誰もいないグラウンドを見ていた

忘れてしまっても、なくなってはいない。

姿が見えなくても、変わらずそこに居続ける。

 

記憶は不思議です。

日常生活の中で、しょっちゅう呼び出される「1軍」の記憶と、長いこと登場機会のない「3軍」の記憶。

活躍頻度の違いはあれど、どちらも老け込むことはなく同じ脳内に生息しています。

便宜上「3軍」と書いた記憶も、実力は「1軍」に引けを取りません。ただ監督である自分の好みのせいで活躍するチャンスを狭められているだけです。まるで栄京学園のキャッチャー小倉(あだち先生著 H2)のように。

正直、すまない。

 

残念ながらもう終わってしまいましたが、少しの間とった有休中に頭の中の棚卸しをしました。

時間に余裕がある時のみ出来るワークです。

脳みそ倉庫の随分奥にしまい込んである、大量の記憶たちを無理やり引っ張り出し、「過去にあった出来事だけのメモリー」と「これから先、生きていく中で何かしらのヒントになりそうなツール」に分けていく作業。

けっこう時間が掛かる上に、随分と熟成されて扱いの困る大御所になったメモリーズとコンニチワすることもありますが、思わぬ発見があったり、普段なにげなく受け入れていた物の裏にある思いを知るきっかけになったりと、意外に役立ちます。

今回、埃をかぶったブレインストックをひっくり返し、ただひたすら思い出せる限り記憶の底へと潜っていった先に見つけた欠片は「子供」という存在に対して、自分がとっているスタンスの意味でした。

 

自分は嫁と結婚して10年が過ぎますが、2人の間に子供はいません。

 

自分は子供を持つことに、それほど積極的ではありません。というか、どちらかというと消極的です。

絶対に欲しくない、というわけではないのですが、子供がいる人生が全てだとは思いません。

因みに、嫁も自分と似たような考えなので、結婚後「子供」というトピックに関して深く真剣に向き合ったことはありませんでした。

それは、なぜ自分が子供を持つことにこれほど消極的なのか、ということについても同じです。

 

休み中、時間をかけて頭を整理した際に蘇ったいくつかの「3軍」記憶。殆ど手をつけられずに壺の中にいたその多くが、子供時代のモノでした。

懐かしくも複雑な気分になるそれらの場面をゆっくりと振り返っていく内に、自分が漠然と抱えていた「子供に対して積極的ではない立ち位置」の裏付けが取れていきました。

 

  • 何でも出来る年子の姉の影響で、物心が付いた時から劣等感チャイルド。
  • 「お姉ちゃんは出来るのにねぇ」というイオナズン。
  • 世間デビュー後も付きまとってくる「何をしても劣っている」幻想。
  • 下手だから申し訳ないと思い、ファミコンの時間はコントローラーを握る友達の応援専門。
  • 頼まれてもいないのに差し出した「上下関係」という年貢米。
  • 親や周りの顔色を見るのが重要なことだと悟り、誕生日に欲しかったタミヤのRCカーの名前は出さず、空気を読んで「チョロQが欲しい」と懇願。
  • 冗談があまり通じず、「お前を置いていくから」と言われた言葉を真に受けて、隣町のデパートから2時間かけて徒歩で帰宅。
  • お祭りなどで、流行っていない屋台を見ると居た堪れなくなり、欲しくもないベビーカステラを貴重な資金で購入。
  • 親が近くで手を動かすと、頭や顔を隠す動作が癖付いてしまい、そのことでまた怒られるのを避ける為、ビクッとしないイメージ練習。
  • 嫌いなトマトを食べると褒められるため、憂鬱な気持ちで「トマトが大好き」とうそぶくシニカル三白眼。

 

可愛げがない。つまらない。全くもって、ピュアじゃない。

思い出す子供時代(物心 〜 低学年)の記憶はそんなものばかり。足りない頭を活発に動かして、家の中での居場所確保に精を出していました。

例えを挙げだしたらキリがありませんが、極めて面白みのない子供で、ガキのくせにバカみたいに気を使う日々。あの頃、ストレスが溜まると家族の絵を広告の裏に描き、それをメッタメタに鉛筆で突き刺していました。

詳しく思い返すと、この時点でアウト。もうダメです。ナム三、ブラックジャック。

こんな子供、見たくない。考えたくない。欲しくない。

心に湧き上がる感情はそういったものばかり。

もちろん無関心を避け、しっかりと気持ちを持って接すれば結果は違うと思いますし、兄弟を望まなければ非現実ハイスペックな年子の姉は登場しません。

そもそも自分の過去を、好き好んで子供に投影する必要はないのです。

ただ頭では分かっていても「もし、子供をもったら」を具体的にイメージすると、自信なさげに薄ら笑いする三白眼の男の子が出てきてしまいます。

恐ろしい。

ちなみに、自分が小さい頃に夢見た職業は、野球の審判でした。選手ではなく、審判。

理由は、ゴム野球での定位置だった球審のやり方を褒められて嬉しかったからです。

限りなく後ろ向きな動機で嫌になります。

 

そんな自分ですが、小学3年の時に野球部に入ります。その時いつも遊んでいたメンバーが全員入部したのが理由で、野球をプレーすることへの情熱ではありません。

主体性はもちろん、ゼロ。種目に対する愛着も、ゼロ。

目も当てられないスタートでしたが、いざ始めてみると、意外にも楽しめました。

自分たちを指導してくれた監督が素晴らしかったのです。

ウチの監督は学校の先生ではなく、近所に住むテレビドラマの脚本を製作している、あご髭を生やしたおじさんでした。その人の自分たちに対する接し方がパーフェクトで、上手い下手関係なく部員一人一人をしっかりと見てくれて、直さなくてはいけない点よりも、その子の持っている良い点をたくさん伝えて、伸ばしてくれました。

例えば、自分はバットの構え方が独特だったのですが、監督はそれを直させることはなく、「近鉄のブライアントみたいでカッコいいじゃん!」と褒めてくれました。

本当に素晴らしい指導者でした。

そんなこんなで始めた動機に反して、充実したクラブ生活を送れたのですが、どうしても嫌なことが一つありました。

それは、小学校以外の場所で試合や練習がある日の行きと帰りの時間でした。

 

自分たちの学校で試合や練習がある日はまだしも、会場が相手の小学校や、僻地にある市営グラウンドの場合、距離が遠くて自力では辿り着けません。ですので生徒たちは通常、親に送り迎えしてもらうのですが、日曜ならまだしも、土曜だと父親は仕事なので車を出せません。なので、そんな時は近くに住む部員の親にお願いすることになります。

当時、自分がよく頼んでいたのが近所の幼馴染みのおばさんなのですが、そのおばさん、ウチの母親と犬猿の仲でした。

理由はお互いの子供の出来についての言い合い、そして噂の飛ばし合い。この場合の「子供」は、もちろん自分のことではなく、ナンデモデキルンの姉です。その幼馴染みにも年子の兄がいて、自分の姉に似て優秀でした。

そのおばさんにとって、自分は大っ嫌いな女の子供。良い感情があるわけありません。

(後にそのおばさんは、幼馴染みに『自分と関わったり口をきいたりするな』との御触れを出しました。大人って面倒です)

しかし、いくら嫌いだとはいっても周りの目があるので自分の頼みを断るわけにはいきません。

そのおばさん、憎い女の子供を車に乗せるのがさぞかし嫌だったことでしょう。

送ってもらう間、自分がその車内にいないように振る舞うのです。

つまり、無視です。それも、徹底的に。

何か言っても、無視。

お礼を言っても、無視。

幼馴染みが自分に何か話そうとすると、それを遮ります。

その車に乗っている間、自分は完全にいない存在です。

「いてはいけないのに、ここにいる」緊張で手に汗をかき、胃がキツキツしました。

さすがに嫌です。顔色を見る見ない以前の問題です。

 

そんな状態が何とも辛くなったので、行きだけはどうにか我慢をしてそのおばさんにお願いし、帰りは父親に無理を聞いてもらい、遠くの小学校やグラウンドを使用する時限定で、仕事を抜け出し迎えに来てもらうようになりました。

ありがたいことです。

ありがたいことなのですが、ここで1つ問題が。

ウチの車は赤の軽ワゴンだったのですが、車体のサイドがひどく錆びていて、その部分を赤いガムテープで塞いでいました。

普段はそれが当たり前で、気にしたことはなかったのですが、初めて作業着を着た父親が迎えに来てくれた時に、皆に「貧乏車」と笑われたのです。

人一倍人の目を気にしていた幼少期の自分は、それが恥ずかしくて仕方がありませんでした。

家は小さく内装は砂壁でしたが、貧乏ではありません。

色々とありましたが、こうして迎えにも来てくれたので、十分恵まれているのです。

でも、当時は、どうしても嫌でした。

その解決策として、自分は父親に迎えに来てもらう時間を1時間ほど遅らせて伝えていました。そうすることで誰も赤いガムテープ車を目にすることはないのです。

人が1人減り、2人減り、そして誰もいなくなるグラウンド。

やけにだだっ広いのが居心地悪かったので、いつも隅へ行って父親を待っていました。

誰もいないグラウンドは静かで不安でしたが、いつも独り占めに似た特別感がありました。

自分はよくそこに横たわり、顔と地面を水平にさせて見る世界が好きでした。普段は平らに見えるグラウンドも、そうして見ると非常にゴツゴツしててボコボコで、映画やテレビで見る月面のように感じ、異星にいるみたいでした。

 

この時の風景は印象的で「3軍」の記憶ではなく、ずっと昔から「1軍」の記憶カテゴリーに在籍していました。ただ、今回「子供を持ったら」という視点でこの思いを回想することになった時に、今まで自分が持っていたポジティブな意味合いでその場面を見ることが出来ませんでした。

自分は、そこで待っている子供を迎えに行きたくない。

気を使いみんなに嘘をついて、ワザと1時間遅らせた時刻を伝えた子供を、どんな気持ちで迎えに行っていいか分からない。

 

きっと小さいうちは親の愛情でカバーできると思います。

一生懸命、愛して、見つめて、伝えて。

でも、その後に待ち構える世界に、親という立場でどう接すればいいか分かりません。

陰湿なマインドゲームの果てにある、終わりの見えない暴力に、裏切り。

自尊心をシュレッダーで削られた子供に、何と声を掛ければいいのでしょうか。

どうしたって、自分の経験の中で見つけたやり方でしかイメージが湧かない。

自分の子供には、17歳で十二指腸潰瘍になって吐血して欲しくない。

絶対に、嫌だ。

 

嫁も自分と同じような経験があります。

以前、もし仮に子供がいて、その子が自分たちと同じような被害を受けたら、というような話をした時、二人の考えは「覚悟を決めて、金属バットと文化包丁」となりました。東野圭吾の「さまよう刃」と何ら変わりない発想です。

でも、それではただの暴力の繰り返し。憎しみの連鎖を続けるだけです。

でも、分からない。そう考えると、どうしていいか今の自分には分からない。

自分は仲間と嫁に出会えたから、ここまで来ることが出来ました。

あの日の小田急線、クマだらけの自分に仲間が声を掛けてくれたことで救われた人生。

自分はとても恵まれています。

 

I am God's child

この腐敗した世界に堕とされた

How do I live on such a field?

こんなもののために生まれたんじゃない

 

鬼束ちひろ「月光」です。

あの頃の気持ちを振り返ると、浮かぶ歌詞。

自分はカナダの移民学校で出会った難民、及び、政治亡命の方々みたいに、戦争を経験したり目の前で何人もの人が殺されるのを見たり、友人や親族がギャングに殺されたりした経験はありません。それに、親に捨てられたり、長い間虐待されていた訳でもありません。

とりたて裕福ではありませんでしたが、衣食住に困ることなく幼少期を過ごすことが出来ました。それがどんなに有難く恵まれていることか、今は分かります。

 

「子供」という今までは余り思考になかった事柄を通して追体験した自分の子供の頃の記憶。

長い時間をかけて頭の棚卸しをして分かったことは、自分が受けた過去を許し、消化して受け入れなければ、己のDNAを持った存在を受け入れることは出来ないのであろうという大まかな感情です。

今ある全てに感謝します。

 

長い文を読んでいただき、ありがとうございました。

 

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(アルゴンキン公園近くの湖。夕日が湖面に線を引きます)

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