彼が頭を下げた日

同じ団地の2号棟に住む4人、通称「オリジナルフォー」から始まった集まりのメンバーも7人に増え、せっかくなので小学校最後の夏休みに何処かへ行こうと計画したのが、後に恒例行事として続いていく「五厘サマーキャンプ」の始まりだ。

高校1年の夏にキャンプ地が伊豆諸島の新島に固定されるまで色々な場所で行われ、五厘クラブ年表でも外せないイベントになった記念すべき第1回が小学6年の夏に行われたのだが、この1回目がヒドかった。

「サマーキャンプ」なんて聞こえの良い名前は五厘クラブになってからの後付けで、この魔の第1回は、何の計画も立てないまま実行した恐怖の自転車旅行だった。

 

元々は「修学旅行には参加しない」と夏休みの始めに報告してきたリーダーの事を思い、代わりに電車で江ノ島にでも行こうというポップで楽しげな予定だった筈が、決めていた出発日の3日前になって急に気を変えたリーダーが、自転車旅行にしようと言い出した。

なんでもテレビで見た「一輪車少年」の奮闘に感化されたらしい。

「うちのクラスのタカダみたいなゲジゲジ眉毛が一輪車に乗って遠くへ行けるんだ、俺達にだって出来るはず。しかも奴は小4だったぞ」

声を荒げ、熱く語り出したリーダーの話に「それ、オレも見た! すごかったな!」と日焼けで真っ黒なコースケが乗っかってしまい、ツヨシとミスズ、ミスズを無条件に支持するケイゴ、それに反対すると見込んでいたアイカまで賛成し、多数決により話の流れが決まってしまった。

俺は断然、江ノ島に行きたかった。

事情を説明し、母親から交通費と大事な小遣いを貰う際「生しらす丼」がとても美味しいから是非食べなさいと言われていて、俺はその「生しらす丼」というものが食べれることを心底、楽しみにしていたのだ。

目的地を決める段階になり、リーダーは授業中にあまり使っていないであろう新品に近い社会の教科書を持ってきて、日本地図のページを引きちぎり、赤ペンで隣の静岡県に丸をつけた。

「最低でも、ここまで行こう。そんなに遠くないだろう。だって、たったこれっぽっちの距離だぜ」そう言って、人差し指と親指の間に出来た3センチ位の幅を、なぜか誇らし気にメンバー1人1人の顔の前の持っていって見せた。

きっとあの時、アイカとミスズ、それにコースケは「縮図」で示された3センチの距離に俺達が辿り着けないことを確実に理解してと思うのだが、リーダーの「一輪車少年に出来るなら、オレ達にも出来る」という誘い文句に惑わされたのか、誰もその本当の意味を指摘しなかった。

 

出発当日、状況を把握しているアイカとコースケは、しっかりとリュックを持って団地前に集合し、そして何故か距離の意味を分かっていないはずのリーダーが一番大きなボストンバッグを持参して現れた。

何の予備知識もない俺とケイゴの荷物は、タオルやポケットティッシュなどが入ったスーパーの袋を自転車のハンドルに引っ掛けただけのもので、服装も2人揃って軽く、足元はサンダル履きだった。

ツヨシはいつも通り親や爺さんに持たされて、すごい量の荷物で来るのだろうと想像していたが、行き先を誰にも言わずに出てきたらしく、夜道でとても目立ちそうな、黄色の蛍光色をしたウエストポーチを肩に掛けただけの格好で姿を見せた。

約束の8時を過ぎて集合場所の団地公園に来たパジャマ姿のミスズは、泣いた後なのか、目の周りが真っ赤だった。彼女の説明では、借りる予定だった自転車が相手の都合でダメになってしまったらしい。

あの当時、歩く距離ではなくなる中学に行くまで、小学生で自分専用の自転車を持っている子は団地に限らず、それほど多くはなかった。

俺達の中でも、自分のタイミングで自由に自転車を使えたのは、憧れの「6段変速ギア変えモデル」を持っていたツヨシと、姉のおさがりを大事に乗っていたアイカだけだった。

俺とケイゴとコースケは母親の自転車のサドルを極限まで下げて使っており、リーダーは毎度、同じ1階に住むメイコおばさんの物を借りていた。

パジャマ姿のミスズに見送られ、幸か不幸か快晴ですでに暑い団地公園を出発し、2時間ほど走ったトンネルの前のコンビニで俺はもう引き返したくなった。

リーダーが出発前に言った「国道246沿いを、静岡って書いてある標識どおりに真っ直ぐ」が、一体どこまで真っ直ぐなのか見当が付かず、とにかく不安だった。それに、太ももがパンパンに張ってダルい。サイズが合っていない自転車は無駄に肩も凝って、明らかに遠出には適していなかった。

買う予定ではなかったアイスを手に、日陰に座りポカリスエットを飲みながら周りの様子を見てみると、ヘトヘトな自分が情けなく思える程、みんなが元気そうに見えた。

ケイゴとツヨシの自転車のサドルに持参したカリントウを置き、「フレッシュうんち発見」とはやし立て2人に追われて走るアイカを見ていると、ポカリスエットの缶でふくらはぎを冷やしている自分が男として恥ずかしかった。

散々逃げ回ったアイカが今度は標的を変え、茶色のカリントウを笑顔で俺のサドルに乗せたとき「やるっきゃない」という訳の分からない感情が自分の中で湧き上がり、捕まるはずのないアイカを追いに日陰を飛び出した。

一輪車少年への挑戦よりも「アイカに負けたくない」という男としての意地の痩せ我慢で、その後どんなに辛くともクタクタな自分を表に出すとこはなかったが、結果を言うと俺達は静岡県に辿り着けず、合計6時間と少しを費やし、南足柄市まで来てツヨシの涙と共にギブアップした。

 

相模川を越えた辺りから遅れをとっていたツヨシの6段ギアが完全に止まったのは、午後1時を過ぎたところだった。

本人が何も言わないので、ただ単に鉛筆のようにヒョロヒョロなツヨシの疲れがピークに達しただけだと思い、少し休憩を取ってまた走り出したのだが、それから1時間くらい経った後に、今度は自転車から降り、股の付近を押さえて道端にうずくまってしまった。

俺は疲れてイライラしていた。

「静岡」と書かれた標識の距離が近づく程、今来た道を帰る距離が頭に浮かんだ。こんな所で余計な時間をかけず、早いとこ目的地に辿り着いてすぐにでも引き返したかった。

座り込んでいるツヨシの元に全員で引き返すと、ツヨシは泣いていた。

「少し休んだらいけるか?」

心配そうに聞くコースケに、ツヨシは「痛い」とくぐもった声で答え、首を横に振った。

「どこが痛いんだ? 足? 太もも? ふくらはぎ?」

矢継ぎ早に質問を投げかけるリーダーに対し、黙ったままのツヨシは、口を開く代わりにズボンを脱いで白いブリーフ姿になった。

急に目の前に現れた理解不能な光景に皆とまどっていると、ケイゴが大きな声で「血だ! 血が出てる!」とブリーフを指差した。

ケイゴの言う通り、よく見るとツヨシの白いブリーフの左足の付け根部分が赤く滲んでいた。

泣き止んだツヨシから事情を聞くと、はじめのトンネルを過ぎた後から漕ぐたびに股が擦れて痒くなり、進むにつれてヒドくなったので我慢できずに直接爪を立てて引っ掻いたところ、急に激痛を感じペダルを踏めなくなってしまったらしい。

血に染まった白いブリーフを目の当たりにして、俺のイライラは一気に吹っ飛んだ。

面を食らったのは周りのメンバーも同じようで、皆、この事態にどう対処してよいのか分からずにツヨシを取り囲むようにして立ち尽くしていた。

「だいじょうぶだぁ」

しばらくその場に沈黙が続いた後、突然耳に入ってきたのは、志村けんのあのセリフだった。

反射的に振り向くと、輪の外にいたリーダーは持っていたボストンバッグを「ポンポン」と叩き、笑顔を見せた。

この緊迫した状況で志村けんが出てきたのにもビックリしたが、もっと驚いたのは彼の準備の良さだった。

リーダーは、アスファルトの上に置いた大きなバッグから消毒液とバンドエイドを取り出し、ぎこちない手つきながらも、しっかりと患部を止血した。

普段の彼のイメージから懸け離れた姿がとても意外で、リーダーの一連の動きを凝視していると、その視線に気付いた彼は、得意げにバッグの中の物を次々と取り出し、座っているツヨシの前に綺麗に整列させた。

そこに並べられたのは古めかしい応急処置キット。頭痛薬に正露丸、マスクに湿布、それにタイガーバームまであった。年季の入ったリーダー自慢の品々を眺めていると、川崎に住むおばあちゃんの家の焦げ茶色をした薬箱を思い出した。

「家にあったのを全部持ってきたから、何があっても、だいじょうぶだぁ」

あくまで志村けんのフレーズにこだわるリーダーに用意周到な訳を尋ねると「一輪車少年のリュックに入ってたから」という答えが返ってきた。

一体どれだけ一輪車少年はリーダーに影響を与えたのだろう。でもそのテレビ番組のお陰でこのハプニングを切り抜けられたのだから、まさに一輪車少年様様だ。

 

標識に出ていた距離によると、目的の静岡県はもう少しのはずなのだが、ツヨシがこんな状態では先へ進めない。

幸いにも近くにスーパーがあったのでそこまで行き、コースケが公衆電話でツヨシの家に電話をし、対応した爺さんに事情を説明して、車で迎えに来てもらうように頼んだ。

「もしかしたら、もう俺ら静岡に着いてるのかもしんねーぞ」

ツヨシの爺さんを待っている間、タオルで額の汗を拭いながらリーダーが独り言のように呟いた。

気持ちは分かる。

あれだけ時間をかけて自転車を漕いだのだから、ここが静岡県でも何もおかしくはない。

「まだ、ここは神奈川だよ」そう諭すアイカを無視し、「店に入って聞いてくる」と言い残してヨタヨタとリーダーは歩き出した。

確率的には圧倒的にアイカが正しいのだと頭では分かっていても「こんなに走ってきたんだ」という俺の体自身がリーダーの言葉を支持していた。

店から出てきたリーダーは、入って行った時よりもさらに遅いスピードで戻ってきた。

「ここ、静岡じゃねぇ。アイカの言う通り、まだ神奈川。ミナミアシガラってとこだ。静岡県に入るまで、ここから自転車では2時間位かかるって。あ、しかもこの後、山道だって」

公衆電話の脇の階段に座っていたメンバーの内の何人が、あの時点で先に進む意志を持っていたのかは分からなかったが、リーダーが見るからに意気消沈した顔で教えてくれた話の中の「2時間」及び「山道」という単語を聞いて、みんなの気持ちが「帰宅」という二文字に固まったのは分かった。

俺達が約6時間かけた道のりを、ツヨシの爺さんはたった1時間15分程でやってきた。間に何度か休憩を入れていたとはいえ、この明白な結果の違いは、すぐには受け入れられない事実だった。

「ツヨシが迷惑をかけて、すまなかった」深く頭を下げた爺さんが運転する白い軽トラックが走り去るのを見送ってから、リーダーは唯一腕時計を持っているアイカに時間を聞いた。

「もうすぐ4時」そう報告を受けたリーダーは、ボストンバッグから黒飴を出して全員に配り、かしこまって皆の前に立った。

「静岡は遠い。俺がいけなかった。帰ろう」

真面目な顔をしてこちらを見たリーダーは、ツヨシの爺さんがしたように俺達に頭を下げた。

それは、俺が覚えている限り、出会ってから初めて目にする彼の謝罪だった。

 

日焼けした肌の痛みと肩の凝り、足の付け根からつま先までヒドく重くて自分の物じゃないような感覚になっていたが、俺は必死に自転車を漕いだ。

まるで永遠にペダルを踏む機械になったように一定のリズムで足を回転し続け、2回取ったトイレ休憩の間以外は、みんな何も会話をせず、ただひたすら帰りを急いだ。

全身を覆う疲労と、日が落ちた後の暗闇が作り出す不安が、一刻も早く見慣れている風景に辿り着きたい気持ちに拍車をかけた。

真っ暗の中、俺達が団地の入り口に着いた頃には、アイカの腕時計は午後9時40分を回っていた。帰りたい思いがスピードを速めたのか、行きよりも少し短い時間で何とか帰還を果たした。

「一輪車少年はバケモンだった。もう、絶対に自転車で遠くに行くのは止めような」

解散の際にリーダーが見せた引きつり笑顔を最後に、五厘クラブの第1回サマーキャンプとクラブ史上、最初で最後の自転車旅行は幕を閉じた。

 

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(小説の本編には入らないストーリー。この話も、その内の1つです。読んでいただけたら、嬉しいです)

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