグネームだ。何か問題あるか?」

「いや、商品名が続いてたから、そういうもんなのかと」

「おい、こっちは想像で話をしてんだからな。想像の世界に方程式があってたまるか」

「オッケー、オッケー。それで、ポッカがどうした?」

「だから、窓際で佇んでんの」

「うん……え、それだけ?」

「それだけって、お前、ポッカに失礼だろ。ちゃんと想像しろよ、図書室だぞ。窓際にポッカが佇んでたって何の問題もないだろ」

「ポッカを擬人化するとややこしいけど、まぁ、確かに佇んでてもおかしくないな」

「きっとな、理由があってそこに立ってんだよ。だから、付かず離れずなんか言ってる場合じゃねぇ。そっとしといてやろうぜ」

「あぁ、そっとしとくけどさ、ふれないんだったら何でポッカを登場させたんだよ」

「俺なりの敬意表明だ」

「答え聞いて更に疑問が増えたよ」

「ちゃんと集中しろよ。本題に近づいてんだから」

「集中したって、お前の話は理解不能だぞ」

「で、次。歴史の本棚の奥で、紙に魔方陣描いてる生徒がいるだろ」

「いるだろって言われても、いるのか?」

「あの子はサンガリアだ」

「サンガリアって、『いち、にぃ、サンガリア』のサンガリアか?」

「あぁ。そこくるかって角度から新商品を召喚する、あのサンガリアだ」

「今回も会社名だけか?」

「同じ理論を何度も言わせんな。それはそうと、お前、サンガリアの企業スローガン知ってるか?」

「いや、『いち、にぃ、サンガリア』は耳に残ってるけど、スローガンはちょっと」

「『はてしなく自然飲料を追求するサンガリア』だ。これ、凄くないか? こんな突き抜けてるスローガンは、そうそうお目にかかれないぞ」

「『いち、にぃ』のポップ感とは打って変わっての重量感だな」

「そりゃそうだろ。『はてしなく』追求してんだからな。『いち、にぃ』と同じノリじゃ出来ねぇよ」

「確かにな。で、そのサンガリアは何してんだ?」

「そりゃ、はてしなく魔方陣を描いてんだろ。詳しくは分からねぇけど」

「何で話してる本人が定かじゃねーんだよ。お前の世界の話だろ?」

「まぁでもよ、俺は好きだぜ。周りから理解されなくても、自分の興味を追求している人は。その『好き』が本物なら、自然と光って見えるしな」

「お前の好みはどうでもいいけど、付かず離れずはどこにいった? ていうかさ、何でこの話の登場人物は飲み物とかその会社なんだ? 清涼飲料水じゃなきゃいけないのか?」

「質問が多いな。心配すんな、こっちはちゃんと考えてキャストを選んでんだから。それに、今回は説明を分かり易くする為に身近な飲み物を使ってんだよ」

「じゃあ、お〜いお茶は?」

「あ?」

「俺にとって身近な飲み物は、お〜いお茶だ。お前の分かりにくい話を理解するには、自分の基準が必要だ。ここにお〜いお茶を入れるなら、何の役になる?」

「勝手に脚本を変えようとすんな。まったく、しょーがねぇなー。お〜いお茶? お〜いお茶は、司書だ」

「司書か。オッケー。じゃあ、ジャスミン茶は?」

「伊藤園で攻めてくるな。ジャスミン茶だろ、ジャスミン茶は……古文の教師だ」

「オロナミンCは?」

「体育教師だ」

「ただの連想ゲームになってんじゃねーか」

「連想ゲームじゃねーって。こっちはちゃんと考えてんだから」

「じゃあ、ダイドーは?」

「ダイドーって、会社はなしだろ」

「窓際に佇んでるポッカがいるだろが!」

「分かってるよ! ダイドーは転校生!」

 「完全に思いつきで言ってんな」

「失礼だな。そんな訳ねぇだろ」

「だったらポカリは?」

「ポカリは、野球部」

「部活にまで手を広げたか。みさかいねーな。それに、ここは図書室だろ? 司書はいいとしても、何で図書室に文化部と運動部が大集合してんだよ。オールスター感謝祭か?」

「グダグダうるせぇなー。野球部は窓から入ったボールを探しにきただけ、ジャスミン古文はダイドー転校生に図書室を案内してるだけだ。それぞれ理由があってこの部屋にいるんだよ」

「ふざけんな、窓から野球ボールが入ったんならポッカに直撃じゃねーか! どうしてくれんだ!」

「缶だからへっこんでも問題ないだろ! それにな、もしものことがあっても大丈夫。サンガリアがいる。何の為に魔方陣描いてたと思ってんだよ」

「都合よくサンガリアを使ってんじゃねー。勘違いすんなよ。お前のストーリーの穴を埋める為にサンガリアが魔方陣描いてんじゃねーからな」

「鬼の首を取ったみたいに騒ぐなよ。話が進まねぇじゃねーか」

「お前がむちゃくちゃなこと言ってんからだろ」

「とにかくよ、サンガリアから視点を移そうぜ。ほら、歴史の本棚の左にある長机を見ろよ。隅に座って分厚いJRの時刻表を読んでる生徒がいるだろ。あれが付かず離れずのキーパーソン、チェリオだ。話が脱線して長くなったが、とうとうご本人さんの登場だぜ」

「モノマネ番組みたいだな」

「お前、今ちょうど2Bの鉛筆が折れただろ?」

「は?」

「あのな、お前は今、チェリオと同じ長机に座って何かを書こうとしてんの。そんで、手に持った2Bの鉛筆の芯が不幸にも折れちゃったんだよ。どうすんだ、大変な状況だぞ!」

「お……おぉ。でも、俺シャーペンしか使わないんだけど」

「分かってねーなー。設定では鉛筆しかないんだよ」

「はいはい、分かりましたよ。はい、たった今、手に持った2Bの鉛筆の芯が折れましたよ〜」

「お前、俺のことバカにしてるだろ」

「バカにしてんじゃねー。あやしてんだよ」

「あやされてんのか。怒るべきなのかどうか、ギリギリのラインだな。まぁいい、そんで、お前は折れた鉛筆を手に持って呆然としてんだ。なんたって、鉛筆はそのいっぽんしかないんだからな。こりゃー困ったことになったぞ。今とんでもなく素晴らしいアイデアが浮かんで、それを書き残さなきゃいけないのに肝心の鉛筆がない。発想は生モノだからな、今書かなかったらそのアイデアは泡のように消えちまう。さぁーどうしよう。目の前真っ暗で、頭真っ白よ。困った困った。あぁー、困った困った」

「お前の煽り方、とんでもなく下手だな」

「まぁ聞け。そんでな、そんな状況で為す術もなく下を向いて口半開きになってるどうしようもないお前の視界に、ススゥーと何かが滑り込む。おい、それ、何だと思う?」

「え? ごめん、ちょっと聞いてなかった」

「おい、人の話ちゃんと聞けよ! こっちはノーギャラで話してんだぞ!」

「こっちはノーギャラで話聞いてやってんだ。文句言うな」

「だから! ススゥーって机の上を滑ってきたの! ススゥーって! 消しゴム大サイズで、端っこに丸い穴が空いてて、削り刃が付いてる。お前それ何だと思う? なんと、携帯鉛筆削り器だぞ。まさに地獄に仏。驚きだろ?」

「驚かねーよ。長い説明の中にヒント満載で、ほぼ答え言ってたからな」

「バカ野郎。こっちは小道具の話なんかしてねーんだ。ブツの出所の話をしてんだよ。物事を俯瞰してみろ。ススゥーを逆再生して行き着く先は、チェリオだ」

「はぁ」

「返事に気持ち込めろよ。これ、ちゃんと考えるとすげーことだぞ。何の面識もないお前の為に、チェリオは自分の削り器をススゥーとお前の目の前に滑り込ませた。蛍光ペンを持った右手でJRの時刻表に線を引き、空いてる左手でカーリングのストーンを投げるみたいにススゥーっと。しかも何も言わずに。そんな芸当は一朝一夕で出来る代物じゃねぇ」

「なぁ、お前が今ダラダラ垂れ流してる妄想話と、俺が聞きたい付かず離れずの関係は、いつかくっつく時がくるのか?」

「お前何言ってんだよ! 今の時点でくっつくどころか、ガッチガチに絡み合ってるだろうが! いいか、今回チェリオが取った行動は『付かず離れず』の素晴らしい見本だ。気軽に声をかけるわけでもなく、かといって困ってるお前を見捨てるわけでもなく、あくまで自然体で行動を起こした。お前な、ゴミを見るような目で俺のこと見てるけど、お前はチェリオと同じことができるのか? 確か、お前のボーリングのハイスコアは68だよな? その腕前じゃ、鉛筆削り器は明後日の方向にサヨナラしてジ・エンドだ。そんでもって、お前がガーター出して床に落とした削り器を誰が拾うと思う? ファンタだよ。これで分かっただろ。付かず離れずの極意は、付け焼き刃じゃ会得出来ない。とにかく、カルバンクラインのトランクスを履いて出直してくることだ。まずはそっから始めようぜ」

「あのさ、今更聞くのも何なんだけど、お前が履いてるトランクスは何なんだよ?」

「あぁ? 今の話と俺のトランクスが何の関係があんだよ」

「いや、関係あるだろ。長々講釈垂れたんだ、お前のトランクスはもちろんカルバンクラインだよな?」

「関係ねぇだろって。何のトランクスを履こうが人の自由だろ。まぁ、そうは言っても、別に隠す必要もないけどな。俺が今日チョイスしたのはハネスだ。もちろんカルバンクラインも持ってるけど、ハネスのアットホーム感が気に入ってる」

「ハネス?」

「あぁ、ハネスだ。知らねぇのか? めちゃくちゃ有名なブランドだぞ」

「ハネスって、どうやって書くんだよ」

「どうやって書くって、ローマ字だよ。Hからはじまるやつ。綴りは忘れちゃったよ。あ、そうだ。今日着てるTシャツもちょうどハネスのやつだから、背中のタグを見てみろよ。お前もロゴ見れば分かるよ。結構流通してるブランドだから。ほら」

「オッケー。じゃあちょっとしゃがんで。うーん、あのさ、なんか掠れててよく見えないから、もうちょっと姿勢低くして。そう、これでよく見える」

 

『Hanes(ヘインズ)』

 

「あ……おぉ。あー、オッケーオッケー。おぉ、分かった。あの、ありがとう。もういいよ。もう大丈夫」

「見たことあんだろ。確かアメリカのブランドだ」

「おぉ、あるある。アメリカのな、うん」

「ハネスもそうだけど、同じアメリカ繋がりでフルーツバスケットも気に入ってるな」

「フルーツバスケット?」

「ほら、リンゴとかグレープとかがバスケットに入ってるやつだよ。あれだよ、名前聞いたことなくてもロゴ見れば分かると思うぜ。これもビッグブランドだからな」

「あぁ……あれ、あれな。あのー、今日俺その、フルーツオブザルー……フルーツバスケットのTシャツ着てるよ」

「え、マジで? あれいいよなー。バスケットに入ってるフルーツのロゴも可愛いし」

「あぁ、そうだな。あのー、あれだな。何か、ごめんな」

「は? 何だよ急に。何で謝るんだよ」

「いや、いいんだ。うん、俺が悪かった。そうだ、気晴らしにナカネベーカリー行こうぜ。気を遣ったら小腹減ったし」

「何に気を遣ったんだよ。まぁいいけど、でもあれだぞ、いつも言ってんけど、今の時間に行ってもレーズンパンしか残ってねぇぞ」

「問題ねーよ。今日はレーズンパンでいい。いや、むしろレーズンパンがいい」

「珍しいな。よし、じゃあ行くか」

「おい、今日は奢れよ」

「は? 何で俺が奢んなきゃいけねーんだよ」

「これは気遣い代だ。理解出来ねぇなら、お前が話したチェリオの部分をなぞってみろ。俺の言ってることが分かるから」

 

***

 

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アチラとコチラ (完結)

 

 

3つ目

 

出来過ぎた展開に、都合の良いタイミング。

この話をもし小説として書くのなら、プロットの段階で大幅に修正しなければいけなくなるだろう。

まるで、ご都合主義の王道を行くようなストーリー。3つ目の岐路は、そんな事例の連続で作られていった。

 

2つ目の岐路で「たまたま」アパートのドアが開いたことにより、コチラの世界にとどまった私は、何とか高校を卒業し、自分を取り巻いていた煩わしさから逃げるようにしてカナダのバンクーバーへと渡った。

異国で勉強する楽しさを知った私は、帰国後に大学へ進んだが、自ら勝手に上げたハードルにつまずき、行き場のない感情に飲み込まれてそこを中退することになった。

それからは、先の見えない毎日が続いた。

生きるために単発の仕事をし、呼吸をするために食事を取る日々。やられていた頃のように眠れない夜が多くなり、心のバランスを徐々に崩していった。

一方通行の救いを求めて訪れた大学病院の精神科に打ちのめされた私は、無色透明の時間の中で、いつしかカナダという国にすがるようになった。

 

あそこへ戻れば、全て上手くいく。

あそこへ帰れば、未来が見える。

 

何でも良かったのだと思う。

ただ、四六時中一緒にいたメンバーが社会に入っていくのを横目で見ていた当時の私には、カナダしかなかった。

あの時、真っ暗な現状が怖くて仕方がなかった。何もないことが恐ろしくて、先を照らしてくれる光を強く求めていた。

変化を切望しているはずなのに、変化を起こす勇気がない。そんな私の背中を押した、いや、蹴ったのは、後に嫁となる人だった。

何故だかは分からないが、彼女は人生を変えるタイミングが来る瞬間を知っていた。

 

「おい、来たぞ」

「ここで飛べ」

「早くしろ」

 

自分の中に抱えたものを処理できず、過去と現在に押し潰されていた私の後頭部を叩き、背中を蹴った。

彼女の後押しを得て重い腰を上げた私は、現地の小学校で日本文化を紹介するという留学プログラムを利用して、オンタリオ州にあるストラトフォードという街へ赴任することになった。

 

岐路

 

ストラトフォードは一風変わった街だった。

人口約3万人の小さな街だが、国際的に有名な芸術祭が毎年4月から10月まで行われている影響で、古き良き街並みが廃れずに維持されている稀有な場所だった。

地元の小学校に赴任していると言ってもボランティアなので勿論収入はなく、生活に余裕はなかったが、メインストリートを歩いているだけでも印象的な景色に出会える美しい街だった。

 

私はその街で、とても不思議な体験をした。

 

ストラトフォードでの滞在が半年ほど過ぎたある日、日本からメンバーのひとりが訪ねてくることになった。

無収入だったので外食など殆どしなかったが、海を越えて会いに来てくれる友人をもてなす店は、味も良く値段もリーズナブルなダイナーと決めていた。

しかし、彼が到着した次の日の昼に目当ての店へ向かうと、入り口のドアには「Sorry, WE'RE CLOSED」という看板がかけられていた。

そんなはずなかった。

彼が来る前にダイナーの定休日は調べていたし、到着したのも真昼間のランチタイムだったので、店じまいをするには早過ぎる時間だった。

条件的に他の選択肢など用意していなかった私の頭は真っ白になったが、閉まった店の前にいても仕方がないので、友人の提案に乗り、メインストリートを歩きながら入れそうなレストランを探すことになった。

身の丈にあった店を求めて彷徨っていると、友人がある建物の前に立ち止まり、「ここにしよう」と指をさした。

彼が示したレストランは外観が地味で、何度もその道を通っているはずなのに記憶に残っていない店だった。

パッとしない見た目に加え、何だが古臭い感じを覚えたので他にしようと勧めたのだが、友人は聞く耳を持たずに店のドアを開けた。

店内に入ると、先客は誰もおらず、外から見るよりも広いダイニングルームがその閑散とした様子に拍車をかけていた。

サーバーに渡されたメニューに載っていた品は、サンドウィッチやバーガーなど一般的なものだったが、その店の壁にかけられている絵がとても変わっていた。そこにあったのは、ヨーロッパ風な内装に不似合いな日本画だったのだ。

目の前にあるアンバランスさが気になり、サーバーに飾られている絵のことを尋ねると、彼女はそれが日本画であると話し、このレストランのオーナーが日本人であることを教えてくれた。

私は自分の耳を疑った。

仮にこの街がトロントやバンクーバーなら特別な話ではないのだが、アジア人を見かけることすら珍しいこの場所では、話の意味合いは大きく変わる。

サーバーの女性に自分の反応の意味を伝えると、彼女はオーナーを呼んでくると言い、店の奥に消えた。

少しして私たちの前に現れた初老の男性は、「こんにちは」と言って頭を下げた。

「ご旅行ですか?」そう尋ねてきた彼に、私はこの街での自分の状況を話した。一通り会話が終わった後に名前を聞かれて答えると、彼は驚いた顔をして私を見た。

私たちは、同じ名前だったのだ。

 

白人が人口の大半を占める典型的なイギリス系の街で、目星をつけていた店が原因不明の臨時休業。訪ねて来てくれた友人が代わりに選んだ地味な店は、日本はおろか、オリエンタルな趣は微塵も感じない外観をしているのにも関わらず、主人が何故だか日本人で、しかも私と同じ名前だった。

 

それだけでも随分と出来過ぎな話だが、自分の娘が出た小学校で日本文化を教えている何処の馬の骨かも分からない日本人に興味を抱いてくれたその方は、私と、無収入状態で無謀にもこちらに呼び寄せた嫁に大変親切に接してくれた。

同じ名前を持つオーナーとの出会いも奇跡的だったが、彼の奥さんと知り合えたことも私の人生の大きな糧になった。

満州生まれの彼女は、私がそれまで生きてきて会ったことのないタイプだった。

常に凛としていて底が深く、自然体で風のような印象を持ちながらも、決して消えない炎のように力強い意思を感じる人。性別や年齢を超え、「こんなふうに生きたい」と思える人だった。

ある時、オーナーと奥さんは、どうにかしてカナダに残りたいと考えていた私にある街の名前を出して、そこに行ってみたら良いのではないかと提言した。そこは、小学校の夏休みに赴任先の校長夫婦に連れて行ってもらった場所で、「いつか、こんな所に住めたら」と嫁と話していた街だった。

 

彼らの言葉に導かれるようにして移ったその街で、私はビザの延長をしてもらえるスポンサーを見つけることが叶い、オンタリオ州では難しいと言われていた永住権に関しても、申請をする丁度良いタイミングでその制度が変わり、無事に取得することが出来た。

 

数々の偶然の先に、想像もしていない形で出会った人から告げられた街へ越して広がった道。

歩いてきた道のりを眺めるたびに、姿のない大きな存在を感じずにはいられない。

 

嫁と出会わなければ私は重い腰を上げずに、四畳半の部屋に居続ける世界を生きたのかもしれない。もっと言うと、嫁が受けた検査結果の誤診がなければ、当時の私は結婚を決めていなかっただろう。

つまり、彼女に背中を蹴られていなければカナダには戻っていない。そうなると、日本から友人が訪ねて来るイベントは発生せず、不思議と閉まっていたダイナーも、彼が何故か指差した店に入る分岐もなくなる。

いや、違う。そのポイントじゃない。

岐路はもっと前、この話は更に遡り、逆再生するように流れながら全て繋がる。

 

始まりは、やはり小田急線の車内からだ。

あの日、たまたま車両を変えたことにより幼馴染と顔を合わせた。そして、その時期にたまたま入院していたグループのリーダーと縁を持った。このふたつの要素が重なり、私は私が死んだ世界ではなく、私が生きている世界を選んだ。

それから、あの夜たまたまアパートのドアが開いたことにより、私は自分の手を赤く染める世界を回避して、今を生きるルートに乗っかった。

 

1のイベントが発生しなければ2は起きず、3の世界は消滅する。

振り返ると、その全部が紙一重で恐ろしい。

恐ろしいが、同時に有り難くて仕方がない。

だから手を合わす。心の底から感謝する。

 

分岐して消滅して繋がって、ひとつになる人生。

 

私は今、私が生きている世界を生きている。

 

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