2月14日、カナダでは今日がバレンタインデーでした。
この日は大好きなチョコレートの日であると同時に、自分たちの結婚記念日でもあります。
同じ名字になってから11年目の記念日、自分は今年も仕事でした。
籍を入れる時、忘れないようにと分かりやすい日を選んだのですが、こちらに来て2人ともホスピタリティ業界に就職したこともあり、このアニバーサリーを満足に祝えていない状態が続いています。
嫁さん、正直すまない。
カナダでは(きっと、他の英語圏の国々でも)夫婦間のバランスを表す決まり文句に:
「Happy wife, Happy life (嫁が幸せなら、自分の人生も幸せ)」というフレーズがあります。
あくまで個人的な見解ですが、自分はこの慣用句に白旗を上げて100%同意します。
結婚して、今年で11年。
タイトルにもある通り、自分は嫁に、全く頭が上がりません。
今ここで「嫁」なんて気安く言ってますが実際の心情的には嫁さん、いや、嫁様です。
上の一文を冷静に見ると、ドMさんが書いているイメージしか湧きませんが、自分は決して、Mさんグループに属している訳ではありません。
では、なぜ自分が「嫁様」などという言葉を用いたのかは、以下の「夫婦間のパワーバランス推移」を見ていただければ分かってもらえると思います。
嫁と一緒になって11年、そしてカナダに移住してからも、同じく11年が経ちます。
つまり自分は、こちらに来るホンの少し前に、彼女と籍を入れました。
出会って半年で決意した結婚。
ちなみに婚姻届を出した時点のパワーバランスは、「50:50」のイーブンです。
結婚してすぐ、自分は嫁に背中を押され、以前記事で書いた小学校へ1年間の任期で赴任しました。
ここでの仕事はボランティア。給料は出ません。
まだこの時は移住するとは決めておらず、尚且つ、帰国してからのプランはありませんでした。
今、振り返ると、完全な暴走行為です。
結婚して2ヶ月しか経っていないのに、自分の背中を押す嫁も嫁ですが、行く方も行く方です。
ということで、自分の無謀な選択にも関わらず、この時点での力関係も奇跡の「50:50」キープです。
赴任地であるストラットフォードでは、当初、同僚の先生の家に住んでいましたが、学校が夏休みに入り、「こんな経験は、もう二度と出来ないかもしれないから、自分が居る間に生活しにきなよ」と、金もないのに一丁前に嫁に声をかけて呼び寄せてからは、その先生が所有するアンティークハウスに二人で住まわせてもらう事になりました。
街の中央を流れる大きな川沿いにある、アンティークハウス。
こう、文章に書くと何とも素晴らしい響きなのですが、そのドリームハウスは、何と現在進行形で改装中でした。
しかも、その直し具合が半端なく、アンティークハウスの名に恥じぬ、築80年はいっているのではないか、と思われしき建物を「リホーム」などという言葉が泣いて逃げ出すほど分解して「リビルド」していました。
その上、アンビリーバボーなことに、その改装は業者がやってるのではなく、同僚の先生の旦那さんが彼の弟と二人で仲睦まじくスローなペースで作業していたのです。
全く、終わりが見えない。
というか、絶対、終わらない。
つまり、玄関あけたら、「柱もねぇ、壁もねぇ、床板まともにハマってねぇ」という、リアル吉幾三ワールドでした。
そんな訳ですから、もちろん室内は「テレビもねぇ、ラジオもねぇ、インターネットは何者だぁ?」となっており、とても21世紀とは思えない新婚生活を、そこで送る事となりました。
(ネットは後で先生の旦那さんが「隣の家の無線LANを拝借」という荒技を無断で実行し、供給される事になります)
大きな家だったんです。
今までの人生で目にした事が無い程の大きな家だったのですが、1階、3階全域、及び屋根裏、地下の簡易キッチンを除く全てが改装のため使用不可で、唯一、残された2階が、自分たちの居住スペースとなりました。
当時、非常に少ないながらも家賃を払っていたので、この状況に文句を言う事も出来たのでしょうが、他にツテもアテもない上、1年目で英語に自信がない自分は「文句を言わない日本人」を見事に演じきってしまいました。
自分の体たらくと、幾三ハウスでの居住に嫁の不満が一気に上がり(当然です)、ここで初めてパワーバランスが動き、「60:40」になりました(もちろん、60が嫁です)。
この当時の記憶は、以後、何度も振り返る事になるのですが、思い出すたびに、嫁に対して「大変、すみませんでした」という思いしか浮かばなくなります。
決して、日本で裕福な暮らしをしてきた訳ではないのですが、あの1年間の生活は、文字通りきつきつな毎日を繰り返していました。
書き出すと、とても長くなってしまうので省きますが、1つ例えるならば、二人の初めての結婚記念日のディナーは、ウエンディーズ(日本にあるのかは分からないのですが、マクドナルドと同じファーストフード店です)のハンバーガーセットでした。
あの時、「今日は贅沢したね」なんて言わせてしまい、本当に、申し訳ございませんでした。
そんな状態で過ごした1年間(彼女にとっては約7ヶ月)が終わると、夫婦間のバランスは、「70:30」になっておりました。
もちろん、異存はございません。
自分が好きで来て、思い付きで長期間、呼び出してしまったのですから。
さて任期が終わり、「幾三ハウスよ、さらば」という時に、今度は自分が「カナダへ移住したい」と言い出しました。
大変、自分勝手です。
でも、ここに賭けたかったんです。
貧乏はしたけど、この1年間のインターンで、物凄い収穫がありました。
情熱を注げば注ぐほど、成果として現れる。
授業にしても、英語にしても、自分が打ち込んだ分だけ、伸びて、そして周りが結果を評価してくれる。
自分が何者だった、なんて関係なく、自分が打ち出した結果を、皆が見てくれる。
この社会で、生きていきたい。
その思いは日に日に強くなっていきました。
嫁は「ご飯を食べさせてくれるなら、どこでもいいよ」と言ってくれました。
神です。
パワーバランス「80:20」確定です。
でも、そんなのバッチこいでした。
彼女は日本で、しっかりとした学歴も職歴もあって、失うものがない自分とは状況が圧倒的に違っていました。
嫁は、自分に人生をくれました。
自分には出来ません。
彼女は、とても強い人です。
うまく言えないのですが、嫁は、いつも違う場所にいました。
以前、付き合っていた彼氏が事故で亡くなってしまった影響からか、彼女はいつも「生と死」を深く考えながら生きてました。
夏休みに自分を訪ねてこちらに住むようになってから少しして、彼女は持っているビザで無料になる、子宮がんの定期検査を受けました。
「年が年だから、一応ね」彼女はそう言っていましたが、結果は「陽性」でした。
英語も満足に喋れず、周りに家族も知り合いもいない、異国の地で受けた結果。
その後、何度か検査を受け直しましたが、結果は同じです。
ビザで医療費がまかなえるという事で、彼女は最初の手術をこの地ですることを決心しました。
手術といっても一番初めに行われたのは、全身麻酔もかけないもので、自分も側にいれました。
話せる人が自分しかいない国で、ベットに横になる嫁。
手を握ったら、泣きそうな顔をしましたが、泣きませんでした。
しばらく時が流れ、何度か術後の検査をパスしましたが、また引っかかってしまいました。
今度はオンタリオ州で一番大きい、がんセンターです。
そして、今回の手術は全身麻酔をかけられるようでした。
「私がちゃんと目を覚ますように、祈ってて」なんて言うものだから、色々なことがイメージできて泣けてきました。
自分に彼女が以前経験したような「喪失」を受け止められる覚悟も度量もありません。
自分に出来ることは、祈る事と、亡くなってしまった彼氏に、嫁を守ってください、と必死にお願いする事でした。
手術が終わって目を覚ました嫁は、「甘いものが食べたい」と言いました。
彼女は、本当に強い人なのです。
嫁は自分の過去にあるものを全て受け入れてくれた、初めての女性でした。
やられ方や暴力の差は違えど、彼女も随分長い間自分と同じような経験をしていて、そしてそういったものとずっと戦ってきた人でした。
この人と一緒に人生を変えたい、この人と一緒に先を見て見たい。
彼女の中にある強さに触れて、自分は一緒になる決意をしました。
嫁は手術の事があった後でも、「この地で自分と生きていく」と言ってくれました。
彼女は、人生をくれました。
その対価として、一生「100:0」でも構わないと、嫁がくれた言葉の意味を噛みしめました。
こちらに来てから、何をするにも、どこに行くにも2人でした。
最初の1年、英語が上手く話せず、心ない人に馬鹿にされ、幼稚園児のように扱われても、2人でいれたから、何てことはありませんでした。
カナダに残れる道を模索して、ほぼ一文無しで引っ越した時も、嫁がいたから心配ありませんでした。
生きていくため、毎日、長時間働く期間がありましたが、とにかく先が楽しみでした。
お金貯めて、カレッジ行って、仕事と勉強の両立がキツかったけど、2人だから、何とかやってこれました。
嫁は移民後に、学校を2つ出て、今はカナダで一番に選ばれたスパで働いています。
自分の限界を、いつも簡単に壊してくれた嫁。
「情けないね、あんたの実力、そんなもんなの?」
そう言われ、悔しくて、自分の思い込みを破ってきた。
もう道がないと思えた時も、そんなもの自分で作ればいいと言い放った嫁。
生きていてくれて、本当によかった。
彼女は嫁であり、家族であり、一緒に生き抜いてきた戦友であり、親友で、恩人なのです。
「Happy wife, Happy life」
バレンタインの朝、自分の机の上に置いてあったブルボンアルフォート。
自分にとっては、どんな手作りチョコレートよりも意味のある宝物でした。
(ストラットフォード時代の散歩道。物凄く寒かったけど、その分、綺麗でした)