どうか、仮面は付けたままで

プライベートとパブリックの境界線。

決して、うやむやにしてはいけない大事なライン。

 

仮面を付けて社会を生きる。

作り込んだソトヅラは、出会う人への思いやりだ。

お外は、あなたの家ではない。

だから、どうか仮面を外さないで。

 

毎日みんなが、それぞれの場所で、それぞれの役割を演じている。

それは何も働いている側だけの話ではない。受け取る側だって同じこと。

客が客というを役割を放棄した瞬間に、ホスピタリティー産業は崩壊する。

お互いの間にあった不文律が崩れ去った後には、「客 ー 従業員」という社会的関係はすたれ、「客 ー 従者」という主従関係が残る。

店員に土下座を迫る客がいい例だ。

 

「お客様は神様です」

真意はともかく、自分が子供の頃はまだ日常に浸透し、生きていた言葉。

今でも、そのフレーズは存在しているのだろうか。

もしそうならば、泣きそうな気持になる。

人に土下座を強要する神様なんかいるわけがない。

どんな職業に就いていようと、労働者である前に一人の人間。そこにいかなる理由があろうとも、客が従業員に土下座を強いてはならない。

自分たちが土下座をする相手は、客ではなく嫁だと相場が決まっているはずだ。

人が人の心を折ってはダメだ。

そんな悲しい行為は、この世から一生消えてなくなればいい。

 

個性が溢れる時代。

テクノロジーの恩恵に預かり、思ったことを何でも発信できる世代。

ウチヅラとソトヅラの区別がつきにくい今だからこそ、どうか、仮面は付けたままでいて。

オリジナリティーを追求するのと傍若無人に振る舞うのは、イコールではない。

生きることは、確かにアートだ。

でも、芸術はあなたに涙を流させるけど、あなたを傷つけて泣かせたりはしない。少なくとも、自分はそう思っている。

 

人は時に凶暴だから、仮面は付けたままで。

性善説と性悪説、自分が見てきた世界では両方が同じくらいに溢れていた。

人は人を無条件で助けたいと思っている反面、理由もなく苦しめたいと考えている。

弱肉強食、集団心理。これらはやはり、ずっと昔から遺伝として細胞に組み込まれているのかもしれない。

 

皆で罪人に石をぶつけて殺す。

集団でギロチン処刑を見学する。

魔女という名の人を吊るし、囲んで燃やす。

色が違うという名目で黒人を迫害し、殺害する。

私利私欲の為に先住民をバイソンのように撃ち殺す。

 

興奮して目を見開き、口は半開き。

瞳孔が変だ。

自分が対峙してきたその表情は、何世紀も前から変わっていないのかもしれない。

その場の熱に飲み込まれる。

目に見えないが「そこ」にある狂気によって、自分たちの性悪な部分を刺激され、我を失くしてしまうのか。

 

仮面は理性で出来ている。

そして、その理性には知識と思いやりも含まれている。

人を食ってしまう狂気に対抗できるのは、その理性の仮面であると自分は強く信じている。

f:id:yoshitakaoka:20170103192708j:plain

(デフェリンアイランドにある小川。ここで仮面をジャブジャブ洗って清めます)

© Copyright 2016 - 2017 想像は終わらない : 高岡ヨシ All Rights Reserved.