茜橋で待ってます《後編》

 

 

「大学おめでとう。おばさんから聞いたよ。何で直接教えてくれなかったの?」

久しぶりに顔を合わせたエミちゃんは、いつもそうしているように小声で俺に話しかけた。

「ごめん。なかなか言うチャンスがなくて。最近バイトも被らなかったし」

 

2月半ばの登校日。

まだ試験が残っている生徒もいるせいか、思っていたよりも空席が多い。

前回のバイト帰りに「ダルい。行きたくない」を連呼していたサキヤマさんは、意外にも、教室の右隅で友達の肩を叩き、口を開けて笑っていた。

 

「ナオト君、何で大学を徳島にしたの? 誰か知り合いでもいるの? それともそこの大学でしかやってない学部があるとか?」俺が座っている席の横に立つエミちゃんは、こちらではなく、前を向いて話を続けた。

「いや、受かった中で奨学金をもらえるのがそこだけだったから」

「でも徳島って、ずいぶん遠くない? ナオト君の成績だったら、この周りでも都内でも絶対あったと思うんだけど」

「そんな事ないよ。ある程度の額で給付だけに絞ったら、結構、条件厳しいところが多かったし。それに、地元じゃなくて新しい場所に行くのもいいかなって思って」

 

突然、自分の体が前に押し出され、床に擦れた机が大きな音を立てた。

 

「おい、葉っぱ。何、一丁前に語ってんだよ」

 

ワカマツの声を確認し、自分が椅子ごと前に蹴られた状況を把握する。

机にうつ伏せになった状態で左目が捉えたのは、エミちゃんの固く閉じられた手。

 

「逃げるだけだろ、葉っぱ。それっぽい言葉並べて偉そうに語ってんけど、ここから逃げるだけだろ? この街にいたら、俺らからバカにされるから逃げるんです、って何でそう正直に言わねーんだよ」

 

クラスの空気が固まっていくのが分かる。

 

見えない視線がどんどん突き刺さる。

 

俺は、この感じが大っ嫌いだ。

 

「結局、親のスネかじって大学行く奴なんかは、こんなもんだよ。言葉だけカッコつけて、腹が据わってねぇの。ダッセぇな」

ワカマツの声が一段と大きくなる。

 

 

「マジで、昨日の修造ヤバかったの! 子供達相手に超気合い入っちゃってさ! 『本気出せよ、本気っ!』って、もうラケットブンブンよ!」

 

 

笑い声がする。

教室の右端から、よく通る笑い声がする。

 

 

俺は上体を起こし、賑やかな音のする方に顔を向けた。

 

目を見開き、右手をラケットに見立ててブンブンと振る、サキヤマさん。

大袈裟に机を叩いて、友達と笑い合うサキヤマさんが、そこにいた。

 

「だから俺みたいに就職して、社会に出て……おい、サキヤマ! うるせぇよ!」

 

「怖っ! 超、睨まれてるんだけど!」

ワカマツに怒鳴られたサキヤマさんは、ゆっくりと首をすくめ、「行こう」と友達の腕を掴んで後ろのドアからクラスを出た。

 

 

チャイムが鳴り、先生が教室に入ってくる。

 

サキヤマさんはその日、ホームルームが始まってもクラスに戻ってこなかった。

 

***

 

(逃げるだけだろ)

 

ペダルを強く漕ぐ度に、冷たい風が頬をはたく。

曇った空は、視覚的に寒さを際立たせる。

 

(逃げるだけだろ)

 

赤信号ばかりに捕まるのは、気のせいだろうか。

真横に止まった車から大音量の音楽が漏れている。

 

(逃げるだけだろ)

 

自分の自転車が、やけにトロく感じるのは何故だろう。

 

(逃げるだけだろ、葉っぱ)

 

……うるさい。

 

うるさい。

 

うるさいっ! 黙れっ!

 

俺の名前はアオバ ナオトだ。

葉っぱなんかじゃない。

 

 

逃げるだけだろ、って、それの何が悪い。

逃げてでも生きたいって思う気持ちの、何がいけない。

 

情けないレッテルが付きまとう街で生きたいバカが何処にいる。

 

卒業して就職するのがそんなに偉いのか?

ウチの状況も知らないくせに、狭い思考で決めつけて。

 

声の大きい奴の意見が通る場所なんかで、生きたくはない。

今の自分がこれからも続くなら、生きていたくはない。

 

なぁ、頼むから俺を放っておいてくれっ!

 

両手で目一杯ブレーキを引き、自転車を道の端に止める。

頭がクラクラして、肩が痛い。

 

砂糖が、必要だ。

甘くて美味しくて、気が鎮まるものを口にしたい。

 

心に浮かぶのは、商店街にあるサエキベーカリーのチョココロネ。

今から急いで行けば、何とかバイトに間に合う。

俺は自転車の頭を180度逆に向け、立ち漕ぎをして風に逆らった。

 

***

 

エミちゃんは、いつも赤いコートを着ている。

白いニット帽を被り、白い手袋をはめている彼女は、まるで遅れて来たサンタクロースだ。

 

「今年は去年より、ずっと寒いね」

 

二人でいる時のエミちゃんは、ちゃんと顔を見て話をしてくれる。

外が寒くても、バイトが混んでも、エミちゃんはいつも笑顔だ。

 

「昨日は、巻き込んじゃってゴメンね」

「昨日? 何の事?」エミちゃんは目にかかっていたニットを上にずらした。

「ホームルーム前のワカマツの事」

「あぁ、いいよ、全然。何でもないよ。でもさ、昔はもうちょっと優しかったんだけどね、ワカマツ君」

「優しかった時期なんてあったっけ?」

「うん、あったよ。ほら、小学生の時とか、いじめられてた子を庇ったりしてたでしょ」

「そうなんだ。全く覚えてないよ」

「それにね、クラスで飼ってた亀とかザリガニの世話を一番してたのも、ワカマツ君」

「今の姿を思うと、信じられないね」

「中学校に上がって悪くなっちゃったけど、それでもその頃は、誰にも手を出してなかったと思うよ」

 

きっとエミちゃんは、小学校時代からワカマツの事が好きだったのだろう。

 

「でも、高校生になって変わっちゃった。暴力を振るうようになっちゃったからね」

エミちゃんは顔を前に向けて、大きく息を吐いた。

 

「ねぇ、人って、どんどん変わっていっちゃうのかな?」前を向いたままのエミちゃんの先に、茜橋が迫る。

「変わるって、性格の事?」

「うん、それもそうなんだけど、外側だけ一緒で、中身が全部そのまま取り替えられちゃったみたいになるって事」

 

「全部かどうかは分からないけど、変わるよ。人は絶対に変わる」

 

「ふふっ。ナオト君が言うと、説得力がないなぁ。ナオト君は、ずっと変わってないからね。あ、悪い意味じゃなくて、良い意味でね。ナオト君は、今も昔も、私が知っているナオト君のままだよ」

「何かそれ、全く成長してないみたいで嫌だな。まぁ、実際、成長してないんだけど。でも、変わると思うよ。絶対に変わっていくって、俺は信じてる。だって、このままじゃ、このままでしか生きれないから」

「そっかぁ、変わるのか。じゃあ、私も変わるのかなぁ。どんどん、変わっていっちゃうのかなぁ」

 

独り言のように声を出したエミちゃんの視線は、左に見えてきた工業地帯に向けられている。

 

「エミちゃん、あの、エミちゃんは、何を思ってあのオレンジのライトを見てるの?」

 

1歩だけ、1歩だけでいいから、今まで跨いだ事のない線を越えてみたい。

 

「え? どんな気持ち? どうしたの、急にそんなこと聞いて」

「いや、深い意味はないんだ。俺もいつも帰る時に見てるんだけど、エミちゃんは何で見てるのかなって思って。あの、ごめん、変なこと聞いて」

「ううん、大丈夫。あ、違うの。今、少し笑ったのは、前にサキヤマさんと一緒に帰った時に同じような質問をされたから、不思議だなぁって思って」

「サキヤマさんが?」

「うん。あ、ごめん、私が見ている理由だよね。別に大した意味はないんだけど、ただ、頑張っているなぁって思いながら見てるの」

「頑張っている? え? オレンジのライトが?」

「あそこさ、いつも凄く綺麗に輝いてるでしょ? あれってさ、人に置き換えたら本当に大変な事だと思うんだ。いつも輝いている人って、綺麗で優雅で憧れるけど、あの人達って何かを捨てて光っているように思えるの。何ていうか、命を削って輝いているって言うか。私は絶対に出来ないし、想像しただけでも息が詰まりそうになる。だから、あの光を見ると、勝手にそういった人達を思い浮かべて、頑張ってるなぁ、大変だなぁ、凄いなぁって思ってるの。これで、質問の答えになってるかな?」

「うん、十分なってる。物凄くエミちゃんらしい答えだなって思って、妙に納得した。ありがとう」

「いえいえ、どういたしまして」エミちゃんはそう言って、優しく微笑んだ。

 

「トリマーの専門は都内だよね? 一人暮らしするの?」

エミちゃんの家の近くになり、俺は意識的に歩みを遅めた。

「ううん。何とか通える距離だし、お金もかかるから家から通う。ナオト君は、もちろん一人暮らしだよね? 徳島、通えないもんね」エミちゃんは口を押さえて笑った。

「通えない、通えない。もちろん、一人暮らし」

「そっか。……ねぇ、初めてだね、私達が離れるの。家も近所で、小、中、高って、ずっと一緒だったもんね。何か、何か寂しいね。付き合ってもいないのに、何とも言えない変な感じ」

 

静かな冬の夜。風がない分、あまり寒さを感じない。

 

俺達はとてもゆっくりと歩き、俺の家の前を通り過ぎて、3軒先にあるエミちゃんの家の玄関に辿り着いた。

 

一時停止を押したような沈黙。

上手く「またね」が切り出せない。

 

「エミちゃん、あのさ」

「はい」

「あの、いや、おばさんによろしく」

「あ、うん。こちらからも、よろしく言っておいてね」

「分かった。じゃあ、また、だね」

「うん。送ってくれてありがとう。それじゃあ、またね」

「じゃあ、また」

 

夜に映える赤と白。

真顔のエミちゃんは、家には入らずに、こちらを向いた。

 

「ねぇ、ナオト君、出発前に、また会えるよね?」

「え? あぁ、うん。行くのはまだ先だから、またバイトが被ると思う」

「そうだよね、うん、ありがとう。何か安心した。じゃあ、おやすみ」

「あのー、うん、おやすみなさい」

 

笑顔で手を振ったサンタクロースは、茶色いドアの中へ消えた。

 

(あの、エミちゃん、7と共にいた数字って、何だと思う?)

 

聞けない。

そんなことは、聞けない。

 

ゆっくりと時間をかけて3軒先に戻り、来た道を振り返る。通りは静かで風はなく、寒さを感じない夜だった。

 

***

 

「数字の歴史」「秘密のナンバー」「魔法の数字学」「数字にみる、配列の法則」

 

手当たり次第に借りてきた本の返却日が迫る。

 

神が天地を創造した後に休んだのが7日目。

7は完了を表す終わりの数字。

地球のサイクルは7で回る。

7は故人が三途の川に到着する日。

真実を見つめる数字、7。

 

今朝9時過ぎに起きて、真っ先に確認したポストに入っていたコピー用紙。

今週も、水曜日がやってきた。

 

机に座り、書かれたメッセージを凝視する。

 

茜橋で待ってます

今夜、7と共にいた数字の時に

茜橋で待ってます

 

7は聖なる数字。いや、違う。7そのもの意味が知りたいんじゃない。7と共にいたとされる数字が知りたいんだ。俺の調べ方が悪いのか、今の所、ヒントすら見つけられていない。

 

7、7、7。

 

数字に囚われるからいけないのか?

飛躍しすぎかもしれないが、「今夜、7と共にいた数字の時に」という部分が暗号になっていて、それを読み解けば、求める答えは出るのかもしれない。

 

例えば、アナグラムと考えるのはどうだ。

 

コンヤ ナナトトモニイタ スウジノトキニ

 

→ コンナニモ ヤイタ ナスト ウニト キジトノ

 

→ こんなにも 焼いた 茄子と ウニと 雉との

 

 

「こんなにも焼いた茄子とウニと雉との」……雉との……何なんだ? 

文が途中で終わってしまっている。

 

雉との……雉との、ハーモニー。

 

続く言葉が、「ハーモニー」しか思い浮かばない。いや、言葉を勝手に付け足してしまったら、アナグラムの意味は成立しない。

不完全なままのメッセージでも、手を加えてはいけないんだ。

 

そうなると、つまり、水曜の夜に、こんがりと焼きすぎるほど焼いた、茄子とウニと雉を用意して茜橋に向かえば、何かが起こるという事か……。

 

何かが、起こる……はずがない。

 

ちょっと待った。俺は、何を考えているんだ。

そんなものを揃えて、茜橋に行って、何をする気なんだ? 黒魔術の生贄か?

俺は、あの世から何かを召喚するつもりなのか?

 

ダメだ、考えすぎて、思考が訳の分からない方向へ突き進んでしまっている。

これ以上、続けても時間の無駄だ。

 

基本に立ち返ろう。

7と共にいた数字の存在を見つけ出せばいいんだ。

 

***

 

「で、いつ徳島に行くんだっけ?」

ホットのお茶を頬に当てたサキヤマさんは、落ちていた小石を足で弾いた。

 

「再来週の月曜日」

あと、10日だ。俺は頭に浮かべたカレンダーにバツ印を付けた。

 

「バイトはいつまでやるの?」

「出発前日までだよ。もう荷造りとかは終わってるしね」

「ていうかさ、何で徳島なの? 徳島って四国だよ? ちゃんと距離分かって言ってるの?」

「分かってるよ! 分かってなきゃ行かないよ」

「つまんない回答だねー。何の捻りもなくてビックリした」

「え? ちゃんと答えちゃダメなの? サキヤマさんの求めてる答えなんか、分かんないよ」

「何、その、のび太的な発想。分かんないよーって言えば、どうにかなると思ってるの? 私、人間だし、どら焼き好きじゃないから、ひみつ道具は出てこないよ。それで? だから何で徳島なのよ?」

「何でって、色々だよ、色々」

 

(逃げるだけだろ)

 

教室でワカマツに言われた言葉が、耳から離れない。

 

「ふーん。出てくる答え、ことごとくつまんないねー」

「さっきから失礼だなぁ。だって、つまるとか、つまらないじゃなくない? じゃあ、何でサキヤマさんは地元の大学にしたの? 何か特別な意味があるの?」

「行く大学に特別な意味はないよ。でも、距離は大事だから、絶対に近くがよかった。ウチは家でお婆ちゃんを見てるから、人手が必要なの。私のお母さん、結構バリバリ働いている人だから、よく残業してくるんだ。だから、その時は私が家にいる担当。お父さんはいつも帰り遅いしね。ここ最近、ていうか半年くらい前から、お母さんの仕事で何か新しいプロジェクトみたいなのが始まったらしくて、帰りが遅くなる日が多くてさ、そのせいでアオバに結構迷惑かけちゃったね」

「迷惑? 俺に?」

「ほら、何度もバイトを代わってもらったじゃん。『一生のお願い』付きのメッセージばっか送って」

「え? お婆ちゃんを見てるって、あれ? 彼氏がどうとかで代わったんじゃなかったっけ?」

「彼氏? あー、一番始めのメッセージね。あれ、初めてお願いするから理由書いただけで、彼氏が原因で代わってもらったのは、その時だけだよ。そいつとは、その日で別れたしね。それ以降は訳を書かなかっただけ」

「え? あ、そうなの?」

「何? アオバ、何で、そんなに驚いてるの? ていうか、久しぶりに思い出したら腹が立ってきたー。あいつ、まじむかつく。アオバ、体だけ求めてくる男なんか、最低だからね、人として、最低」

「体だけ、あー、え、うん。そうか、はい」

「そうだよ。いやー、本当に最低な男だった」

 

体だけ……。

 

セックス。

 

そうだ。

 

サキヤマさんは、きっと、セックスをした事があるんだ。

 

そうだ。

そうだよ。

18歳なんだ。

当たり前の事だ。

 

セックスなんて、みんなしてる事だよ。

驚く事じゃない。

 

そうだ。

そりゃ、そうだ。

 

 

「ねぇ、ちょっと! 話、聞いてる? アオバは、呆れるくらい工場が好きなんだねー。どれだけ集中してオレンジライトを見てるのよ。ありがとう、って言ってるでしょ! お母さんの仕事が落ち着いたから、もうないと思うけど、今までいっぱい代わってくれてありがと。本当に感謝してるんだから」

 

「あぁ、いや、どういたしまして。ありがとうございます」

 

「何でアオバがお礼してるのよ? ちょっとー、夜景見すぎて、この子頭がおかしくなっちゃったー。どうする、今から救急車呼ぼうか?」

 

「うん、ありがとう。お婆さんによろしくお伝え下さい」

 

「ちょっと、本当に大丈夫? 気分悪いの? アオバ、ウチのお婆ちゃんと何の面識もないでしょ? あー、ここで待ってて、今すぐウチに行ってヤクルト持ってきてあげるから、きっとそれで良くなるよ」

 

「うん。問題ないよ。大丈夫。じゃあ、おやすみなさい。さようなら」

 

マンションへ入らないサキヤマさんが、俺の背中に何か言っている。

振り向けない自分が小さすぎて嫌だ。

 

 

何がそんなにショックなのだろう。

サキヤマさんが誰とセックスをしていようが、どうだっていい事じゃないか。

何の問題があるというんだ。

 

関係ないよ。

何も。

 

 

自分の気持ちの弱さに嫌気がする。

どうでもいい話ばっかりして。

 

今日は、お礼を言うはずだった。

本当にありがたかったから、サキヤマさんに感謝の気持ちを伝えるはずだった。

 

(あの時、ワカマツの注意を引いてくれてありがとう)

 

伝えるところを想像すると、むず痒い思いになったけど、これだけは言わなければと決めていた。

 

なのに、何だ。

よく分からない感情に圧倒されて、頭がストップしてこのザマだ。

救ってくれた人に、感謝さえも伝えられない。

 

情けなくて、恥ずかしい。

 

こんな気持ちを引きずったまま、家に帰りたくない。

 

遠くに見えるオレンジの夜景。

俺には、この美しい輝きを眺める資格がない。

 

体の正面を北側に向ける。

黒くて深い夜の姿が、そこに広がっている。

 

エミちゃんも、誰かとセックスをするのだろうか。

何でこんな事ばかりが、頭をよぎるのだろう。

 

(色々だよ、色々)

 

俺は答えを誤魔化した。

 

(お婆ちゃんを見てるから)

 

彼女は答えを誤魔化さなかった。

 

この差だ。

この差がある限り、同じなんだ。

 

彼女に対して正直に「逃げるんだ」と伝えられなければ、場所が変わろうと、役柄を変えようと、舞台を、劇を変えようと、俺は、俺の配役を捨てられない。

 

何やってんだ、俺は。

いつまでも外着ばっかり増やして。

 

脱いでいかなければ。

服を増やすのではなく、どんどんと減らしていくんだ。

外ではなく、内を変える。

 

どんなに着飾っても、夜は夜。

本質は変わらない。

 

今日の思いを忘れないでおこう。

この情けない気持ちに、これからも鍵をかけないで向き合っていこう。

 

***

 

この街を出る前に迎える、最後の水曜日。

 

ポストの紙を確認した俺は、黒田三郎の詩集にホッカイロとフリスク、それに、ほうじ茶が入った水筒をカバンに入れ、午後4時50分きっかりに家を出た。

 

茜橋で待ってます

今夜、7と共にいた数字の時に

茜橋で待ってます

 

時間の謎は解けていない。

でも、今日、この日を迎えた事で、不思議な文の意味を解読する必要性はなくなった。

 

この日が俺に残された最後の水曜日。

謎は残っていても、「今夜」「茜橋」という2つのキーワードがあれば、それで十分だ。

今日はバイトがない水曜日、つまり夜の予定が何もない日。

 

茜橋は家のすぐそばにある。

夜が始まる午後5時から、ずっと橋で待っていれば、手紙を出した張本人に会えるはずだ。

その相手が誰でも、例えワカマツ達のいたずらだとしても、目の前に現れるであろう事実を受け入れるつもりだ。

 

何かを待つのは、もう終わりだ。

動いた先の結果を、この目で見るんだ。

 

 

<午後5時>

 

橋の中央にある窪みで待機する。人通りは多く、帰りを急ぐ人達が目の前を往来している。

様子のおかしい人や、立ち止まる人はいない。強いて言えば、キョロキョロと辺りを見回している自分が、一番の不審者に思える。

 

<午後6時>

 

黒に青が混ざったような色に包まれる。

緊張の為か、持ってきた詩集を読む気になれない。

通行人が前を横切る度にしていた、「誰かと電話をしているフリ」という小芝居を止める。よくよく観察すると、誰も俺の事など気にかけてはいない。

 

<午後7時>

 

北側の黒が濃くなる。

引き続き、不審者なし。

口の中が痺れてきたので、食べ続けていたフリスクをカバンにしまう。

口臭を気にするよりも、食べ過ぎによるお腹の不調の方が心配だ。

 

<午後8時>

 

初のトイレ休憩の為、橋からそう遠くない、バイトをしているコンビニへ行く。

店までは一本道なので、後ろを確認しながら歩ける分、家へ帰るよりも人影を見逃すリスクが少ない。

コンビニへ入ると、サキヤマさんが品出しをしていた。

「ちょっと急ぎでトイレ」と言うと、「うんこマン」と声をかけられた。何だかシャクなので、急いで小を済まして戻ると、「汚いので、手を洗って下さい」と死んだ目を向けられた。

ここでのロス時間、約3分。

この間にもし張本人が現れていたとしたら、もうその時はその時だ。

潔く諦めるしかない。

 

<午後9時>

 

風に冷たさを感じ始める。

何度も体の重心を左右に入れ替えているのだが、足の痛みが酷くなってきた。

止まったままでいるのが原因だと考えたので、人がいなくなるタイミングを見計らい、その場をグルグルと回るようになる。

 

<午後9時40分辺り>

 

スーツを着た中年の男に「あんまし変な気を起こすなよ」と声をかけられる。

お酒の匂いがしたので、酔っていると思われるが、態度はいたってまともだった。

彼には俺がどんな風に映っていたのだろう。

 

<午後9時55分辺り>

 

若い女の人が、俺がいる中央の窪みへやってきた。

黒いコートを着た女の人。知り合いではない。

「ちょっといいですか」と言われた時は、どうして良いか分からず、体が硬直した。

その人は俺の真横に立ち、スマートフォンを西側の高台にあるマンション群へ向けた。

何度もアングルを変え、写真を撮っている彼女に、変に意識をした自分が気不味くて堪らなくなり、本日2度目のトイレへ向かう。

店に入るとちょうどレジを打ち終わったサキヤマさんが俺を見て、とても不思議そうな顔をした。

「また、うんこ?」と尋ねる彼女を無視し、今回も秒速で用を済ませ早足で出てくる。

「ねぇ、さっきから何やってるの?」と不審がる彼女の矛先を変える為、「まだ上がらないの?」と店の時計を指す。すると彼女は「混んだから30分残業だって菓子パンティーチャーに言われた」と悪態をついた。

菓子パンティーチャー、菓子パンのうんちくを話すと止まらなくなる、バイト先の店長の事だ。

サキヤマさんと少し話し込んでしまい、ここで約10分失う。

体の疲れの為か、この時間のすれ違いはやむなし、という考えを頭がすんなり受け入れる。

 

<午後10時20分辺り>

 

本日唯一の水分である、ほうじ茶が底をつく。

先ほど2回目のトイレの時に、何も買わなかった自分の浅はかさを恨む。

月がとても綺麗で、しばし見とれる。

この頃になると、誰かが来て欲しい気持ちと、このまま誰も来なくて良いのかもしれないという気持ちが半々になる。

これが例え手の込んだいたずらだとしても、俺がこうしてこの場所に何時間も立っているのが、自分の出した答えだからだ。

 

<午後10時40分過ぎ>

 

バイト帰りのサキヤマさんが橋に現れる。

4時からスタートだったらしく、「疲れて、お腹減った」と何度も口に出した。

予定外の残業を頼んだ菓子パンティーチャーの事がどうしても気に触るらしく、「菓子パンメガネヤロー、時間配分、何も分かってねー」とあだ名を変更して文句を言った。

 

<午後10時50分>

 

サキヤマさんが帰る気配はない。

店長の話は終わったが、徳島に関しての質問をいくつか尋ねてきた。

ここに残って話すのは楽しいが、今夜、つまり最後の水曜日が終わるまで、あと約1時間に迫っている。

正直、最後の瞬間は一人で待ちたいという思いが心に浮かぶ。

 

<午後11時>

 

サキヤマさんの電話が鳴る。

「家からじゃないの?」と彼女に問いかけると、「アラームだよ」と短いため息をついた。

 

 

「アラームだよ」

サキヤマさんは、諦めるような短いため息をつき、下を向いた。

 

「アラーム? こんな時間に?」

今は午後11時ジャスト。起きる時間でも何でもないはずだ。

 

「アオバ、全然ダメ。これ、全く想像通りじゃない」

「ん? さっきの徳島の観光名所の話?」

「アオバ、あんた、ものすっごくピンとこないよね。私、何度もシミュレーションしたけど、こんな結果は予想してないよ。ねー、どうすればいいの? 何も考えてない!」

「ちょっと、さっきから何の話だよ! 全然話が見えてこないよ」

「私が言おうと思ってた第一声は、『気付くのが遅いよ』なの。アオバが11時にこの橋に来てて、バイト帰りにメイクを直して、心も落ち着いた状態の私がそこに現れる予定だったのにー。バイトは延びるは、本人はチラチラトイレ借りに来るは、挙げ句の果てに、何の事かも気づいてないはで、もー全然ダメ」

 

背中が急に熱くなり、体が棒のようになる。

サキヤマさんの背中越しに見えるオレンジが、やけに明るくて気になる。

 

俺は急いでスボンの後ろポケットに手を入れ、四つ折りにしていたコピー用紙を広げた。

 

茜橋で待ってます

今夜、7と共にいた数字の時に

茜橋で待ってます

 

「エミちゃんに来て欲しかった?」

 

サキヤマさんは、見た事もない顔をしてそう言った。

 

「何だか分からない意味深なメッセージ。アオバ、よく本読んでるから、こういうの好きかなーって思って。色々考えたんだけど、やっぱり何にも浮かばなくてさ。だからもういいやって思って、一番シンプルなやつを入れたの」

 

言葉が上手く口から出ない。

サキヤマさんは、とても強い目をしている。

 

「脈はないかもって思ってた。エミちゃん、良い子だしね。だから、これに賭けた。私、ズルイから、これでアオバが現れなかったら、何にも言わないつもりだったんだ。もし来なかったら縁がないんだって、そう思うつもりだった。毎週水曜日、私が10時に終わる日で、アオバのバイトがない日。手紙を入れてから、バイト終わりに毎回メイク直して色々と準備してたんだけど、アオバは全然現れないし。そしたら段々、焦ってきちゃって。これが最後の水曜日、アオバは来週の月曜に行っちゃうって思ったら、どうするべきか分からなくて、ずっと考えてた。そしたら今日、アオバが橋にいた。でも、今日に限って残業入ってメイクも直せてないし、髪もボザボザだし、どうしよう」

 

「ごめん。見てわかると思うけど、俺、今、凄い動揺してるの。あの、ほら、正直手も震えてるし。あのさ、分からないことが一杯頭に溢れてきてるんだけど、少し質問していいかな?」

俺は手に持っていた紙をサキヤマさんの近くに寄せ、真ん中に書かれている文を指差した。

「この部分、ここ。7と共にいた数字の時、これ全然意味が分からなかった。いや、色々調べたりしたんだ。図書館行って本をたくさん借りたり、自分なりに推理してみたり、出来る限り、とにかく考えた。でも、答えが一向に分からなかったんだ。だから、何度も水曜日のチャンスを逃した。本当は、自分を変えたいって心から思った時から、すぐにでも行きたかった。でも、時間の謎が解けなくて、こんなにギリギリになっちゃって」

 

どうしてだろう、涙が出てくる。

 

「アオバ、私、アオバのそういうところ、本当に好きだよ。真っ直ぐで、一生懸命で、訳わかんなくて、優しいの。覚えてる? バイト始めて少し経ってさ、初めて一緒に帰った時の事、あの時アオバ、頼んでもないのに家まで送ってくれたの。『ちょうどこっちに用があったんだ』って下手な嘘ついて。私の家さ、東側の角だから、送ってくれた後のアオバの姿が部屋から見えたの。用があるって言ってたくせに、すぐ橋まで戻って、しばらく工場の夜景見てたでしょ? それ見てさ、この人は優しい人なんだって思った。それからだよ、アオバの事を意識して見るようになったの。それまでは正直、『いつも本を読んでる簿記検定の人』って印象しかなかったからね」

 

耳が変だった。

今、目の前でサキヤマさんが話してくれているのに、その声が何故かテレビやラジオから発せられる音声のように聞こえる。

頭がパニックになって、まるで何かの映像を見ているような感覚になる。

 

「7と共にいた数字の時って、何だったんですか?」

口から咄嗟に出た敬語。自分の発言を自分でコントロールできていない。

 

「まだ分からないの? 超シンプルなのに。アオバ、顔を左に向けてみて、何が見える?」

「コンビニの看板です」

「そこに何の数字がある?」

「7です」

「ねぇ、ちょっと敬語やめてくれない? 気持ち悪い!」

「ごめんなさい」

「やめてって。それで、その7と共にあったのは?」

「何か、足の長い緑の人が歩いているようなマーク」

「アオバ、確実にバカだよね。それ今の看板でしょ」

「あっ! イレブン! セブンイレブン! えっ! なんだっ、凄い単純! 11だよ! サキヤマさん、11。セブンイレブン! だから11時!」

「いや、分かってるよ。自分で書いたんだから。ねー、超シンプルでしょ!」

 

俺は、ゆっくりと深い呼吸をした。

心のつっかえが取れた事によって、今現在の状況がスゥーッと頭に入ってくる。

 

「全く考えてもいなかった。まさか、サキヤマさんがメッセージを入れてたなんて」

「何か気持ち悪い事して、ごめんね。でも直接、何のクッションも置かないで気持ちを伝えるって考えると、恥ずかしくて恥ずかしくて、絶対無理って思ったから」

「よくウチの場所、分かったね」

「エミちゃんに教えてもらったの。一緒に帰った時に頼んで。理由を説明したら、エミちゃん、一瞬だけ複雑な顔してた。エミちゃんがアオバの事をどう思ってるか分からないけど、私はちゃんと気持ちを伝えたよ。気になってるって。そしたらエミちゃん、アオバがどれだけ優しいかって一生懸命説明してくれてね。それを聞いてたら、もしエミちゃんが相手だったら、私は敵わないかなって思った」

 

「サキヤマさん、ちょっといいですか」

周りの事や、これからの事、そういう思考を全部取っ払って、今、強く思う気持ちを言葉にしようと、そう決めた。

 

「いいけど、何で敬語なの?」

 

「分からない。きっと自分に自信がないからだと思う。でも、どうしても話を聞いて欲しい」

 

「はい。何でしょう」

 

「俺はサキヤマさんの事を、殆ど知らない。正直、サキヤマさんみたいなタイプの人とは、俺なんかが関わる事はないと思ってた。俺は、今までのサキヤマさんを知らない。俺が知っているのは、バイトで一緒になった3ヶ月間のサキヤマさんだけだ。サキヤマさんは、俺とは全く違ったタイプで、強くて誤魔化さない人だ。あの時、言えなかったんだけど、登校日にしてくれた行動を、俺はずっと忘れない。でも、今から言う気持ちは、助けてくれたからとかじゃないんだ。俺は、もっともっとサキヤマさんを知りたい。あなたに興味があります。人として、そして女の人として、興味があります。だから、あの、自分から、言いたいです。いいですか?」

 

「もう、よく分からない敬語も気になりません。どうか聞かせて下さい」

 

「バイトを代わる度に溜めていた約束、あの『何でもするから』って約束がまだ生きてるなら、どうか俺と付き合ってくれませんか? 来週に徳島に行っちゃうけど、距離が遠く離れても、俺と付き合ってくれませんか? もっとたくさん、サキヤマさんの事を知りたい。俺に知るチャンスをくれませんか? お願いします」

 

俺は目をつむり、頭を深く下げた。

 

「調べたんだけど、徳島はそんなに遠くないよ。大丈夫、そんなに離れないよ。一緒にサブちゃんの詩集は読めないかもしれないけど、私をもっとたくさん知ってください。もっともっと、アオバに知ってもらいたいです。よろしくお願いね」

 

暖かくて柔らかい感触が手に触れる。

人の手は暖かい。

 

「バイト代を貯めて、夏に行くからね」

 

南のオレンジ、北の黒、東の賑やかさに、西の静けさ。

 

この街は美しい。

例え、ここを離れていっても、この街は、以前よりも美しい。

 

茜橋で待ってます

今夜、7と共にいた数字の時に

茜橋で待ってます

 

 

あの日、あの水曜日の夜。

7と共にいた数字の時に、茜橋で俺を待っていたものは、生まれた街を美しいと思える、忘れる事のない記憶だった。

 

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(予想を超える長さになってしまいました。読んでくださった方に心からの感謝を送ります)

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