橋の上の神様

僕は「場所」を探していた。

 

昼が昼でなくなり、夜が夜でなくなった日を随分長く過ごしたせいで、右も左も分からなくなっていた。

 

締め切った窓。

肌に纏わり付くTシャツ。

通販番組の司会者が大きな声を上げた時、「もう終わりにしよう」と心が言った。

 

ビニール袋に貯めていた幾らかの金と携帯電話を掴み、部屋着のまま飛び出した現実は、室内と変わらずベトベトしていた。

 

真夜中なのに忙しい街。

ここに住む人たちは、僕が存在していることなど気付いてはいない。

 

ヨタヨタと歩く体に実感が湧かず、つま先で電信柱を蹴る。

 

(とにかく、遠くへ)

 

心を占める思いだけに動かされ、記憶をなぞり駅へ急いだ。

 

悪いことなどしていない。

誰も僕を気にしてはいない。

2番ホームの隅っこで始発を待つ自分の姿が、構内のミラーに映る。

 

人の目を気にして、決まった定位置に収まる心と体。

こういう度量の小さいところが、大嫌いなんだ。

 

***

 

暗闇を切り前進する電車は、光に照らされる度に多くの呼吸を取り込む。

 

人、人、人。

声、声、声。

 

頭を下げて耳をひん曲げても、記憶と恐れが蘇る。

僕に出来ることは目を力一杯閉じ、意識が溢れる時間をやり過ごすだけだ。

 

***

 

線路を変え、人の群れに轢かれて、県を2つ超えた。

当てずっぽうで選んだ路線の終着駅。

くたびれた白い小屋を出ると、太陽が空で威張っていた。

 

道祖神の様に立つバス停で、先へ行ける時間を確認する。

 

7時10分

9時15分

12時30分

16時10分

18時45分

 

まだ10時20分。

次の便まで、あと2時間もある。

 

年を取った駅舎の中にある真新しい自動販売機でソーダを買い、茶色いベンチに腰を下ろす。

生きていることを懸命に知らせるセミの合唱が、耳にうるさい。

 

(歩けよ)

歩かない。

 

(もう、この近くでいいだろ?)

もっと奥に行く。

 

(なぜ飲み物なんか買う?)

喉が渇いただけだ。

 

(さっき、残金の確認をしたろ?)

していない。

 

(『場所』を探しに来たんだろ?)

そうだ。

 

(最終便の時刻を確認したろ?)

……。

 

(なぁ、返事しろよ)

 

(戻る必要なんかないんだろ?)

 

 

セミよ、生きているならもっと鳴け。

問いただす声をかき消すほどに、力いっぱい鳴いてくれ。

 

***

 

バスの窓に映るのは、深緑の砂嵐。

壊れた景色のリモコンは、チャンネル変えを許さない。

 

「まだまだ、暑いんね」

 

途中で乗り込んできた老婆が、皺くちゃの笑顔を見せる。

 

婆さん、真顔で見返して申し訳ない。

悪気はないが、こんな時、どういった顔をすればいいのか分からないんだ。

 

***

 

生温いバスに運ばれて到着した終点は、想像よりも開けていて、回転場の中央には小さな商店が1軒あった。

 

6体並ぶ地蔵を境に、左に集落、右に森が広がっている。

僕が行くべきは、右の奥の奥だ。

 

茂みに沿うようにしてしばらく歩いていると、濃い緑の壁の間に入っていけそうな隙間を見つけた。

 

周りに人の姿はない。

 

けたたましいセミの声。

息が、浅くなる。

 

アスファルトが敷かれている下界とは、ここでおさらばだ。

 

 

壁を壊す1歩が踏み出せない。

動かない足は、恐れからくるものか。

 

何を迷う。

迷った先に、何がある。

 

戻っても居場所なんてない。

 

息を吸って吐くだけの、四角い部屋。

一方通行の生活に、何の未練がある。

 

思い出せ。

 

罵倒された日々を。

終わりがなかった暴力を。

 

思い出せ。

 

汗臭い畳の臭いを。

燃やされた自尊心を。

 

しばらくその場にうずくまった後に、僕は意識せず両手を合わせた。

何の宗教も信じていないのに、手のひらを合わせて目を瞑った。

 

瞼の裏にある黒。

リズムを取り戻す呼吸。

クリアに聞こえる風の音。

 

大丈夫、もう怖くはない。

 

***

 

光を遮る葉の屋根は、昼間に毛布をかける。

行くてを阻む背の高い雑草が、腕に絡みついて痒い。

 

シャ シャ

ピキ ピキ

 

陽だまりを避け、同じ音を作り出して進む。

小さい川が出てきた以外、似たような場面の繰り返し。

 

体感的には30分、もう、この辺でいいだろう。

 

「あぁぁぁぁ!」

「うわぁぁぁ!」

 

力一杯、叫んでしばらく待ったが、誰かが迫る足音はない。

空を覆い尽くす緑の手。

深呼吸をして、左前方にある斜面に近づく。

 

スロープの上にある台で、力強く立つ木々。

登りきると、地面からは充分な距離が出来る。

何本かある候補の中から、自分の体と同じ厚さがある幹に触れる。

 

土手の先へと伸びる枝にある3つの目が、僕を呼ぶ。

木目に惹かれて眺めていると、鼻や口まで浮かんでくる。

瞳を閉じないで笑う3つ目の木顔。

すまないが、貴方に決めさせてもらったよ。

 

距離を少し保ち、勢いをつけて枝に飛び移る。

 

両手をしっかりと枝に絡ませ、体を上下に揺らして足をバタつかせる。

実際のもがきにはまだ足りないと感じ、体をくの字に曲げてから捻りを加えたが、握力が続かずに地面へ落ちた。

 

寝そべった状態で、上を見る。

威圧的に見下ろしてくる太い幹と、差し伸べる腕のような枝に変わりはない。

あんなに力を入れたのに、割れもしないし折れもしない。

 

そうか、僕以外、準備は万端なんだ。

 

右の上腕が痛い。

落ちた時に打ったのかと思い、視線を移すと、紺のTシャツの裾に黒い斑点が出来ていた。

指先を差し入れて、赤い液体をすくい取り、横に生えている五角形の葉っぱに擦り付ける。

 

薄い緑に映える赤。

記憶にある光景。

 

ほんの11年前、引っ越しをする前は、家にいるよりも外を走り回っている方が多かった。

尖った葉っぱの先端で足を切っては、垂れる血を緑で拭いていた日々。

 

体を半分起こして、血の付いた指先を見つめる。

今ここにいるのは、腕から出血し、森の中でへたり込んでいる男。

頭に浮かんだ場面とのギャップに、吐き気がする。

 

何で、こんなことになったのだろう。

どこで、どう狂ってしまったのだろう。

 

小学5年で街を変え、全てがおかしくなった。

あの年を境に、僕は僕でなくなった。

この11年間、色々なことがあり過ぎて、頭がパンクしてしまった。

 

転校する前の友達は、僕のことを覚えているのだろうか。

どこかでばったり出会ったら、笑って手を上げてくれるのだろうか。

万が一、新聞に載ったら気付いてくれるのだろうか。

 

バカらしい。

 

何を大それたことを考えている。

有名人にでもなったつもりか?

世間は忙しい。

世の中から逃げた奴が1人首を括ろうが、そんなことに構っている時間などないのだ。

 

赤く染まった葉の先をむしり取り、斜面の上へ戻る。

 

予行練習は終わった。

枝の強度も問題ない。

 

もう、いいだろう。

 

ポケットに手を突っ込み、携帯電話と金が入ったビニール袋を取り出して地面に並べる。

 

深く目を閉じてから、履いていたジャージを脱いで枝に乗せ、両足の部分が上へくるようにして括り、少し広めに輪を作って結び目を締めると、人の輪郭のようなものが出来上がった。

 

両手で、その線を激しく引っ張る。

 

泣きも喚きもしない黒い輪郭は、僕を導き入れるように、その輪を少し広くした。

 

土手の上から眺めても、緑の海は変わらない。

輪っかの中から空を見ても、緑の屋根は光を通さない。

 

息を、息を整えるには、どうすればいいんだ。

手の、手の震えを抑えるには、どうすればいいんだ。

 

地面をしっかりと確認して、1歩踏み出す。

この世の終わりまで、あと2歩ほど。

自分の鼻息が、直接、耳に入り込む。

心臓が騒がしい。

冗談みたいに震える両手で、輪っかを強く握りしめる。

 

セミが、すぐ近くで鳴いている。

 

場面が浮かんで、離れない。

 

夏の終わり。

夕暮れを背に歩く、市営プールの帰り道。

あの時も、近くでセミが鳴いていた。

 

何故、僕はこんな所にいる?

こんな場所で、何をしているんだ?

 

無性に、腹が立つ。

これで最後だと思うと、腹が立って仕方がない。

 

くそったれ。

くそったれ。

くそったれ。

 

溜め込むだけ溜め込んで、文句を口にしてこなかった人生。

 

本当は、全部が全部、嫌だった。

 

父親が出て行ったことも。

引越しをしたことも。

火曜と水曜に母親の「友達」が来ていたことも。

その間、公園で待たなくてはいけなかったことも。

 

黙って、我慢して、受け入れて。

そんなことを繰り返していたら、いつの間にか僕から僕が消えていた。

 

取り繕うためだけに見せる笑顔は、悪魔たちを引き寄せる。

 

自分の体から色が無くなった後の僕は、見なくて良いものばかりを見てきた。

 

黙って、我慢して、受け入れて。

目をつけられても、囲まれても、金を取られても、殴られても、僕はただ同じ笑顔を見せ続けた。

何も言わずに耐えて過ごせばいつか嵐は過ぎていくと、本気でそう信じていた。

 

でも、現実はそうじゃなかった。

無駄に笑って媚びた結果が、今の現状だ。

 

じゃあ、一体、僕が耐えてきた時間は、何だったんだ。

 

こんなことになるのなら、あの瞬間に終わらせておけばよかった。

奴らの人生を巻き込んで、滅茶苦茶にしてやればよかった。

 

(おい、早く飛べよ)

(人間やめちまえよ)

 

僕は、あの時、生きることにすがった。

人の姿をした5体の悪魔に退路を断たれ、屋上の隅に追いやられた時、僕は死ぬことが怖くて堪らなくなり、形振り構わずに土下座をして、命を乞うた。

 

頭を踏まれて、コンクリートの熱を額に感じたあの日、僕は自分の魂を捨てた。

あれから僕は、心に出来た隙間を埋めることなく、ただ時間を潰してきた。

 

どうなるのだろう。

 

あの空白の期間は何処へ行くんだ?

僕が首を括ったら、あの日の思いは何処へ行く?

恐ろしくて情けなくて悔しくて、壁に頭をぶつけ続けた、僕の無念は何処へ行くんだ?

 

枝の木目が、こちらを見て笑う。

 

何が面白い?

何故、僕を馬鹿にするんだ?

 

もう、こりごりだ。

こうして過去を漁り、葛藤を繰り返すのはたくさんだ。

 

やりきれなくなり、足をもう1歩進ませる。

 

終わりが忍び寄り、萎縮する空気。

視界が歪む。

三半規管が狂って変だ。

 

最後の1歩。

 

目を閉じて、風の音だけを拾う。

 

思い返せば、逃げてばかりの人生だった。

戦わず、抗わず、ひたすら背中を見せて逃げてきた。

 

 

何で今更、向き合わなくてはいけないのだろう。

散々逃げてきたのに、何で今になって己を直視しなくてはいけないのだろう。

 

 

嫌だ。

 

何で僕が死ななきゃいけないんだ。

 

僕が何か悪いことをしたか?

人を馬鹿にしたり、いじめたりしたか?

奴らみたいに顔をブン殴ったり、蹴り上げたりしてこなかったじゃないか。

 

自信がなくて、気が小さい臆病者。

 

だから何だって言うんだ。

 

声が小さい人間は、生きていてはいけないのか?

周りに上手く馴染めない人間は、存在する価値がないのか?

社会に居場所がない人間は、消えなくてはいけないのか?

 

嫌だ。

絶対に、嫌だ。

 

ギロチンの輪から首を取り出し、下着のまま地面に座り込む。

 

死にたくない。

 

煤けたローファーを舐めて、繋いだ命。

 

心にあるものは、恐怖と怒りと悔しさ。

 

僕は、まだ何も果たしてない。

僕は僕の人生で、何も済ませてはいない。

 

もし、ここで終わらせてしまったら、次の人生でも、また同じ繰り返しが待っている。

 

はは。

頭が必死に、死なない言い訳を喋ってる。

 

いいぞ。

どんどん言ってくれ。

どんな理由だっていい。最後の線を越えられない訳を出し続けてくれ。

 

死にたくない。

 

ここまで来て、しっかりと分かった。

僕は単純に、死ぬのが死ぬほど怖いんだ。

 

 

逃げよう。

 

今回も、逃げてしまおう。

 

この状況から逃げて

また同じ寝床に戻ろう。

 

ここまで状況が揃っても、首を括れなかった。

僕は結局、その程度の男なんだ。

奴らから散々言われた通り、何も成し遂げられないクズなんだ。

 

あぁ、そうだよ。

今回も、逃げるよ。

 

真っ赤に充血した手のひらの中で、蚊が横になって潰れている。

僕は何事もなかったようにそれを払い、枝に結ばれていたジャージを解いて、ゆっくりと足を通し、地面に並べられていた携帯電話と金をポケットに突っ込んだ。

 

汗まみれのTシャツの裾に付着した血痕。目的を果たせずに汚れた黒いジャージ。

知らない街の森で立ち尽くす、22歳の男。

 

きっと、こんな姿も、あんた達の予想通りなんだろうな。

 

パン

パン

 

鬼さんこちら、手の鳴る方へ。

 

パン

パン

 

きっと、あんた達はあのまま世間に溶け込んで、我が物顔で歯車を回しているんだろうな。

 

パン

パン

 

取り繕う笑顔を見せた後は、悪魔たちがやってくる。

 

叩いた手を擦り合わせた僕は、木顔の笑みに頭を下げ、出口を目指し森を走った。

 

***

 

最後に息を切らせたのは、いつのことだったろうか。

イメージに体が追いつかなかった僕は、派手に2回転び、左頬と左の手を擦り剥いた。

 

緑の海を泳ぎ切り、波の裂け目にアスファルトの存在を確認した僕は、息を整え、初めて後ろを振り返った。

 

陽だまりのスポットライトに、蔦の網。

 

大丈夫。

そこに、悪魔たちの姿はない。

 

恐れを断ち切り、転がるように抜け出した街道に見覚えはなかった。

 

街灯と電信柱、そして目の前にそびえる深い森。

少し前まで、自分がその中にいたとは信じられないほど、緑の要塞はどっしりと威圧的に構えていた。

 

もう歩きたくないけど、ここには居たくない。

 

ポケットの中の携帯電話とビニール袋を指で確認した僕は、当てもなく足を左に向けた。

 

***

 

同じ風景の中、鳴り止むことのないセミの声。

僕には耳障りに思えても、この世界で生活をしていくならば、これ位の自己主張が必要なのかもしれない。

 

ただ生きているだけでは誰も振り向かないし、何も起こらない。

街には音が溢れていて、みんなの耳がどうにかしてしまった。

「ここにいます」「ここで息をしています」とがなり立てなければ、存在することを許されない錯覚に陥る。

 

車が1台も通らない道。

人っ子1人いない道。

 

空、電柱、木に雑草。

もしもそれらに意識があるのなら、僕は独りじゃないことになる。

仮にそうならば、僕は孤独ではない。

でも、欲を言うならば会話がしたい。

空でも電柱でも、木でも雑草でもいい、短い時間でも構わないから僕と話をして欲しい。

 

傷つくのが嫌で、たくさんのものを捨ててきた。

それなのに、未だに弱さが大きな顔をして僕の中に居座っている。

どんなに世捨てを気取っても、1人で生きられない脆さが憎い。

生きることからも死ぬことからも逃げた代償は、浮き彫りになった弱さを見つめることなのかもしれない。

 

***

 

永遠に入り込んだような、コピーされた景色の連続。

心の不安が体の疲労を越えた後、僕は歩きを小走りに変えた。

そうしてしばらく体を揺らしていると、道が広がり、左手に長い橋が現れた。

 

求めていた変化を前にして、足が止まった理由は、その橋の上に人だかりを見つけたからだ。

 

小学生くらいに見える男子が5、6人。いや、道路に座っている子も何人かいる。

反射的に身を屈めたが、何もない道に隠れる場所などない。

どうして良いか分からずに、じっと身を固めて距離を保っていると、上半身裸の色黒の子がこちらに気付き、僕の目に視線を合わせた。

 

その、瞬間だった。

 

目が合って不思議な笑みを見せたその子は、サッと欄干に上り、何の躊躇もなく橋から飛び降りた。

 

たった今、目に入ってきた光景を飲み込めず、咄嗟に走り寄って下を眺めると、日に焼けたその子は水面から顔を出し、こちらを指差して笑った。

 

川。

そうか、そりゃそうか。

川があって橋が架かる。

橋の下には、川がある。

 

疲労と不安に飲み込まれた状態で目に入った絵図ら。

微妙な距離から眺めた子供の飛び降りは、一大事以外の何物でもなかった。

 

真っ黒になった子供たちが、僕の顔を覗き込んで笑う。

 

冗談みたいに澄んだ川面と欄干までの距離は、ここからだと随分あるように見える。

いくら水に飛び込むとはいっても、無傷で済む高さに思えない。

 

「ねぇねぇ。お兄さんも飛んでみれば」

 

先ほど飛び込んだ男の子が、太陽みたいな顔をして僕の肩を叩いた。

 

言葉に押されて、顔を水面に向ける。

西日を弾くエメラルドグリーンが強くて眩しい。

 

「ねぇ、飛び込んだら気持ちいいよ。案外、痛くないし」

 

太陽の子が顔一杯に笑みを浮かべて誘ってきたが、答えは決まっている。

この高さから飛び込めるわけがない。

 

上手く顔を作れずに、ジッとその子を見返すと、太陽の子は再度欄干に上り「ほら平気だよ!」と手を振って、空に身を投げた。

 

水飛沫と重なる、空気の跳ねる音。

 

しばらく経って水面から顔を見せたその子は、先ほどと同じく僕を指差して笑った。

 

(あの人、何か変じゃない)

(何でしゃべんないの)

(服が汚れてるよ)

(あ、腕に血が付いてる)

(やっぱり変だよ、あの人)

 

周りの雑音が、耳に入る。

 

聞きなれたざわめき。

僕に向けられる、いつもの感情。

こういった声を聞くのは、もう慣れている。

 

逃げよう。

面倒なことになる前に、ここから居なくなろう。

 

悪いことはしていない。

それなのに、なぜか申し訳ない気分が襲い、顔をしっかりと上げられない。

焦る気持ちに急かされ、視線を下げたまま早足でその場を離れると、橋のたもとで濡れた素足が僕の前に立った。

 

「あれ? もう行っちゃうの? 飛んでかないの?」

 

よく日に焼けた両足。

太陽の子から発せられる声には、悪意も困惑も含まれていない。

 

「夏も終わっちゃうし、やっぱり飛んでいった方がいいよ」

 

曇りのない彼の声は、僕の足を止める。

駆け足で太陽の子の側に集まる仲間たち。

 

大人数と1人。

夏の日差しと、セミの声。

 

大嫌いな屋上の場面と重なるのに、なぜだか嫌な感じはしない。

 

「最初は怖いけど、慣れたら結構、気持ちいいよ」

 

そうか、この子の声だ。

太陽の子が話すと、心が耳を貸そうとする。

何でそう感じるのかは分からないが、不思議と気持ちが落ち着く。

 

「おいマサシ、お前んち、雪見だいふくあったよな?」

「うん」

「じゃあさ、ちょっと家に戻って持ってきてくんない?」

「えぇー、何で? 嫌だよ。あれ、明日の楽しみなんだから」

「頼むから、持ってきてよ。明日、俺のピノあげるからさ」

「えー。何個?」

「3個」

「3個じゃダメ。4個ならいいよ」

「うーん。分かった、4個ね。じゃあ、持ってきて」

「本当に4個だよ! 約束だからね!」

 

「ねぇ、お兄さん。もしお兄さんがこの橋から飛んだら、雪見だいふくをあげるよ」

 

雪見だいふく?

 

どういうことなんだ。

どうしてこの子は、ここまでして僕を飛ばせたいんだ。

 

下げた視線の先には、対峙する何本もの足。

 

怖いか? 

いや、怖くはない。

 

どうしたい?

思考を閉じていいかな。

 

顔を上げるよ? 

うん。数を数えてね。

 

いくよ?

いいよ。

 

 

記憶は記憶で、現実は現実。

 

僕が見た現実は、太陽の子とその仲間の笑顔。

 

「飛べるかな?」

 

「うん。上から覗くと高いけど、実際は大したことじゃないよ」

 

「痛い?」

 

「ちょっと痛いけど、死なないよ」

 

「飛び降りても、死なないんだね」

 

「うん、死なないよ! 死ぬわけないじゃん! ほら、ちゃんと見てよ、俺、生きてるよ!」

 

足が動く。

3歩目からスピードが上がる。

尖った葉の先で肌を切っていた頃と同じ速さで橋に駆け寄る。

 

(おい、早く飛べよ)

血の付いたTシャツと汚れたジャージを脱ぎ捨て、欄干の上へ立つ。

 

(人間やめちまえよ)

1歩も踏み込む先がない状態は、屋上と同じだ。

 

(おい、早く飛べよ)

あぁ、今、飛ぶよ。

 

(人間やめちまえよ)

やめないよ。

だって、僕は死なないから。

 

胸の前で手を合わせた僕は、欄干から勢いよく身を投げた。

恐怖と興奮で閉じれなかった目に映る、流れる景色。

僕は今、間違いなく生きている。

 

音がしたと同時に襲う、体全体を張られたような衝撃。

重力というものを強く味わって、奥深くに吸い込まれる体。

 

潜りきって、意識が働く。

 

まず冷たくて、次第に痛く、そして心地良い。

嬉しいのか楽しいのか分からないが、体が浮き上がり始めて、僕は笑った。

 

水の中でもはっきりと自覚できるほど、僕の顔はほころんだ。

 

幾つもの感情が一気に押し寄せる。

こんな気持ちは、初めてだ。

 

水面が迫る。

光を目指して、水の膜を突き破る。

 

青。

飛び込んできたのは、どこまでも伸びる青。

 

天地がひっくり返った訳じゃない。

きっと元からそこにあった青。

 

でも、僕はこんな青を知らない。

 

鼻と口に入る水が視界を狭める。

水中で立つことが出来ずに、何度も下に引き摺られる。

 

「力抜いてー! 手と足を広げて浮かんでー!」

 

水面の境を行き来する僕の耳に、言葉が入る。

 

もっとじっくり、青が見たい。

身を委ねる不安もあるが、さっき見た青を目に焼き付けたい。

 

ゆっくりと足を広げ、腕を目一杯伸ばしてから言われた通りに力を抜くと、重かった体は冗談みたいに軽くなり、川面にプカッと浮いた。

 

求めていた青。

響く声に揺れる赤。

 

木の葉のように浮いたまま、音のする方に視線を移すと、太陽の子と仲間たちがクシャクシャに笑いながら雪見だいふくを振っていた。

 

雲ひとつない空の下に、見たこともない輝く笑顔。

 

神様がもしいるのならば、きっとこんな顔をして笑うのだろう。

 

いや、きっとあの子は神様なんだ。

雪見だいふくを持った、橋の上の神様。

だから太陽みたいに笑えるんだ。

 

「ねぇー! 笑ってばっかいないで早く上がってきなよー! アイス溶けちゃうよー!」

 

神様が大きな声で叫ぶ。

 

そうか。

僕は今、笑っているんだ。

 

***

 

予定通りだと、バスの最終便はあと20分ほどで到着する。

回転場にあった商店で菓子パンを買うと、店の老婆が椅子を用意して麦茶を出してくれた。

 

「ありがとうございます」

目を見れない代わりに、言葉に精一杯の気持ちを込める。

 

(ありがとうございました)

バス停まで送ってくれた神様に言いたいことはたくさんあったが、振り絞ってもその言葉しか出てこなかった。

 

笑顔で手を振る、日に焼けた背中。

誰が何と言おうと、僕にとって彼は神様だ。

 

店にある古ぼけたラジオから、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」が流れる。

父親が大好きで、引っ越す前の家の壁には映画のポスターが貼ってあった。

 

金曜ロードショーとビールの匂い。

大洋ホエールズと横浜スタジアム。

 

食べかけのパンを持って店の外に出た僕は、声が漏れないようにTシャツの裾を噛んで泣いた。

 

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