アーティフィシャル・フラワーズ 《後編》

 

「だからよ、何でセリフを言うときに眉毛が上がるんだよ。それじゃあ演技が嘘くさくなっちまうじゃねぇか」

口に含んだ煙を上へ吐き出したチャーさんは、タバコの先をワタル君へと向けた。

 

「え? 上げてないですって! チャーさんの見間違えですよ。ていうか、細かすぎますよ。例え眉毛が上がっていても、誰も気にしませんて」

 

「バカやろう、お前は何にも分かってねぇな。話すたびに眉毛が上がる奴がいたら、どう考えたって怪しいだろ。俺が刑事だったら一発でお縄もんだぞ」

 

「花屋に刑事はいませんから。それに僕が演じるのは客であって、容疑者ではないです。ちょっとチャーさん、いったん僕の眉毛から離れませんか。話が全然先に進まないじゃないですか」

ワタル君は大きなあくびをひとつして、近くのベンチに座り込んだ。

 

誰もいない夜の公園。

園内の時計の針は、日付を跨ぐ準備をしている。

10時前にはセッちゃんの店を出たので、もうかれこれ2時間はリハーサルをしていることになる。

 

「チャーさん、ワタル君、付き合ってくれてありがとう。でも、もう大丈夫だよ。明日は、ちゃんと番号を渡すから。遅くなっちゃったし、もう上がろうか」

 

「いや、まだダメだ。何たって失敗は許されねーからな。もう1回だけ、流れを確認しておこう」

腕を組んだチャーさんは、仕事中によく見せる難しい顔をした。

 

「いいか、始めから確認するぞ。まずはじめにワタルが店に入るだろ。そんで? ワタル、どうすんだっけ?」

 

「え? だから、タナベって名札を付けていない方のスタッフをつかまえて、『彼女へのプレゼントを探してるんですけど』って言うんですよね」

 

「そうだ。時間をかせがなきゃなんねーから、なるべく『困ってます』って顔をしろよ。それと、眉毛が上がんねぇよーに気をつけんだぞ。そんでお次は、シンジだ。お前は店に入ったらタナベの姉ちゃんを見つけて、なるべく2人きりになれそうなコーナーの前で商品の質問をするんだ。自然に、自然にだぞ。そんでもって最後に、真打の登場だ。俺が店に入って、お前の近くを1回通り過ぎる。そしたらそれを合図にシンジは番号を渡すんだ。渡し終わったら、なるべく早く店を出ろ。シンジが出たのを確認したら、ワタルは何でもいいから商品を買え。その間に俺がタナベの姉ちゃんの様子を確認しといてやるから。いいかお前ら、全て自然な動作で行えよ。演じようとするとボロが出っから、本当の客になりきるんだ。それと、集合場所は南口の階段前な。間違っても店の前で待ってたりするんじゃねーぞ」

細い目を見開き、早口で捲し立てたチャーさんは、言い終わると満足そうに首を鳴らした。

 

「チャーさんは自然にって言いますけど、さっきのリハーサルで店に入ってきたチャーさんは、どっからどう見ても万引きをしようとしている不審者にしか見えませんでしたよ。ねぇ、シンさん」

ワタル君が悪い顔をして、こちらを向いた。

 

「うん。油っぽい万引きおじさんが、キョロキョロと店内を物色していた」

 

「バカ言ってんじゃねーよ! お前らの目が節穴だから、そう見えるんだよ。俺が演じてんのは、初めて偽物の花屋に入ってきて戸惑っている男の姿だ。『何だ? 何だ? ここは普通の花屋じゃねーな』って感じを装いながら、お前らがヘマしないように見張りつつ、不測の事態に備えてんだよ! 分かってねーな」

 

「シンさん、この人が店で通報されたら、他人のフリをして逃げましょう」

 

「この、ワタルこら! お前は俺が演じたリア王を見たことがねーから、そんなフザけた事が言えるんだ。ありゃ凄かったぞ、体育館中、拍手喝采に包まれてな!」

 

「でも僕の知っているリア王は、万引き犯ではありません」

 

「ワタル、テメー! この減らず口のクソヤローが!」

組んでいた腕を勢い良くほどいたチャーさんは、一直線にワタル君の元へ走り、体当たりをかました。

 

「ちょっと、チャーさん落ち着いて! あのさ、ずっと気になってたんだけど、いま説明してくれた流れは他のお客さんがいない設定になってるよね。あそこ結構人気があって、時間帯にもよるけど、いつもは何人かの先客がいるよ」

 

「だから俺が目を光らせておくんじゃねーか。先客がタナベの姉ちゃんをつかまえてたら、お前は大人しく待っとけ。姉ちゃんが空いたら、他の客から声を掛けられないように俺が進路を塞いでやるから。そしたら、すかさずお前が行くんだ」

 

「分かった、そうするよ。よし、じゃあこれで終了ね。二人とも遅くまでありがとう。明日、渡せても渡せなくてもベストを尽くすよ」

 

「気負わないで大丈夫ですよ。シンさんが思うがままにしてください」

右手の親指を立てたワタル君の笑顔が優しい。

 

「けっ。甘いんだよ、ワタルは。シンジ、やるったらやるんだぞ」

言葉とは裏腹に俺の肩をそっと叩くチャーさんの思いが暖かい。

 

「じゃあ、僕はお先に失礼します。集合は南口に2時ですよね。チャーさん、パチンコを理由に遅れないでくださいよ」

胸の前で手を上げたワタル君は、髪をかき上げてチャーさんを指差した。

 

「うるせー小僧。お前こそ、エッチな本ばっか読んで遅刻すんなよ!」

 

「発想が古いですねー! もう21世紀ですよー!」

チャーさんの言葉を背中で受けたワタル君は、公園の出口で振り返り、大きな声を上げて手を振った。

 

「まったく、あいつは生意気でしょうがねーな」

満面の笑みでワタル君を見送ったチャーさんは、ポケットからタバコを出した。

 

「シンジ、ちょっとだけいいか?」

火がつけられたタバコの先は、滑り台の横にあるベンチを指している。

 

18年。

チャーさんと出会ってから、この街に移ってきたのと同じ年数が経った。

暗がりでも目立つ、黄色いベンチに腰を下ろした彼の思いは想像できる。

 

「あのよ、シンジ。お前は、あのタナベの姉ちゃんが好きなんだよな?」

 

「うん」

 

「どんぐらい好きなんだ?」

 

「え? どんぐらいって、難しいな。前にも言ったけど、一目惚れなんて初めてしたし、彼女の事は殆ど知らないけど、何て言うか、頭の中がタナベさんで埋め尽くされていて、彼女の事ばかり考えている感じ」

 

「そうか。なぁ、シンジ。お前、覚悟はあるのか?」

 

日付が変わった静かな夜。

固いベンチが背筋を正す。

 

「うん。チャーさんが言いたい事は、分かるよ」

 

「相手は人妻だ。こんな事を言ったら元も子もねーかもしれねぇが、俺は不倫や浮気ってのが好きじゃねー。人の道に反してるからな。ただどうしようもなく止められねぇ気持ちっつーのも分かる。でもよ、その道を取るって事は、覚悟が必要だぞ。それでも、その姉ちゃんの事が好きか?」

 

「うん」

 

「そうか。シンジ、筋を通せよ。筋だけは、ちゃんと通すんだぞ」

 

「分かってる」

 

「よしっ! 俺が言いたい事はそれだけだ。まぁよ、天気はあんまし関係ねぇけど、明日は晴れればいいな」

 

「そうだね。ありがとう」

 

 

覚悟。

 

もっと彼女と話がしたい。

もっと彼女を眺めていたい。

もっと彼女を知りたい。

いつか彼女に触れてみたい。

 

分かってる。

欲望だけではなく、筋は通す。

 

 

「大丈夫だぞ、シンジ。お天道様はいつも見ているからな。頑張ってる奴は、報われなきゃダメだ」

ベンチから腰を上げ、ヨタヨタと歩き出したチャーさんは、星が見えない空に向けて野太い声を出した。

 

(頑張ってる奴は、報われなきゃダメだ)

 

チャーさんがいつも口にする決め台詞。

地元を出て18年、俺はこの言葉に何度も背中を押された。

 

高校を卒業してすぐに家を出た当時の俺に、先の見通しなど何もなかった。

この街に移り住んだのも大した理由があったわけではなく、仕事に困らなそうで、家賃がバカみたいに高くない都市を選んだ結果が、この場所なだけだった。

 

俺がチャーさんと出会ったのは、土木作業員として働きだしてから3つ目の現場だった。

 

(おぃ、兄ちゃん。若けぇのによく働くな。この現場が終わったら、ウチで働かねぇか?)

 

何の面識もない人からの誘いで正直戸惑ったが、そのとき働いてきた会社の待遇に我慢が出来なくなっていた俺は、二つ返事で話に乗った。

 

兄ちゃん。

サトムラ。

シンジ。

 

時間と共に呼ばれる名前は変わっていったが、チャーさんの優しさは出会った時から一貫して変わらなかった。

彼が勤める工務店の規模はそれ程大きくなかったが、几帳面な社長の性格が隅々まで行き届いた労働環境は、ずっと自分が求めていたもので、探していた居場所を得た俺は、現場、事務、雑用問わず、とにかく必死になって働いた。

勤務年数が7年を過ぎた俺に、2級建築士の資格取得を強く勧めたのも、チャーさんだった。

 

(しっかりやってきたんだから、それを形にしないでどーする。やれよ、シンジ。頑張ってる奴は、報われなきゃダメだ)

 

渋る俺の背中を押し、ケツに火を付けてくれたチャーさん。

図面を引く楽しさとやり甲斐に気付けたのは、間違いなく彼のおかげだ。

 

(お天道様が見てるからな)

 

駅に続く道を歩く、丸い背中。

口は悪いけど優しくて頑張り屋のチャーさんの事を、お天道様が見ていますように。

 

***

 

サトムラさん、こんにちは。

突然の事で驚いてしまい、お店では何も返せなくてごめんなさい。

 

頂いた連絡先、嬉しかったです。

 

タナベさん。

返信を頂き、ありがとうございます。

本当に嬉しいです。

もし、ご迷惑でなければ、これからもよろしくお願いします。

また、お店に伺います。

  *

先ほどお店で会ったばかりなのにすみません。

今、思い出しました。

タナベさんが話していた曲は、Bonnie Pinkの「金魚」です。

CDを持ってるんですけど、長らく聞いてなくて忘れていました。

俺が高校生になったばかりの頃に出た曲ですから、もう20年も前になります。

時が経つのは早いですね。

 

そうです! 

「金魚」です! あぁ、スッキリしました。ありがとうございます。

あの、サトムラさん、まだCDを持ってらっしゃいますかね?

もしよろしければ、貸していただけないでしょうか?

思い出したら聞きたくてしょうがなくなってしまいました。

  *

どうも。

今日は変なお客さんが絡んできて、大変な日でした。

50代くらいに見える男性の方だったんですけど、商品を説明しているそばから「でも偽物でしょ」って言ってくるんです。

何か悔しくなったので「ウチはアーティフィシャルフラワー専門店です」って返したら、「横文字ばっか屁理屈並べて」って悪態つかれて。

もう、キィーって感じになりました。

サトムラさんに愚痴っちゃって、ごめんなさい

  *

この前、教えてもらった麻婆豆腐を作ったのですが、薄い豚汁のような味になってしまいました。

書いてくれたレシピ通りにしたんですけど、何がいけなかったのか分かりません。

なので、結局ドリアに里帰りしました。

 

えぇー。レシピ通りに作ったら薄い豚汁にはなりませんよ!

結局、炭水化物じゃないですか。

今度、手順も書いた紙を渡します。

  *

サトムラさんのスペシャルドリア、言われた通りに作ってみました。

お世辞抜きで美味しかったです。

いつもはグラタンなのですが、ドリアもいいですねー。

夕食のレギュラーになりそうです。

 

そう言ってもらえて嬉しいです!

あのドリアは好きでよく行くお店の味に、どうにかこうにか近づけたものなのです。

楓山に行く途中に見晴らしのいいレストランがありまして、そこはドリアはもちろん、グラタンも本当に美味しいんです。

 

佐江倉町にある評判のお店は行ったことがあるのですが、楓山の方は知らなかったです。

いいなー。是非、行ってみたいですね。

 

もし、タナベさんがよろしければ、今度のお休みにでも、グラタンを食べに行きませんか?

あの、もしよければの話なのですが。

 

はい。

もしサトムラさんの予定と合うようでしたら、ご一緒させて下さい。

 

***

 

15:24

 

15:33

 

15:39

 

15:45

 

15:55

 

16:02

 

16:09

 

吐きそうな気分の中、時空が歪んでいるのかと疑うほどの遅さで流れる時間。

約束は午後4時半。

いつもの最寄駅ではなく、3つ隣の小さな駅を待ち合わせ場所にした。

3時前に駅に着き、降り口の真ん前にあるコインパーキングに車をとめて、構内のトイレに入ったのが3時10分過ぎ。

全ての確認を終えた3時20分から、出迎える準備は出来ている。

約束の1時間半前入りは、自分でもどうかと思うのだが、はやる気持ちを止められなかった。

 

(その日はちょうど昼までの日なんで、問題ないです)

 

俺の職場に昼までの勤務日などない。

社長には、どうしても抜けられない用事があると説明し、無理を通してもらった。

 

帰り際にすれ違ったチャーさんに叩かれた背中の感覚を思い出す。

大丈夫、これは現実に起こっている事なんだ。

 

 

16時20分着の電車がホームに入ってくる。

彼女はきっと、これに乗っている。

 

到着を知らせるアナウンスに、鳴り響くベル。

「ドアが閉まります」と聞こえてからは、息をするのが苦しくなった。

 

改札出口の真ん中に移動する。

右側に見える階段の頂上に視線を向ける。

周りの電子音が遠のき、クリアになる人の音。

 

夢なんかじゃない。

 

人の流れが切れた後に、姿を見せた手を振る笑顔。

 

夢なんかじゃない。

 

駆け出して行きそうな足を制するため、前から見えないように右手で外腿を強くつねった。

 

「こんにちは。結構、待ちました?」

 

「いえ、全く待っていません」

俺は、はち切れんばかりの笑顔で嘘をついた。

 

紺のタイトジーンスに、白いブラウス。

髪を下ろしているせいか、いつもよりも大人びて見えた。

 

「あの、こちらへどうぞ」

ダメだ。頭の機能がおかしくなって、差し出した右手と同じタイミングで右足も出してしまった。

 

「ふふっ。何ですかそれ。遊園地のアトラクション案内みたいになってますよ」

口を押さえて下を向いたタナベさんは、堪えきれずに声を上げて笑った。

 

「そうですね。何やってんだろ。じゃあ、行きますか」

 

初めて見る、彼女の笑顔ではない笑い顔。

これまでの人生で、これほど手と足を同時に出して良かったと思える瞬間はなかった。

 

 

目的のレストランまで、約40分のドライブ。

念入りに清掃をした甲斐があり、新車のような匂いがする車内で、俺はひたすら喋り続けた。

この日のために時間をかけて制作したプレイリストには目もくれず、くだらない言葉ばかりを口から発し、場を和ます事だけに集中した。

 

「あぁ。ご飯を食べる前に、もうお腹いっぱいです。久しぶりに、こんなに笑いました」

 

なぜだろう。彼女が手を叩いて笑う度に、幸せな気分になる。

なんでこんなに嬉しくなるのか、自分でも分からない。

 

タナベさんを駅で待つ間、極端に遅く流れた時間は真反対に弾け、今までで一番短い40分を経験し、車はレストランの駐車場に着いた。

 

「わぁ。ここからの眺め、凄いですね。街が全部見える。あ、あそこにもっとよく見えそうな場所がありますね。ちょっと行っていいですか?」

車から出たタナベさんは、そう言い終わると同時に駐車場の端に設けられた見晴台へかけていった。

 

風に揺れる白いブラウス。

思ったより小柄な背中。

 

こんなにもしっかりと彼女の後ろ姿を眺められている現状を噛みしめる。

 

 

(今日は、どんな日だった?)

 

 

狭い台所に立つ、小さな背中。

下ろした髪の長さが、あの人と同じだ。

 

ひどく自分勝手な話なのだが、髪は結んだままにして欲しかった。

 

こんな時に、なんで頭に浮かんでくるのだろう。

申し訳ないけど、今は静かに消えて欲しい。

 

 

「サトムラさん、あそこに見えるのは茜橋ですよね!」

こちらを振り返り、景色を一直線に指差す女性。

 

心配ない。ちゃんと見るんだ。

ずっと求めていた表情に、あの日の面影は被らない。

 

***

 

「味、合いますか? 大丈夫ですか?」

 

「はい。凄く美味しいです。美味しすぎて、黙っちゃいました」

 

「よかった。本当に、よかったです」

 

「こんなに綺麗な景色を見ながら食べる美味しいグラタン、最高です。サトムラさんはどうですか? あんまりドリアが進んでませんよ」

 

「え? いつも通り、めちゃくちゃ美味しいですよ」

全神経を彼女に持っていかれている今の状態では、味の判断など出来やしない。

 

「グラタンばかりを食べている私が言えたものじゃないですが、サトムラさんは本当にドリアが好きなんですね」

 

「はい。エビドリアがあれば、基本、幸せです。俺にとってドリアは、ご馳走ランキングナンバー1なんです。あの、ドリアの話になると長くなりますよ」

 

「えぇー、怖い怖い。じゃあ、ドリアの話は今すぐやめましょう」

目を細めて首を振ったタナベさんは、ニタっと俺の目を見た。

 

彼女の容姿に一目惚れをしたのがここにいるキッカケだが、タナベさんの魅力は外見だけではない。

朗らかな態度に、ストレートな物言い、そして時折見せる悪戯な瞳。

俺は今、彼女から放たれる粘着性の強い空気にがんじがらめにされている。

 

「昔から、1つのものに執着してしまうんです。ドリアだったり、音楽とか、本も。好きになったものをとことん突き詰めてから、次にって感じで、同時進行が上手くできないんです。だから、ドリアの次はチャーハン。まぁ、自炊はその段階で止まってしまっているんですけど」

 

「その調子だと、炭水化物の枠を出るのが難しそうですねー。ペヤングとかね。でも、その真っ直ぐなところがサトムラさんって感じで、何か安心します。そういうとこ、私と正反対でいいなぁーって思いますよ。お花に関しては別ですけど、他は、広く浅くなっちゃう事が多くて、あんまり真っ直ぐ走れないんです」

 

「いいじゃないですか、真っ直ぐ走らなくても。俺だって、見つけられる選択肢が少ないだけで、真っ直ぐに走っているわけではないですよ。ペヤングばっか食べてるだけだし。タナベさんはご自身が思っている以上に魅力的ですよ」

 

脳みそと口の間にあるフィルターが、溶けてなくなってしまった。

 

「ありがとうございます。そう言ってもらえて、とても嬉しいです。でも、私はサトムラさんが思っているような人ではないと思います。私、ズルいですから」

 

 

ドリアをすくったスプーンが動かない。

言いたい言葉が口から出ない。

 

ズルくたって何だっていい。

俺は、あなたの事が大好きなんだ。

 

 

(今日は、どんな日だった?)

 

 

「ちょっと、失礼します」

俺は席を立ち、洗面所へ向かった。

 

***

 

流しっぱなしの水で顔を洗う。

室内を照らす橙のライトが、やけに眩しい。

 

想いが彼女に近づくほど、さっき見た後ろ姿が頭に浮かぶ。

 

小刻みに点滅する照明。

 

何で今なんだ? 

 

面倒くさい。

 

必要な時に出て来ないで、呼んでもないのに現れる。

 

ふざけるな。

何がしたいっていうんだ?

 

勝手に懺悔して、勝手にいなくなって。

俺にどうしろって言うんだ。

 

なぁ、そこにいるんだろ?

聞きたいことは山ほどあるんだ。

 

あんたはこんな時、何を思った?

感情に流されただけか?

後悔の念は浮かんだのか?

あんたにとって、俺の父親はどんな人だったんだ?

自分の夫を裏切ってまで、身を委ねるほどの人だったのか?

 

なぁ、俺の父親は、どんな顔をしていた?

痩せてたのか? 太っていたのか?

髪は?

背は?

優しかったのか?

おしゃべりか? 無口なのか?

お洒落だったのか?

本は読んだのか?

どんな音楽が好きだった?

タバコは? 酒は?

何を好んで食べた?

 

俺は、何にも知らないんだ。

生きているのか、死んでいるのか、それさえも分からない。

教えてくれ。

俺の父親は、一体どこのどいつなんだ?

 

 

点滅が収まり、一定の明るさを保つライト。

耳を澄まして聞こえるのは、流れる水と空調の音だけ。

 

ほら、結局、何にも答えてくれない。

 

もう、いいよ。

はなから期待などしてはいない。

 

頭を冷やしたい。

こんな生ぬるい水ではなく、もっと、もっと、痛いほど冷たい水が欲しい。

 

***

 

洗面所前の廊下を出て、少し距離を置いた先に、顔を左に向けて窓の外を眺める彼女がいる。

 

遠くを見つめる横顔は美しく、優しい。

タナベさんの心に、俺は存在しているのか。

 

何で、もっと早くに出会えなかったのだろう。

何で、結婚をする前に知り合えなかったのだろう。

 

何かを仕分けするように、たくさんの感情を簡単に割り切れたらいいのに。

 

 

「お待たせしました。遅くなっちゃってすみません」

 

「いえいえ。あの、体調平気ですか? ドリアもまだ全然残ってますし、顔色もよくないですよ」

 

「すみません。でも、大丈夫です。あの、緊張です。タナベさんとこうしてご飯を食べられているので、緊張しているだけです」

 

「私に緊張なんかしないでください! きっとドリアを食べきれば、よくなると思いますよ」

 

「ありがとうございます。じゃあこれ食べきったら、デザートを頼みましょう。ここのクリームブリュレ、めちゃくちゃ美味しいですから」

 

「本当ですか! いいですね。サトムラさんの体調が問題なければ、デザートいきましょう」

 

彼女の一挙手一投足が可愛い。

バカみたいな考えだが、時間なんか無くなってしまえばいいと本気で思った。

 

***

 

「思ったより遅くなってしまいましたね。本当に楽しい時間でした。ありがとうございます」

 

「いえいえ、こちらこそ。あのお店、グラタンもデザートも、とっても美味しかったです」

 

日が完全に沈みきってからレストランを出て、なるべくゆっくりと運転した結果、駅の近くに路上駐車した頃は、夜の8時を回っていた。

 

「でも、まさかサトムラさんとキリンジの話が出来るとは思っていませんでした。しかも、『スイートソウル』で意気投合するとは、ビックリです」

 

「俺も驚きました。『愛のCoda』や『冠水橋』も捨てがたいですけど、やっぱりスイートソウルです。何か、あの曲は包み込んでくれるんですよ」

 

「ですよねー。あぁ、でも『愛のCoda』もいいですね。あの歌の歌詞で、『帰りのチケットを破る意気地も 愛に生きる勇気もない』ってとこがあるじゃないですか、あそこを聞く度に、何だか胸にくるものがあるんです。頬を叩かれるような感覚というか。あれは、私みたいな人の事を歌っているのだと思います」

 

どんな言葉を返せばいいのだろう。

何と言えばいいのか、沈黙以外の選択肢が見当たらない。

 

「すみません、何か変な事を言って。あの、サトムラさん、今日はありがとうございました。久し振りに心から楽しいなって思えました。お店以外に、こういう形で会えてよかったです」

 

「今日は、時間が過ぎるのが早かったです。本当、バカみたいに早かった。だから、時間なんか無くなればいいのにって本気で思いました」

 

「時間がなくなればいい、ですか。何だか凄い話ですね。でも、サトムラさんらしいです。私、サトムラさんのそういうところ、好きですよ」

 

 

もう、夢でもいいと思った。

むしろ、夢であって欲しいと思った。

 

白いブラウスから覗く腕。

長い指。

髪と耳。

首筋と胸。

 

現実に控えている問題など全部取っ払って、今すぐ、目の前にいる人を抱きしめたい。

何も考えず、溺れたい。

 

 

(今日は、どんな日だった?)

 

 

……そうか。

俺は、そうして生まれたんだ。

 

ここから先。

欲に飲み込まれ、男と女になった先に、母親は抱かれ、俺が生まれた。

 

(今日は、どんな日だった?)

 

そうか、俺は、欲から生まれたんだ。

 

 

ダメだ

 

ダメだ

 

ダメだ

 

左手が伸びない。

彼女の指に触れられない。

 

ダメだ

 

ダメだ

 

ダメだ

 

あんたの姿が頭から消えない。

 

俺と彼女の間にあるライン。

夢から醒めた俺には、その線を超える資格がない。

 

「タナベさん、あと少しだけお時間をもらえますか?」

 

「はい。大丈夫です」

 

「コーヒー、飲みに行きましょう」

 

***

 

夢から醒めた、寝起きのコーヒー。

小さいテーブルを挟んだ向かいで、ゆっくりとココアを飲む彼女。

 

あぁ、とても素敵な夢だった。

 

「1つ、謝っておきたい事があるんです」

 

「謝る? 私にですか?」

 

「はい。俺はタナベさんに嘘をついていました。俺は、花が大好きではありません。正確には、好きでも嫌いでもないのです」

 

「そうなんですか」

 

「あなたに一目惚れをしまして、あなたに会いたくて、お店に通っていました」

 

俺の目をしっかりと見ているタナベさんは、何も言葉を口にしない。

 

「今まで嘘をついていて、ごめんなさい。あなたの事が大好きだから、今日は会えて本当に嬉しかった。ありがとうございました」

 

「あの、頭を上げてください。サトムラさん、あの、勝手に色々、終わりにしないでください。私、分かってましたよ。サトムラさんの気持ち」

 

「知ってたんですか?」

 

「はい。こんな事を面と向かって本人に伝えるのは何だか変な感じがしますが、ちゃんと分かってましたよ。あの、分かりますよ。サトムラさん、まんまなんで」

 

「そんなに、分かりやすかったですかね」

 

「はい、とても。私、ちゃんとサトムラさんの気持ちを分かってて、今日の誘いを受けたんです。旦那には、お店の子と食事をすると嘘をつきました。そのまま飲むかもしれないから遅くなるよ、とも言いました。レストランで伝えた通り、私はズルいんです」

 

「そこまでストレートに言われると、清々しいです」

 

「ふふっ。この会話、ひどいですね。見ている人に、どんどんネタばらしするマジシャンみたい。本人を目の前に、ここまで胸の内を話すのは初めてです。ふっ、やっぱり可笑しいですよ」

 

「そうですね。訳が分かりませんね」

 

タナベさんの笑顔は、何もかも包み込む。まるで、大好きな曲を聞いているようだ。

 

「でも意外だったなー。理由はどうあれ、実際、お花は好きなのだと思っていました」

 

「いや、嫌いではないんです。何ていうか、好きになっていった、という感じが合っていると思います。動機は不純でしたが、部屋が色で埋まっていくのは新鮮で、生活を変えてくれました」

 

「よかった。じゃあウチの商品が少しは役に立ったのですね」

 

「ペヤングルームを卒業できました」

 

「そうですか。ヒゥレイクスタッフの立場として、それを聞けてよかったです」

 

「あ、それ、いつか聞こうと思っていたのですが、ヒゥレイクって名前、どういう意味なんですか?」

 

「ヒゥレイクはオランダ語で、『同じ』という意味です。ウチの主力商品はオランダからの輸入品が多いので、オランダ語の名前を採用したとオーナーが言っていました」

 

「同じ、ですか」

 

「はい。私はこの名前が大好きで、他にも造花屋さんはあったんですけど、この意味に惹かれてヒゥレイクに来たんです」

 

「何でタナベさんは普通の花屋ではなく、造花屋で働こうと思ったんですか?」

 

「昔は普通の花屋さんで働いていたんです。長くやっている内に、何件かお店も変えたんですけど、そのどれもが商品として売れなくなった花の扱いがひどくて、もう普通のお店では働けないなと思って」

 

「そうだったんですか」

 

「造花の事を『偽物だ』って言って嫌う人もいますが、例え本物じゃなくても花は花です。私にとっては、本物とか偽物とか、そんなの大した問題ではないんです。誰がなんと言おうと、花として生まれてきたこの子たちは、花なんです。命があろうがなかろうが、本物だろうが偽物だろうが、同じ花なんです。だから、ヒゥレイク。同じ花なんです」

 

本物とか偽物とか、そんなの大した問題ではない。

 

唇を強く噛めば、溢れる涙は止まるのだろうか。

 

「え? ちょっと、サトムラさん、大袈裟ですよ。何で泣いてるんですか? 熱くなりましたが、泣くような話はしていませんよ」

 

声が漏れないように、口はしっかりと抑えなければ。

 

「ちょっと、本当にどうしたんですか? え、サトムラさん、大丈夫ですか?」

机に突っ伏した状態で耳に入るタナベさんの声が遠い。

 

ずっと、探していた答え。

本当は、分かっていた答え。

誰かに言って欲しかった、求め続けてきた答え。

 

もしかしたら、この言葉を聞くために、俺は彼女と出会ったのかもしれない。

 

 

(今日は、どんな日だった?)

 

目をつむった暗闇に、あの日の後ろ姿が映る。

 

(今日は、どんな日だった?)

 

お母さん、今日は、とっても良い日だったよ。

 

***

 

「サトムラさん、誘っていただいてありがとうございました。とても不思議な1日でした。自分の事、上手くいっていない旦那との事、そして、サトムラさんとの事。私、色々考えたいと思います」

 

「こちらこそ、ありがとうございます。ちょっと思うところがありまして、コーヒーショップではご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」

 

「いえ、ビックリしましたけど、問題ありません」

 

「花は大好きではありませんが、またお店に伺ってもいいですか?」

 

「もちろんです。お店でも、ちょっと時間はかかるかもしれませんが、お店以外でも会ってください」

 

「ドリア、またいつか行きましょう」

 

「グラタン、またいつか連れて行ってください」

 

駅の階段をのぼる後ろ姿。

背中が小さくても、下ろした髪が同じ長さでも、もうこちらを振り向く必要はない。

その姿は間違いなく、俺の大好きなタナベさんだ。

 

車に戻る前に、深呼吸をして夜空を見上げる。

 

本物だろうが偽物だろうが、関係ない。

俺の父親は、羊羹が好きだった。

 

今度まとまって休みが取れたなら、羊羹を買って地元に帰ろう。

 

本物だろうが偽物だろうが、関係ない。

俺の実家は、イングリッシュアイビーがあった煤けた家だ。

 

今度帰ったら、母親の墓をヒマワリポットとアイビーで飾ろう。

 

本物だろうが偽物だろうが、関係ない。

俺が飾るのは、ずっと枯れずに輝く花。

色褪せることも朽ち果てることもない、永遠を生きるアーティフィシャル・フラワーズ。

 

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