アーティフィシャル・フラワーズ 《前編》

8時は越えたか?

 

いや、まだ壁に光があるから、7時半過ぎか?

だとしたら、2時半前に寝たとして、約5時間。

 

枕の横で背中を見せている電話をひっくり返し、手探りでホームボタンを押す。

 

( 7:04)

 

7時4分。

勘弁してほしい。

 

最後の1杯。

あの冷や酒が余計だった。

 

(もったいねーから、終わらしちまいな)

 

チャーさんが締めに勧める酒は、毎回無駄に後を引く。

自分の適量は分かってるのに、貧乏根性を出すから眠りが浅くなるんだ。

全くもって、自業自得。

せっかくの休みなのに、こんなに早く起きてどうする。

 

9時にセットしている目覚ましで起きたかった。5時間未満の睡眠では体に響く。

どういうメカニズムかは分からないが、35を超えた去年から、2度寝が出来ない体質になってしまった。

 

目を閉じ続けていれば、もう一度……とは考えない。

無駄な抵抗はしない。

起きる。

潔く、起きる。

 

コーヒーを飲むなら、ハムエッグ。

冷たい水なら、お茶漬け。

 

いや、惹かれない。

何だか全然、しっくりこない。

 

……ダブルロール。

ヤマザキのダブルロール。

 

自分を抱きしめたくなる瞬間があるのなら、それはまさしく今、この時だ。

遅くまで飲んだ次の日は、ヤマザキのダブルロール。

だてに36年連れ添っている体ではない。

どんなに面倒でも、帰りのコンビニで好きな菓子パンの購入を忘れなかった自分に、最大限の賛辞を送りたい。

 

ダブルロールとくれば、コーヒーだ。

 

ベッドから上半身だけを起こし、光が漏れている薄茶色のカーテンを開ける。

下半分を覆う白い柵に、通りを挟んだ向こうにある民家の青い屋根。

磨りガラス越しに見える色は、今日のように晴れていても、曇っていても雨が降っても変わらない。

寝床から顔を右に向けると、生活空間の殆どが目に映る。

縦長のワンルームアパート。いつまでたっても固いフローリングが好きになれない。

 

丸い机に紫のリリィと青い紫陽花。

テレビの横には、紅白のミニローズ。

背の低いタンスを飾るのは、オレンジのチューリップと真っ赤なカーネーション。

狭いキッチンには色とりどりのダリアが並んでいる。

ペヤングの箱の上のやつは……あれは何だっけ? 薄ピンクの、3千円近くしたやつだ。名前は、確か……。

ダメだ、思い出せない。

 

枕の下に滑らした左手でパンフレットを掴む。

 

まっすぐ伸びる枝に小さい緑と2つの蕾、そして見事に開花し広がっている3つの薄ピンク。

そう、これだ。

マグノリアだ。

 

殺風景な部屋で自己主張をする色彩。

36歳、独身男の部屋とは思えない華やかさ。

チャーさんやワタル君が、花で溢れるこの部屋を見たら腰を抜かすだろうか。

例えそうだとしても、無理はない。俺自身が目の前にある光景に驚いている。

 

花たちに囲まれ、ミルクたっぷりのコーヒーを片手に、ベッドの上でかじるヤマザキのダブルロール。

ここだけの景色を切り取ったならば、女子大生の休日みたいだ。

 

俺は一体、何をやっているのだろう。

 

思考を変えようとトイレに入っても、光彩の売り込みは止まらない。

白いタンクの上でこちらを向き、燦然と輝くヒマワリのポット。

1万2千5百円。あの店で最初に買った大きなギフトポットは、この家にある花の中で一番高い代物だ。

 

(母親に)

 

あの時、とっさに出た一言がそれだった。

やけに値の張るギフト用のヒマワリポットを手に取ったのは、たまたま自分の目の前に陳列されていたからだ。

俺はとにかく焦っていて、頭が全く働いていなかった。

 

あの日、慣れない南口を出て、少し進んだ先に見つけた黄色い照明。

開け放たれた大きなドアから彼女が姿を見せた時、嘘みたいに時間が止まった。

10秒? いや、5秒? 

自分の体が硬直したその間は、とてつもなくゆっくりと時間が流れた。

 

一目惚れ。

 

それは、生まれて初めて経験する衝撃だった。

あの時、あの瞬間、俺の全てが紺のエプロンをした彼女に吸い込まれた。

 

(贈り物ですか?)

 

(はい。母親に)

 

意識せずに、自分の口から出た言葉。

「タナベ」というネームプレートを付けた彼女に伝えた受取人は、もう19年も前に亡くなっている。

行き場を失ったギフトポットが辿り着いた先は、白いトイレタンクの上。誰にも送られることのないヒマワリは、今日も変わらず定位置で背筋を伸ばしている。

 

アーティフィシャル・フラワーズ。

本物と見間違う出来だが、命は持たない。

色褪せることも、朽ち果てることもない。

このワンルームに存在する、枯れることを忘れた造花たちは、自らの意思で終わることを許されぬまま、永遠に求められた輝きを放つ。

 

***

 

「あら、シンちゃん、今日は珍しく一番乗りね」

 

「あれ、みんなは?」

 

「まだ顔を見せてないわよ〜。ワタルちゃんはバイトが長引いてるんじゃないの? チャーさんの方は、きっとパチンコが出てるのね」

 

今日はバイトがないんで、講義の後、4時には店にいます!

 

ポケットからスマホを取り、ビックリマーク付きのメッセージを確認する。

ワタル君よ、4時にはいるはずじゃなかったのか?

 

「ホッピーでしょ?」

カウンターの上の大皿にアジの南蛮漬けを盛り終えたセッちゃんは、こちらが答えを返す前にグラスに焼酎をなみなみと注いだ。

 

「セッちゃん、相変わらずだけど、ホッピーの入る隙間がないよ」

 

「え? いいのよ、最初はガッといって、後で調節しなさい」

 

全体の8割強を占めている焼酎に、気持ち程度の黄金色を足す。

予想通り、味は酷く濃い。

 

「それにしても珍しいわね、シンちゃんが一番乗りだなんて。そんなに私が恋しかったの?」

 

「いや、それはない。まだ来てないけど、ワタル君から4時にはここにいるって連絡をもらったから」

 

「シンちゃん、溜めなさい。答えるのが早すぎるの。ちょっとは濁しなさい。だからいつまで経っても、あなたもチャーさんも独り身なの。こんなことじゃ一緒にいるワタルちゃんの未来まで危ういわね」

 

「間違いない。もうすでにダメかもね」

 

「本当よ〜。何が楽しくて30中盤と50後半のおじさん達と一緒にいるのかしらね〜。あらやだ! ワタルちゃん、もしかしたらそっちの趣味があるのかしら」

一人で勝手に盛り上がったセッちゃんは、嬉しそうにタヌキの置物のお腹を叩いた。

 

確かに。彼女の言う通り、何が楽しくてワタル君は俺やチャーさんと時間を共にしているのだろう。

 

(おぃ兄ちゃん、ここに来たら南蛮漬けは食っておいた方がいいぞ)

 

酔いが回ったチャーさんに絡まれた、気弱そうな青年。それがワタル君の第一印象だった。

大学の工学部でデザインの勉強をしているという彼が、何故ひとりで若者には縁遠い昭和の飲み屋に入ってきたのかは分からないが、大工一筋40年のチャーさんと、彼が勤める工務店で図面を引いている俺は、フラっと訪れたその若者と建物の話で意気投合した。

ワタル君がこの店に顔を出し始めた頃は、決まってデザインや建築関係の話題ばかり話していたが、彼がボトルをキープし、好物であるポテトサラダをセッちゃんがサービスで出すようになると、場を占める主題は俺とチャーさんがいつもしていたような身のない世間話となった。

長い髪を耳にかけ、大きく手を叩いて笑う。大学生のワタル君が年の離れた俺たちと連む理由は定かではない。でも、彼がここにいて楽しいのであれば、訳など何だって良い。

 

「おぃ、何だ? 今日はシンジが一着か? 珍しいな」

右手を軽く上げたチャーさんの後ろで、ワタル君が頭を下げる。

 

「あら、何? 二人とも一緒だったの?」

セッちゃんが驚いた顔で置物のタヌキを撫でた。

 

「いやよぉ、焼き鳥屋の角曲がったら、ちょうどこいつの猫背が見えたから走ってぶつかってやったの。そしたらこいつ、目をひん剥いて驚いてな」

 

「いい迷惑ですよ。実際、刺されたって思いましたもん。最近、物騒なんですからやめてくださいよ」

俺の左隣に座ったワタル君は、トイレに近い特等席に腰をおろしたチャーさんに声を上げた。

 

「悪い、悪い。お詫びにお前の好きな桜肉、奢ってやるからよ」

 

「え? まじですか? やった! ありがとうございます」

 

「ワタルちゃん、騙されちゃダメよ。この人、カッコつけてるけどパチンコが出ただけなんだから」

流れるような動きで冷や酒をチャーさん、ウーロンハイをワタル君の前に置いたセッちゃんは、テレビのボリュームを大きく下げた。

 

「で、どうだったの? 昨日、ワタルちゃんから聞いたわよ。南口に出来た新しいお店? 2人揃って浮気したんでしょ?」

セッちゃんは手を腰に当て、チャーさんと俺の顔を交互に見た。

 

「ん? どうったって、もう随分前の事だからよ。でもまぁ、ありゃ、ダメだな。ありゃ、なんつーか、飲み屋っつーよりも、ファミレスみてーなもんだ。なぁ、シンジ?」

 

「いや、ファミレスではないけど、良い意味でも悪い意味でもチェーンの居酒屋みたいだったよ。日本酒はそんなに置いてない代わりに、料理やカクテルなんかは種類があって、内装も黒で統一していてお洒落だったしね」

 

「まぁ、とにかく若い奴が多かった。ワタルみてーので溢れててよ、眩しくって騒がしくってダメだ。その点ここは良い。若くておじさん、おばさん、あとはジジーとババーの老人天国だからな」

 

「ちょっと、僕がいるの忘れないでくださいよ!」

ポテトサラダを受け取ったワタル君は、手に持った箸を空へ上げた。

 

「ん? お前は中身がジジーみてーだから、ジジー枠だ。ヘタこきゃシンジよりも年寄りくせー時があるからな。そんな事よりも、うるさくなるからセッちゃんには話すなって言ったろ? まったく、何で言っちまうんだよ」

 

「しょうがないじゃないですかー。昨日はチャーさんもシンさんも来るのが遅くて暇だったんですから」

 

「まぁ、いいわ。でも、それなら安心。方向性が違うなら、商売敵になりそうにないわね」

セッちゃんは大鍋で煮込んでいるモツ煮をかき混ぜ、ゆっくりと目を細めた。

 

「それは間違いねー。あっこは煮込みも薄味だったしよ、なによりも南蛮漬けを置いてねーからな。とんだ無駄足だったよ」

飲み干したグラスをカウンターに置いたチャーさんは、タバコに火をつけた。

 

「でも、その無駄足のお陰で、シンさんが運命的な出会いを果たしたんですよね。南口にある花屋の、タナベさん、でしたっけ?」

 

「何が『運命的な出会い』だ、ワタルは表現が大袈裟なんだよ。あの偽物の花を売ってる、シャックリみたいな名前がついた店の姉ちゃんの事だろ?」

 

「チャーさんって、本当にデリカシーがないわよね。何よ、偽物の花って。造花よ、造花。シンちゃん、こんな油テカテカおじさんの言う事なんか気にしなくていいのよ」

 

「ありがとう、セッちゃん。でも大丈夫、この油おじさんとは付き合いが長いから慣れてるよ。因みにチャーさん、店の名前はシャックリじゃなくて、ヒゥレイクね」

 

「ひぅれ……っく? 何だそれは? まったく、なんでまたそんな覚えにくい名前を付けるかね? 偽物でも花を売ってんだから『菊』とか『ユリ』でいいじゃねーか」

 

「乱暴ですね、そのセンス。それ、肉を売ってるから店の名前を『ハンバーグ』や『唐揚げ』にしろって言ってるのと同じ原理ですよ。ところで、シンさん、そのヒゥレイクってどういう意味なんすか?」

ワタル君はウーロンハイを掲げて、こちらを見た。

 

「意味かぁ。いや、意味は正直分からない。花の質問しかした事ないからなぁ」

 

「何だよ、シンジ! あんだけ通って貢いでんのに、店の名前の意味も知らねーのかよ!」

 

「うるさいわよ油ジジー! 変な言い方しないの! やっとシンちゃんに浮いた話が出来たっていうのに! あんたって本当、デリカシーがないわね」

蛇口の水を手につけたセッちゃんは、その水滴をチャーさんの頭へと浴びせた。

 

ヒゥレイク。

そういえば、店の名前の意味など考えた事もなかった。

あの店へ入ると緊張でいっぱいいっぱいになり、花に関する以外のやりとりをする余裕などなくなる。

事実、もう10回以上はあの店へ足を向けているが、タナベというネームプレートを付けた彼女の事は、外側から入ってくる情報を除いて何も知らない。

 

「それで、指輪は確認したんですか?」

ワタル君は、なぜか低い声を出した。

 

「うん、あったよ。ちゃんと左手の薬指に」

 

「あらやだ、あったの?」

注文したおかわりホッピーを俺の目の前に置いたセッちゃんは、口に手を当てた。

 

「何だよ、今日も行ったのかよ?」

チャーさんの細い目が、糸のようにになる。

 

「行ったけど、今日はいなかった。確認したのは昨日」

 

「おう、色男。昨日はそんな話、ひとっつもしてなかったじゃねーかよ」

 

「何か話す気にならなかったんだよ。チャーさんはもう出来上がってたし」

 

「まぁ、しかし残念だな。相手が人妻だったらよ、こればっかしはしょうがねー。おめーの短い恋も終わったってことだ」

 

「チャーさん、そう決め付けるのは早いですって。まだ分からないですよ。もしかしたらその人、趣味で指輪を左手の薬指に付けてるだけかもしれませんし、何か忘れられない思い出があるだけなのかもしれません。それに、例え旦那や子供がいたって何だっていうんですか! お互いが深く結びつき合っていたら、そんなの関係ないじゃないですか!」

 

「おぉ? おぃ、急にどうした?」

前のめりになったワタル君に、チャーさんは飲んでいたグラスを差し向けた。

 

「いや、愛っす。愛に決まった形はないって事を、言いたいだけなんです」

 

「ちょっとワタルちゃん、急に大きな声出すのやめてよ〜。おばさん、心臓が痛くなるでしょ。でも、あれね。シンちゃん、それはチャレンジね」

セッちゃんはテレビの電源を切った。

 

「うん。でも、何ていうかさ、俺もよく分からないんだよ。指輪どうこうじゃなくて、ただ会いたくて、顔が見たいだけで。だから今日も店に行った。そりゃ、付き合えたりしたら最高だよ。でも、今は顔が見れたら幸せっていうか、こんな気分は初めてで、どう対処していいのか分からない」

 

「シンちゃん、それは、恋よ、恋。惚れてるのね〜」

洗い物の手を止めたセッちゃんは、目を閉じて大きく頷いた。

 

「でもよ、そんなに好きなら、もう1歩踏み込めばいいじゃねーか。結構、通ってんだろ? だったら『お話ししませんか?』って電話番号ぐらい渡したらどうだ」

 

「ちょっとチャーさん! 何よそれ、もぉ〜昭和臭い! 今時そんな事したら通報されるわよ!」

閉じられていたセッちゃんの目がカッっと開く。

 

「バカ言ってんじゃねーよ! 好きな気持ちを伝えただけで通報されてたまっかよ! 全くよ、ワタル世代の変な奴らが訳の分からねーことばっか起こすから、好意すら伝えられねー世の中になっちまったじゃねーか! おぃ、ワタル! どうしてくれんだ!」

 

「僕に言われても困りますよ! それに、世代だけで一括りにしないでくださいよ。どの時代だっていたでしょ、変な人。でもまぁ、チャーさんの提案は悪くないかもしれませんよ。『お話ししませんか?』のセリフは変えるとしても、こういうのは案外ストレートに言った方がいい時もありますから」

 

「いや、無理だよ。電話番号なんか渡せないよ。だって、まだちゃんと話した事もないんだから」

 

「いきなりじゃないですよ。徐々にです。なので、これからは通う1回1回が勝負ですよ。何か1つでもいいですから、彼女に関しての情報を集めていくんです。何でもいいですから、とにかく会話をしてください。それで、ある程度関係が構築された状態で電話番号って流れになるんです」

 

「おい、セッちゃん、ここに恋愛の大先生がいるぞ」

 

「茶化さないでくださいよ。別に大した事は言ってないんですから。チャーさんの過ごした時代と違って、こんな事は当たり前なんですから」

 

「何が、当たり前だ! お前だって世代で一括りにしてんじゃねーか!」

 

「ちょっと、チャーさん、うるさいわよ〜。腰に響くから、大きな声はやめてって。でも、ワタルちゃんの言う様にしたら、何だか番号を渡せそうな気がするわね。シンちゃん、もうこうなったらやるしかないわよ。じゃあね、ちょっと待ってて。はい、この南蛮漬けはゲン担ぎのサービスね」

 

「どうだろう、南蛮漬けはありがたいけど、渡せるかなぁ。今、頭の中でイメージしてるんだけど、うまくいく感じがしない」

 

「男じゃねーな、シンジ。こういうのはな、ガツンといくんだよ、ガツンと。まぁ、そうは言っても、お前はガツンの反対側にいるからなー。じゃあよ、俺とワタルが一緒に行って、お前が番号を渡し易くするってのはどうだ? なんつーか、他の客が寄らねーようにしたり、他の店員に質問したりしてよ」 

 

「プッ! ちょっと〜、チャーさんみたいな油おじさんが店に顔出したら、絶対に怪しまれるわよ〜!」

 

「バカ言ってんじゃねーよ! あれ、セッちゃんに言ってなかったっけ? 俺は学生の時、演劇部だったからよ、客を装うなんて朝飯前よ!」

 

「それ、まじですか? 悪い冗談ですよね」

ワタル君がしょっぱい顔を見せた。

 

「冗談なわけあるかい。『ジュリエットは太陽だ!』なんつってね、バシッと決めたもんよ」

 

「シンさん、大丈夫です。この人が暴走しそうになったら、僕が止めますから」

 

「本当にやるの?」

俺の頭にはコントの一場面しか浮かばない。

 

「やるに決まってんだろ! よしっ、じゃあよ、シンジはワタル大先生の指示通り、しばらくは姉ちゃんともっと仲良くなっとけよ。その間に俺は演技の流れを決めとくからな。まぁ、一応念のために、実行日の前にリハーサルはするからよ、当日固くなんねーよーに心の準備をしとけよ!」

嬉しそうに俺を指差したチャーさんは、グラスに残っていた冷酒を一気に飲み干して、大きく手を叩いた。

 

***

 

既婚者

子供なし

猫1匹

グラタンが好き

読書が好き

ジェットコースターは嫌い

旦那さんの仕事が忙しい

 

アネモネ、水仙、ポピー、カメリア、スイートピー、クロッカス、ポインセチア、フリージア、ガーベラ、ピオニー、ラナンキュラス。

 

部屋に溢れる新しい花たちと引き換えに得た、タナベさんの情報。

手が震えないよう、目が泳がないよう、そして舌を噛まないように細心の注意を払って手に入れた話は、真っ白だった彼女の輪郭に少しの色を付けた。

 

サトムラ シンジです

結婚はしていません

彼女もいません

建築士です

猫は好きです

読書も好きです

ドリアが好きです

花が大好きです

 

上手く顔を見れずに伝えた自分の話。

建築士の前にあえて「2級」とは入れずに背伸びをして、他の答えも随分と彼女に寄せたものばかりが口をついた。

 

「花が大好きです」

 

俺は彼女に嘘をついた。

生花にしても造花にしても、花が大好きだなんて思った事は1度もない。

スッと伸びた鼻筋に少し垂れた目、優しく笑う彼女の姿を求めて店に通っているだけ。足を運ぶ動機は、いたって不純だ。

それでも、花は嫌いではない。

見慣れるまでに時間はかかったが、長細い部屋に咲く花は、毎日の決まり切った景色を変えてくれた。

彼女と出会ってから、晴れていても雨が降っても曇っていても、俺の生活は色と共にある。こいつらが息をしてようがしていまいが、そんなことはどうだっていい。こうして日常を照らしてくれている事実だけで十分なのだ。

 

いつかこの部屋が色彩で埋まったら、彼女に触れる事が出来るのだろうか。

それがもし叶うのならば、花を纏って生きていこう。

誰になんと思われようとも、花と共に生きていこう。

 

***

 

この1ヶ月で買ったサマーシャツは7枚、アンクルパンツは3枚。

時計も靴も新調した。

 

上は空色、下は薄い黒を選び、ワックスで髪をまとめて金木犀の香水を首につける。

後ろ姿を必死に確認する自分を見て、鏡の中の男は笑ったが、気にしない。

心がしたいように、自由にやらせる。

俺は恋をしているのだ。

 

駅ビルに辿り着き、南口のトイレの鏡で最終確認をしてからゆっくりと歩き出す。

店がある道の角を曲がる前に立ち止まり、深呼吸をして空を見上げる。

決まったルーティーンをひとつずつ踏んでいき、落ち着きを取り戻す心臓。

 

さぁ、夢の中へ行こう。

 

***

 

「あ、いらっしゃいませ! すごいタイミングですね、今ちょうどサトムラさんの話をしていたんですよ」

紺のエプロンをしたタナベさんは、隣にいたスタッフの肩を叩き、いつも通り口に手を当てて笑った。

 

「そうなんですか。悪い話じゃないことを祈ります」

 

「そんなわけないじゃないですか。いつも足を運んでくれてありがたいね、って話をしていたんです」

 

「いえいえ、すみません。こちらこそありがとうございます」

俺は一体、何に謝罪して、何に感謝をしているのだろうか。

 

「今日のシャツの色、夏らしくて素敵ですね」

 

「あ、これ、夏ですもんね。夏だなぁって思いまして」

酷い答えだ。自分が何を言っているのか分からない。

 

「あの、この前お話したアイビーは、奥ですかね?」

これ以上、訳のわからない言葉が口から漏れぬよう、話題を商品に戻した。

 

「はい。向こうのヒマワリセクションの裏です。よかったらご案内しますよ」

 

「あ、では、お願いします」

 

レジの近くにいたスタッフに声をかけたタナベさんは、こちらを向いて微笑み、クルッと背中を見せた。

 

タ タ タ

 

一定のリズムで進んで行く彼女の後ろ姿を見つめる。

1つに結んだ髪から覗く首筋。

 

心のざわつきが伝わらぬように、左手に集うヒマワリへと視線を向ける。

 

「サンセベリアなどのポットがこちらで、横にあるのが単品のリーフです。サトムラさんがおっしゃっていたアイビーは何種類かありまして、蔓の状態でご用意しています。何か特定のアイビーをお探しですか?」

 

「いや、ちょっと名前は分からないのですが、あの、色が濃くて丸みを帯びた三角みたいな、あ、こんな感じのやつです。というか、きっとこれです」

蔓がまとまっているラックの右端に、探していたアイビーが吊られていた。

 

「それは、イングリッシュアイビーですね。この濃い緑、いいですよね」

 

「はい。あ、これ、イングリッシュアイビーって言うんですね。実家に長い間あったんですけど、正式名称は知りませんでした」

 

「そうなんですか。では、このアイビーはサトムラさんにとって思い出の品なんですね」

 

「そんな大それたものではないのですが、一応そうなります」

 

 

イングリッシュアイビーなどと言う名前が全く似合わない個人経営の建築板金屋、それが俺の生まれた家だった。

事務所と生活空間の区切りが無い、昭和丸出しのスペースに置かれていたアイビー。

 

(これがあれば、ちょっとは洋風になるでしょ)

 

噴水のようにポットから溢れる生命力が、母親の自慢だった。

凝り固まった重い空気を囲むように伸びる、緑の蔓。不似合いな場所で毎日佇むその姿が、記憶にある母親と重なる。

 

 

「こちらも、お母様にですか?」

 

「え?」

 

「こちらのアイビーです。プレゼントされるんですか?」

 

「あぁ、いえ、これは自分のためです。花が増えてきたので、緑が欲しいなと思いまして」

 

「そうなんですか。あの、きっとサトムラさんのお家は、お花で溢れているんでしょうね」

 

「はい。お花というか、こちらのお店で買わせていただいた商品で溢れています」

 

「お買い上げありがとうございます。ふふっ。いえ、ごめんなさい。今、勝手にお部屋を想像したら、面白くなってしまいまして。あの、何ていうか、街でサトムラさんを見ても、絶対にお花で溢れているお部屋に住んでいるとは想像しないと思うので」

 

「ちょっと、どういうことですか! 俺、そんなに花のイメージないですかね」

 

「はい。全くないです」

 

「ストレートですね。でも、合ってますよ。ここの花が好きで揃えましたが、それ以前はペヤングの箱が溢れていましたから」

 

「ペヤング? ソース焼きそばですか?」

 

「はい。あの白い箱の」

 

「そうですか。でも、その方がイメージと合いますね」

 

「一人暮らしなもんで」

 

「ペヤングも美味しいですけど、インスタント以外も食べた方が良いですよ」

 

「そうなんですよね。たまに自炊もするのですが、好きなものばかり作ってしまうので、バランスは確実に悪いです」

 

「サトムラさんは、いつも何を作られるのですか?」

 

「割合は、ドリア8にチャーハン2です」

 

「ほぼ、炭水化物じゃないですか」

 

「はい。結局は、お米で落ち着きます」

 

「じゃあ、おかずを作ってもらえる彼女を見つけないとですね」

 

「そうですね。おかずを作ってもらうのは恐れ多いですが、そんな機会がもてたら嬉しいですね。望みは薄いと思いますが」

 

「望み、薄いですかねぇ。サトムラさんだったら素敵な彼女が出来ると思いますけどね」

 

「励ましのお言葉、感謝します。お世辞でも嬉しいです」

 

「お世辞ではないですよ。私はお世辞は言いません。サトムラさんは、素敵な方ですよ」

 

 

時間が、止まった。

 

いや、呼吸が止まった。

 

一点を見つめ、イングリッシュアイビーを両手に持った俺は、どんな表情をしていたのだろう。

 

 

(サトムラさんは、素敵な方ですよ)

 

 

あの後すこし続いた会話、そして料金の支払いに別れの挨拶。そのどれもがフワフワして、夢でも見ているようだった。

現に、今こうして駅ビルに戻り、アパートのある東口には向かわずに西口のスロープをゆっくりと降りている足に、明確な意思はない。

 

頭が記憶しているパターン。

うわのそらで、感情を上手く収められない時に足を運ぶコースをなぞる。

西口を出て30分ほど歩き、玉鈴川にかかる茜橋を越えて見えてくる高台。

 

マンションが群立し、等間隔に並ぶ街路樹や新しく固められたアスファルトが気取っていて、あまり落ち着ける場所ではないが、ここから街を見渡すと、不思議と気持ちが軽くなる。

 

居場所がなかった自分の心の拠り所。

ここ最近は、殆ど目にしなくなった風景だが、地元を離れ、こちらに移ってはじめの数年は、事あるごとにこの場所を訪れていた。

 

 

(サトムラさんは、素敵な方ですよ)

 

 

工業団地の煙突から上がる白い煙が、欲望を形にする。

かけられたフレーズが重みを増し、思考を覆い尽くす。

 

彼女の本心は、分からない。

でも、本当の気持ちなど、今は重要ではない。

これが幻だとしても、この体に纏わり付く感覚だけに溺れていたい。

 

人をここまで好きになったのは、いつ以来だろう。

その人の事ばかりを考え、一目姿を見たくて堪らなくなる。

結婚をしていようが、どんな状態に置かれていようが関係ない。

理性で物事を判断できる自信がなくなる。

 

 

母親も、こんな気持ちだったのだろうか。

 

 

真っ白な寝具。

薬品の匂い。

緑のライトが光る、長くて暗い廊下。

 

消えない光景に、擦り切れるほど繰り返し再生した言葉。

個室に移った母親は、あの時、ひどく泣いたんだ。

 

 

(ずっと内緒にしていてごめん。シンちゃんの本当のお父さんは、別にいるの)

 

 

「ごめんなさい」と声を上げ、俺の手を強く掴み泣き崩れた母親。

部屋の小さな鏡に映った17歳の俺は、涙を流していなかった。

 

夜になるまでそばにいて、暗くなってから飛び出した廊下はやけに静かで、この世のものとは思えなかった。

早足で歩いて部屋から離れても、左手に残った母親の感覚が重くて、何度もトイレで手を洗った。

 

 

死にゆく人が残した過ちの懺悔。

どんな顔をしてその話を聞いてあげればよかったのか、今でも答えが分からない。

 

あの日の病室から約1ヶ月後に母親は息をひきとり、俺は偽物になった。

父親や弟が母親の秘密を知っているのかは分からないが、彼女がいなくなった事により、俺はあの家の中で唯一の他人、つまり偽物の家族となった。

 

高校を卒業して、この街に移り18年。

その間、親戚の法事などで数えられるほどしか実家には帰っていない。

そもそも、4つ下の弟が親父の後を継ぎ、家族水入らずで生活をしているあの家に、無駄に負い目を感じた俺の居場所などはない。

 

 

高い空の中で競い合う入道雲の隙間から、顔を出す西日。

容赦なく照らす光の線が、幾つも首に刺さって痛いが、もうしばらくはここにいよう。

 

こんなに心が散らばっていては、このまま家には帰れない。

 

迫る熱を避けようと眺めた北の山には、ハッとするような緑が続いていた。

 

 

(後半へ続く)

 

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