友への伝言

思えば不思議な関係だった

普段は口もきかなかった

 

チャイムの合図で狩られる時間

終わりは意味を成さなかった

 

暗い階段の途中に射す光

窓から覗く中庭に射す光

 

同じ校内で息をしても

そこに楽園はなかった

 

お前はいつも下を向いて

指のささくれを取ってた

 

俺はいつでも下を向いて

ただれた皮膚を摩ってた

 

適当に生み出し与えられた

滑稽で汚れたニックネーム

俺たちは3年契約のピエロ

特徴なんていらなかった

 

「どうだった?」

「今日はマシだった」

 

「どうだった?」

「今日はヒドかった」

 

僅かに重なる入れ違いの瞬間

俺たちは中庭を見ていた

 

魂と引き換えに学期を買って

春夏秋冬を過ごした

 

流れる風景と留まる想い

俺はお前を救えなかった

 

裂ける傷口と閉じる瞳

俺は俺をも救えなかった

 

消えずに浮かぶ

放課後のパレット

 

お前もその色を見ているか?

今でもその色を見ているか?

 

俺たちはみんな犯罪者

自分殺しの常習者

 

腫れた悪意を壁に投げつけ

弾けた黒をその身に浴びた

 

俺たちはみんな犯罪者

自分殺しの常習者

 

囲った怒りに飯を食わせて

その身を喰われた木偶の坊

 

仕舞い忘れた激情は

心の残骸と化したか?

 

重ねた年と巡った記憶に

背中を潰されてはいないか?

 

残像

残像

残像

 

大丈夫

ただの幻だ

 

迷走

迷走

迷走

 

大丈夫

どれも正解だ

 

ハローCQ

応答せよ

 

これは友への伝言だ

 

ハローCQ

応答せよ

 

今夜も上手く眠れないか?

 

長かった夜は無駄じゃない

空白の期間も無駄じゃない

生きづらさの迂回路は

自己確立への近道だ

狂った物差しとビジョンは

天から授かったギフトだ

 

時効を持たないコールドケース

犯人探しはもうやめよう

 

悪いのは傍観者でも

色褪せた無関心でもなく

ましてや弱い心でもない

 

どんなに影が迫っても

手を下すのは俺たちじゃない

トリガーの代わりに辞書を引こう

 

芸術とか文学とかどうでもいい

名前は後から付ければいい

俺たちが出すのは感情だ

ひっついて離れない映像だ

 

飛びたくなければ

飛ばなくていい

黙っていたいなら

話さなくてもいい

 

俺が言葉を綴るから

文字で気持ちを報うから

 

ハローCQ

応答せよ

 

これは友への伝言だ

 

ハローCQ

応答せよ

 

お楽しみはこれからだ

 

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ちょっと待ってくれないか (『私が私をやめたなら』収録作品)

自分はAmazonのKindleストアで「私が私をやめたなら」という電子書籍を販売しております。 

私が私をやめたなら

私が私をやめたなら

 

 

頭の中にある想いを書き出す方法として、詩と小説、どちらも好きなのですが、その時に込めたい感情によって心がしっくりくる方を選んでいます。

 

「私が私をやめたなら」は、自分が詩という形で表したかった想いの集合体です。

 今回は、その内の1篇を紹介したいと思います。

 

***

 

 

「ちょっと待ってくれないか」

 

あの ちょっと待って

そのままの姿勢でいいから

少しの間 話を聞いてくれないか?

 

理由なんか尋ねないよ

此の期に及んだらどうもこうもないよね

 

ねぇ フォールイン・ラヴって曲を知ってる?

ハミルトン ジョーフランク&レイノルズっていう

長い名前のバンドが歌っていてさ

本当にいいメロディーなんだ

 

じゃあトッドラングレンは?

いや違うんだ 

音楽の話をしたいわけじゃなくて 

きっと君の知らない曲がまだたくさんあると思って

 

だから

もったいないよ

 

まだまだ一杯あるんだ

ポップやロックだけじゃない 

ヒップホップも

レゲエも

ファンクも

テクノも

何曲か君に聞かせたいお薦めがあるんだ

 

待って 

ちょっと待って

 

じゃあさ 

デートとか興味ない?

ほら ベタだけど遊園地とか行ってさ

白とオレンジのカップに入った炭酸を飲むんだ

普段は手に取らないキーホルダーなんか買ったりしてさ

 

別に今の話なんかしていないよ

いつかきっとあるから

まだ制服着ているなら学生だろ?

これからいくらだってあるさ

先は誰にも分からない

 

今は友達がいなくても 

いつかきっと現れるよ

だからまだ学生だろ?

その世界が全てじゃないよ

これからいくらでもチャンスはあるさ

生まれてからまだ少ししか経っていないじゃないか

全然 完成じゃないよ

今の脳みそで考え付かない未来がちゃんとあるから

 

分かった! 

分かったからちょっと待ってくれないか!

 

「オンフルール」って言葉 

何だと思う?

フランスにある港町の名前なんだけど

もちろん行ったことなんかないよ

でも そのタイトルが付いた美しい絵があるんだ

もう凄いんだよ

長方形のキャンバスに夜の街が広がってさ

中央に大きな満月 

手前に水面

左側にはメリーゴーランドが光っている

説明だけじゃ伝わらないでしょ?

 

だったら君の目で見てみようよ

 

その絵を描いた人の世界は 

どれも暖かみに溢れているから

 

ねぇ 

もう少しだけ 

背中を柵に近づけてよ

 

映画は好き?

今度「ニューシネマパラダイス」を貸すね

君に見て欲しいんだ

つまらなかったら それはそれでいい

ただ君の心を動かす作品は他に必ずあるよ

 

じゃあ それが見つかるまで 

生きてみるってのはどうかな?

 

邦画だけじゃない

有名なヤツじゃなくても面白いものは山ほどある

迷惑じゃなければ一緒にツタヤに行こう

ネットでも選べるけど 

こういうのは実際に見て探した方が楽しいから

 

とりあえず こっち向かない?

マリオンクレープ奢るからさ

定番はチョコバナナだけど苺クリームも美味しいよ

アップルスペシャルは食べたことないでしょ?

アイスも入った豪華版

それも奢ってあげるから 

ねぇ お願いだから振り向いて

 

あのさ

実は俺 踊るんだ

一人でこっそりだけどね

何とかステップも踏めるよ

練習したら案外出来るものさ

誰にも見せなくていいからさ

こっそりやってみない?

君が踊るなんて話 絶対どこでもしないから

 

まだまだあるんだ 

君の知らないこと

一通りやってからでも

遅くはないんじゃないかな?

 

生きる場所は一箇所だけじゃない

どこでだって生活できる

文化の全く異なる世界も 

思っているほど悪くないから

 

あのね 

今はこうして俺が話をしているけど

君に声をかけるのは 

俺一人じゃないよ

 

俺があの時 肩を叩かれたように

色々なタイプの人が

色々な方法で君に声をかける

そんなこと有り得ないって決めつけないで

先は誰にも分からないから

 

とにかくさ 

今からコメダ珈琲いかない?

この時間だったら まだモーニング頼めるよ

俺がご馳走するからさ

焼きたてのトーストに手作りたまごペーストを塗ると

クセになるんだ

 

クセになろうよ

もっと もっと たくさんのことを 

クセになろう

 

先は必ずある

 

ねぇ お願いだから 

柵を越えてこっちに来て

 

甘くて美味しいシロノワールも付けると約束するからさ

 

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橋の上の神様

僕は「場所」を探していた。

 

昼が昼でなくなり、夜が夜でなくなった日を随分長く過ごしたせいで、右も左も分からなくなっていた。

 

締め切った窓。

肌に纏わり付くTシャツ。

通販番組の司会者が大きな声を上げた時、「もう終わりにしよう」と心が言った。

 

ビニール袋に貯めていた幾らかの金と携帯電話を掴み、部屋着のまま飛び出した現実は、室内と変わらずベトベトしていた。

 

真夜中なのに忙しい街。

ここに住む人たちは、僕が存在していることなど気付いてはいない。

 

ヨタヨタと歩く体に実感が湧かず、つま先で電信柱を蹴る。

 

(とにかく、遠くへ)

 

心を占める思いだけに動かされ、記憶をなぞり駅へ急いだ。

 

悪いことなどしていない。

誰も僕を気にしてはいない。

2番ホームの隅っこで始発を待つ自分の姿が、構内のミラーに映る。

 

人の目を気にして、決まった定位置に収まる心と体。

こういう度量の小さいところが、大嫌いなんだ。

 

***

 

暗闇を切り前進する電車は、光に照らされる度に多くの呼吸を取り込む。

 

人、人、人。

声、声、声。

 

頭を下げて耳をひん曲げても、記憶と恐れが蘇る。

僕に出来ることは目を力一杯閉じ、意識が溢れる時間をやり過ごすだけだ。

 

***

 

線路を変え、人の群れに轢かれて、県を2つ超えた。

当てずっぽうで選んだ路線の終着駅。

くたびれた白い小屋を出ると、太陽が空で威張っていた。

 

道祖神の様に立つバス停で、先へ行ける時間を確認する。

 

7時10分

9時15分

12時30分

16時10分

18時45分

 

まだ10時20分。

次の便まで、あと2時間もある。

 

年を取った駅舎の中にある真新しい自動販売機でソーダを買い、茶色いベンチに腰を下ろす。

生きていることを懸命に知らせるセミの合唱が、耳にうるさい。

 

(歩けよ)

歩かない。

 

(もう、この近くでいいだろ?)

もっと奥に行く。

 

(なぜ飲み物なんか買う?)

喉が渇いただけだ。

 

(さっき、残金の確認をしたろ?)

していない。

 

(『場所』を探しに来たんだろ?)

そうだ。

 

(最終便の時刻を確認したろ?)

……。

 

(なぁ、返事しろよ)

 

(戻る必要なんかないんだろ?)

 

 

セミよ、生きているならもっと鳴け。

問いただす声をかき消すほどに、力いっぱい鳴いてくれ。

 

***

 

バスの窓に映るのは、深緑の砂嵐。

壊れた景色のリモコンは、チャンネル変えを許さない。

 

「まだまだ、暑いんね」

 

途中で乗り込んできた老婆が、皺くちゃの笑顔を見せる。

 

婆さん、真顔で見返して申し訳ない。

悪気はないが、こんな時、どういった顔をすればいいのか分からないんだ。

 

***

 

生温いバスに運ばれて到着した終点は、想像よりも開けていて、回転場の中央には小さな商店が1軒あった。

 

6体並ぶ地蔵を境に、左に集落、右に森が広がっている。

僕が行くべきは、右の奥の奥だ。

 

茂みに沿うようにしてしばらく歩いていると、濃い緑の壁の間に入っていけそうな隙間を見つけた。

 

周りに人の姿はない。

 

けたたましいセミの声。

息が、浅くなる。

 

アスファルトが敷かれている下界とは、ここでおさらばだ。

 

 

壁を壊す1歩が踏み出せない。

動かない足は、恐れからくるものか。

 

何を迷う。

迷った先に、何がある。

 

戻っても居場所なんてない。

 

息を吸って吐くだけの、四角い部屋。

一方通行の生活に、何の未練がある。

 

思い出せ。

 

罵倒された日々を。

終わりがなかった暴力を。

 

思い出せ。

 

汗臭い畳の臭いを。

燃やされた自尊心を。

 

しばらくその場にうずくまった後に、僕は意識せず両手を合わせた。

何の宗教も信じていないのに、手のひらを合わせて目を瞑った。

 

瞼の裏にある黒。

リズムを取り戻す呼吸。

クリアに聞こえる風の音。

 

大丈夫、もう怖くはない。

 

***

 

光を遮る葉の屋根は、昼間に毛布をかける。

行くてを阻む背の高い雑草が、腕に絡みついて痒い。

 

シャ シャ

ピキ ピキ

 

陽だまりを避け、同じ音を作り出して進む。

小さい川が出てきた以外、似たような場面の繰り返し。

 

体感的には30分、もう、この辺でいいだろう。

 

「あぁぁぁぁ!」

「うわぁぁぁ!」

 

力一杯、叫んでしばらく待ったが、誰かが迫る足音はない。

空を覆い尽くす緑の手。

深呼吸をして、左前方にある斜面に近づく。

 

スロープの上にある台で、力強く立つ木々。

登りきると、地面からは充分な距離が出来る。

何本かある候補の中から、自分の体と同じ厚さがある幹に触れる。

 

土手の先へと伸びる枝にある3つの目が、僕を呼ぶ。

木目に惹かれて眺めていると、鼻や口まで浮かんでくる。

瞳を閉じないで笑う3つ目の木顔。

すまないが、貴方に決めさせてもらったよ。

 

距離を少し保ち、勢いをつけて枝に飛び移る。

 

両手をしっかりと枝に絡ませ、体を上下に揺らして足をバタつかせる。

実際のもがきにはまだ足りないと感じ、体をくの字に曲げてから捻りを加えたが、握力が続かずに地面へ落ちた。

 

寝そべった状態で、上を見る。

威圧的に見下ろしてくる太い幹と、差し伸べる腕のような枝に変わりはない。

あんなに力を入れたのに、割れもしないし折れもしない。

 

そうか、僕以外、準備は万端なんだ。

 

右の上腕が痛い。

落ちた時に打ったのかと思い、視線を移すと、紺のTシャツの裾に黒い斑点が出来ていた。

指先を差し入れて、赤い液体をすくい取り、横に生えている五角形の葉っぱに擦り付ける。

 

薄い緑に映える赤。

記憶にある光景。

 

ほんの11年前、引っ越しをする前は、家にいるよりも外を走り回っている方が多かった。

尖った葉っぱの先端で足を切っては、垂れる血を緑で拭いていた日々。

 

体を半分起こして、血の付いた指先を見つめる。

今ここにいるのは、腕から出血し、森の中でへたり込んでいる男。

頭に浮かんだ場面とのギャップに、吐き気がする。

 

何で、こんなことになったのだろう。

どこで、どう狂ってしまったのだろう。

 

小学5年で街を変え、全てがおかしくなった。

あの年を境に、僕は僕でなくなった。

この11年間、色々なことがあり過ぎて、頭がパンクしてしまった。

 

転校する前の友達は、僕のことを覚えているのだろうか。

どこかでばったり出会ったら、笑って手を上げてくれるのだろうか。

万が一、新聞に載ったら気付いてくれるのだろうか。

 

バカらしい。

 

何を大それたことを考えている。

有名人にでもなったつもりか?

世間は忙しい。

世の中から逃げた奴が1人首を括ろうが、そんなことに構っている時間などないのだ。

 

赤く染まった葉の先をむしり取り、斜面の上へ戻る。

 

予行練習は終わった。

枝の強度も問題ない。

 

もう、いいだろう。

 

ポケットに手を突っ込み、携帯電話と金が入ったビニール袋を取り出して地面に並べる。

 

深く目を閉じてから、履いていたジャージを脱いで枝に乗せ、両足の部分が上へくるようにして括り、少し広めに輪を作って結び目を締めると、人の輪郭のようなものが出来上がった。

 

両手で、その線を激しく引っ張る。

 

泣きも喚きもしない黒い輪郭は、僕を導き入れるように、その輪を少し広くした。

 

土手の上から眺めても、緑の海は変わらない。

輪っかの中から空を見ても、緑の屋根は光を通さない。

 

息を、息を整えるには、どうすればいいんだ。

手の、手の震えを抑えるには、どうすればいいんだ。

 

地面をしっかりと確認して、1歩踏み出す。

この世の終わりまで、あと2歩ほど。

自分の鼻息が、直接、耳に入り込む。

心臓が騒がしい。

冗談みたいに震える両手で、輪っかを強く握りしめる。

 

セミが、すぐ近くで鳴いている。

 

場面が浮かんで、離れない。

 

夏の終わり。

夕暮れを背に歩く、市営プールの帰り道。

あの時も、近くでセミが鳴いていた。

 

何故、僕はこんな所にいる?

こんな場所で、何をしているんだ?

 

無性に、腹が立つ。

これで最後だと思うと、腹が立って仕方がない。

 

くそったれ。

くそったれ。

くそったれ。

 

溜め込むだけ溜め込んで、文句を口にしてこなかった人生。

 

本当は、全部が全部、嫌だった。

 

父親が出て行ったことも。

引越しをしたことも。

火曜と水曜に母親の「友達」が来ていたことも。

その間、公園で待たなくてはいけなかったことも。

 

黙って、我慢して、受け入れて。

そんなことを繰り返していたら、いつの間にか僕から僕が消えていた。

 

取り繕うためだけに見せる笑顔は、悪魔たちを引き寄せる。

 

自分の体から色が無くなった後の僕は、見なくて良いものばかりを見てきた。

 

黙って、我慢して、受け入れて。

目をつけられても、囲まれても、金を取られても、殴られても、僕はただ同じ笑顔を見せ続けた。

何も言わずに耐えて過ごせばいつか嵐は過ぎていくと、本気でそう信じていた。

 

でも、現実はそうじゃなかった。

無駄に笑って媚びた結果が、今の現状だ。

 

じゃあ、一体、僕が耐えてきた時間は、何だったんだ。

 

こんなことになるのなら、あの瞬間に終わらせておけばよかった。

奴らの人生を巻き込んで、滅茶苦茶にしてやればよかった。

 

(おい、早く飛べよ)

(人間やめちまえよ)

 

僕は、あの時、生きることにすがった。

人の姿をした5体の悪魔に退路を断たれ、屋上の隅に追いやられた時、僕は死ぬことが怖くて堪らなくなり、形振り構わずに土下座をして、命を乞うた。

 

頭を踏まれて、コンクリートの熱を額に感じたあの日、僕は自分の魂を捨てた。

あれから僕は、心に出来た隙間を埋めることなく、ただ時間を潰してきた。

 

どうなるのだろう。

 

あの空白の期間は何処へ行くんだ?

僕が首を括ったら、あの日の思いは何処へ行く?

恐ろしくて情けなくて悔しくて、壁に頭をぶつけ続けた、僕の無念は何処へ行くんだ?

 

枝の木目が、こちらを見て笑う。

 

何が面白い?

何故、僕を馬鹿にするんだ?

 

もう、こりごりだ。

こうして過去を漁り、葛藤を繰り返すのはたくさんだ。

 

やりきれなくなり、足をもう1歩進ませる。

 

終わりが忍び寄り、萎縮する空気。

視界が歪む。

三半規管が狂って変だ。

 

最後の1歩。

 

目を閉じて、風の音だけを拾う。

 

思い返せば、逃げてばかりの人生だった。

戦わず、抗わず、ひたすら背中を見せて逃げてきた。

 

 

何で今更、向き合わなくてはいけないのだろう。

散々逃げてきたのに、何で今になって己を直視しなくてはいけないのだろう。

 

 

嫌だ。

 

何で僕が死ななきゃいけないんだ。

 

僕が何か悪いことをしたか?

人を馬鹿にしたり、いじめたりしたか?

奴らみたいに顔をブン殴ったり、蹴り上げたりしてこなかったじゃないか。

 

自信がなくて、気が小さい臆病者。

 

だから何だって言うんだ。

 

声が小さい人間は、生きていてはいけないのか?

周りに上手く馴染めない人間は、存在する価値がないのか?

社会に居場所がない人間は、消えなくてはいけないのか?

 

嫌だ。

絶対に、嫌だ。

 

ギロチンの輪から首を取り出し、下着のまま地面に座り込む。

 

死にたくない。

 

煤けたローファーを舐めて、繋いだ命。

 

心にあるものは、恐怖と怒りと悔しさ。

 

僕は、まだ何も果たしてない。

僕は僕の人生で、何も済ませてはいない。

 

もし、ここで終わらせてしまったら、次の人生でも、また同じ繰り返しが待っている。

 

はは。

頭が必死に、死なない言い訳を喋ってる。

 

いいぞ。

どんどん言ってくれ。

どんな理由だっていい。最後の線を越えられない訳を出し続けてくれ。

 

死にたくない。

 

ここまで来て、しっかりと分かった。

僕は単純に、死ぬのが死ぬほど怖いんだ。

 

 

逃げよう。

 

今回も、逃げてしまおう。

 

この状況から逃げて

また同じ寝床に戻ろう。

 

ここまで状況が揃っても、首を括れなかった。

僕は結局、その程度の男なんだ。

奴らから散々言われた通り、何も成し遂げられないクズなんだ。

 

あぁ、そうだよ。

今回も、逃げるよ。

 

真っ赤に充血した手のひらの中で、蚊が横になって潰れている。

僕は何事もなかったようにそれを払い、枝に結ばれていたジャージを解いて、ゆっくりと足を通し、地面に並べられていた携帯電話と金をポケットに突っ込んだ。

 

汗まみれのTシャツの裾に付着した血痕。目的を果たせずに汚れた黒いジャージ。

知らない街の森で立ち尽くす、22歳の男。

 

きっと、こんな姿も、あんた達の予想通りなんだろうな。

 

パン

パン

 

鬼さんこちら、手の鳴る方へ。

 

パン

パン

 

きっと、あんた達はあのまま世間に溶け込んで、我が物顔で歯車を回しているんだろうな。

 

パン

パン

 

取り繕う笑顔を見せた後は、悪魔たちがやってくる。

 

叩いた手を擦り合わせた僕は、木顔の笑みに頭を下げ、出口を目指し森を走った。

 

***

 

最後に息を切らせたのは、いつのことだったろうか。

イメージに体が追いつかなかった僕は、派手に2回転び、左頬と左の手を擦り剥いた。

 

緑の海を泳ぎ切り、波の裂け目にアスファルトの存在を確認した僕は、息を整え、初めて後ろを振り返った。

 

陽だまりのスポットライトに、蔦の網。

 

大丈夫。

そこに、悪魔たちの姿はない。

 

恐れを断ち切り、転がるように抜け出した街道に見覚えはなかった。

 

街灯と電信柱、そして目の前にそびえる深い森。

少し前まで、自分がその中にいたとは信じられないほど、緑の要塞はどっしりと威圧的に構えていた。

 

もう歩きたくないけど、ここには居たくない。

 

ポケットの中の携帯電話とビニール袋を指で確認した僕は、当てもなく足を左に向けた。

 

***

 

同じ風景の中、鳴り止むことのないセミの声。

僕には耳障りに思えても、この世界で生活をしていくならば、これ位の自己主張が必要なのかもしれない。

 

ただ生きているだけでは誰も振り向かないし、何も起こらない。

街には音が溢れていて、みんなの耳がどうにかしてしまった。

「ここにいます」「ここで息をしています」とがなり立てなければ、存在することを許されない錯覚に陥る。

 

車が1台も通らない道。

人っ子1人いない道。

 

空、電柱、木に雑草。

もしもそれらに意識があるのなら、僕は独りじゃないことになる。

仮にそうならば、僕は孤独ではない。

でも、欲を言うならば会話がしたい。

空でも電柱でも、木でも雑草でもいい、短い時間でも構わないから僕と話をして欲しい。

 

傷つくのが嫌で、たくさんのものを捨ててきた。

それなのに、未だに弱さが大きな顔をして僕の中に居座っている。

どんなに世捨てを気取っても、1人で生きられない脆さが憎い。

生きることからも死ぬことからも逃げた代償は、浮き彫りになった弱さを見つめることなのかもしれない。

 

***

 

永遠に入り込んだような、コピーされた景色の連続。

心の不安が体の疲労を越えた後、僕は歩きを小走りに変えた。

そうしてしばらく体を揺らしていると、道が広がり、左手に長い橋が現れた。

 

求めていた変化を前にして、足が止まった理由は、その橋の上に人だかりを見つけたからだ。

 

小学生くらいに見える男子が5、6人。いや、道路に座っている子も何人かいる。

反射的に身を屈めたが、何もない道に隠れる場所などない。

どうして良いか分からずに、じっと身を固めて距離を保っていると、上半身裸の色黒の子がこちらに気付き、僕の目に視線を合わせた。

 

その、瞬間だった。

 

目が合って不思議な笑みを見せたその子は、サッと欄干に上り、何の躊躇もなく橋から飛び降りた。

 

たった今、目に入ってきた光景を飲み込めず、咄嗟に走り寄って下を眺めると、日に焼けたその子は水面から顔を出し、こちらを指差して笑った。

 

川。

そうか、そりゃそうか。

川があって橋が架かる。

橋の下には、川がある。

 

疲労と不安に飲み込まれた状態で目に入った絵図ら。

微妙な距離から眺めた子供の飛び降りは、一大事以外の何物でもなかった。

 

真っ黒になった子供たちが、僕の顔を覗き込んで笑う。

 

冗談みたいに澄んだ川面と欄干までの距離は、ここからだと随分あるように見える。

いくら水に飛び込むとはいっても、無傷で済む高さに思えない。

 

「ねぇねぇ。お兄さんも飛んでみれば」

 

先ほど飛び込んだ男の子が、太陽みたいな顔をして僕の肩を叩いた。

 

言葉に押されて、顔を水面に向ける。

西日を弾くエメラルドグリーンが強くて眩しい。

 

「ねぇ、飛び込んだら気持ちいいよ。案外、痛くないし」

 

太陽の子が顔一杯に笑みを浮かべて誘ってきたが、答えは決まっている。

この高さから飛び込めるわけがない。

 

上手く顔を作れずに、ジッとその子を見返すと、太陽の子は再度欄干に上り「ほら平気だよ!」と手を振って、空に身を投げた。

 

水飛沫と重なる、空気の跳ねる音。

 

しばらく経って水面から顔を見せたその子は、先ほどと同じく僕を指差して笑った。

 

(あの人、何か変じゃない)

(何でしゃべんないの)

(服が汚れてるよ)

(あ、腕に血が付いてる)

(やっぱり変だよ、あの人)

 

周りの雑音が、耳に入る。

 

聞きなれたざわめき。

僕に向けられる、いつもの感情。

こういった声を聞くのは、もう慣れている。

 

逃げよう。

面倒なことになる前に、ここから居なくなろう。

 

悪いことはしていない。

それなのに、なぜか申し訳ない気分が襲い、顔をしっかりと上げられない。

焦る気持ちに急かされ、視線を下げたまま早足でその場を離れると、橋のたもとで濡れた素足が僕の前に立った。

 

「あれ? もう行っちゃうの? 飛んでかないの?」

 

よく日に焼けた両足。

太陽の子から発せられる声には、悪意も困惑も含まれていない。

 

「夏も終わっちゃうし、やっぱり飛んでいった方がいいよ」

 

曇りのない彼の声は、僕の足を止める。

駆け足で太陽の子の側に集まる仲間たち。

 

大人数と1人。

夏の日差しと、セミの声。

 

大嫌いな屋上の場面と重なるのに、なぜだか嫌な感じはしない。

 

「最初は怖いけど、慣れたら結構、気持ちいいよ」

 

そうか、この子の声だ。

太陽の子が話すと、心が耳を貸そうとする。

何でそう感じるのかは分からないが、不思議と気持ちが落ち着く。

 

「おいマサシ、お前んち、雪見だいふくあったよな?」

「うん」

「じゃあさ、ちょっと家に戻って持ってきてくんない?」

「えぇー、何で? 嫌だよ。あれ、明日の楽しみなんだから」

「頼むから、持ってきてよ。明日、俺のピノあげるからさ」

「えー。何個?」

「3個」

「3個じゃダメ。4個ならいいよ」

「うーん。分かった、4個ね。じゃあ、持ってきて」

「本当に4個だよ! 約束だからね!」

 

「ねぇ、お兄さん。もしお兄さんがこの橋から飛んだら、雪見だいふくをあげるよ」

 

雪見だいふく?

 

どういうことなんだ。

どうしてこの子は、ここまでして僕を飛ばせたいんだ。

 

下げた視線の先には、対峙する何本もの足。

 

怖いか? 

いや、怖くはない。

 

どうしたい?

思考を閉じていいかな。

 

顔を上げるよ? 

うん。数を数えてね。

 

いくよ?

いいよ。

 

 

記憶は記憶で、現実は現実。

 

僕が見た現実は、太陽の子とその仲間の笑顔。

 

「飛べるかな?」

 

「うん。上から覗くと高いけど、実際は大したことじゃないよ」

 

「痛い?」

 

「ちょっと痛いけど、死なないよ」

 

「飛び降りても、死なないんだね」

 

「うん、死なないよ! 死ぬわけないじゃん! ほら、ちゃんと見てよ、俺、生きてるよ!」

 

足が動く。

3歩目からスピードが上がる。

尖った葉の先で肌を切っていた頃と同じ速さで橋に駆け寄る。

 

(おい、早く飛べよ)

血の付いたTシャツと汚れたジャージを脱ぎ捨て、欄干の上へ立つ。

 

(人間やめちまえよ)

1歩も踏み込む先がない状態は、屋上と同じだ。

 

(おい、早く飛べよ)

あぁ、今、飛ぶよ。

 

(人間やめちまえよ)

やめないよ。

だって、僕は死なないから。

 

胸の前で手を合わせた僕は、欄干から勢いよく身を投げた。

恐怖と興奮で閉じれなかった目に映る、流れる景色。

僕は今、間違いなく生きている。

 

音がしたと同時に襲う、体全体を張られたような衝撃。

重力というものを強く味わって、奥深くに吸い込まれる体。

 

潜りきって、意識が働く。

 

まず冷たくて、次第に痛く、そして心地良い。

嬉しいのか楽しいのか分からないが、体が浮き上がり始めて、僕は笑った。

 

水の中でもはっきりと自覚できるほど、僕の顔はほころんだ。

 

幾つもの感情が一気に押し寄せる。

こんな気持ちは、初めてだ。

 

水面が迫る。

光を目指して、水の膜を突き破る。

 

青。

飛び込んできたのは、どこまでも伸びる青。

 

天地がひっくり返った訳じゃない。

きっと元からそこにあった青。

 

でも、僕はこんな青を知らない。

 

鼻と口に入る水が視界を狭める。

水中で立つことが出来ずに、何度も下に引き摺られる。

 

「力抜いてー! 手と足を広げて浮かんでー!」

 

水面の境を行き来する僕の耳に、言葉が入る。

 

もっとじっくり、青が見たい。

身を委ねる不安もあるが、さっき見た青を目に焼き付けたい。

 

ゆっくりと足を広げ、腕を目一杯伸ばしてから言われた通りに力を抜くと、重かった体は冗談みたいに軽くなり、川面にプカッと浮いた。

 

求めていた青。

響く声に揺れる赤。

 

木の葉のように浮いたまま、音のする方に視線を移すと、太陽の子と仲間たちがクシャクシャに笑いながら雪見だいふくを振っていた。

 

雲ひとつない空の下に、見たこともない輝く笑顔。

 

神様がもしいるのならば、きっとこんな顔をして笑うのだろう。

 

いや、きっとあの子は神様なんだ。

雪見だいふくを持った、橋の上の神様。

だから太陽みたいに笑えるんだ。

 

「ねぇー! 笑ってばっかいないで早く上がってきなよー! アイス溶けちゃうよー!」

 

神様が大きな声で叫ぶ。

 

そうか。

僕は今、笑っているんだ。

 

***

 

予定通りだと、バスの最終便はあと20分ほどで到着する。

回転場にあった商店で菓子パンを買うと、店の老婆が椅子を用意して麦茶を出してくれた。

 

「ありがとうございます」

目を見れない代わりに、言葉に精一杯の気持ちを込める。

 

(ありがとうございました)

バス停まで送ってくれた神様に言いたいことはたくさんあったが、振り絞ってもその言葉しか出てこなかった。

 

笑顔で手を振る、日に焼けた背中。

誰が何と言おうと、僕にとって彼は神様だ。

 

店にある古ぼけたラジオから、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」が流れる。

父親が大好きで、引っ越す前の家の壁には映画のポスターが貼ってあった。

 

金曜ロードショーとビールの匂い。

大洋ホエールズと横浜スタジアム。

 

食べかけのパンを持って店の外に出た僕は、声が漏れないようにTシャツの裾を噛んで泣いた。

 

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心の歌

目隠しされても笑って歩く

俺の視界を奪っても

本質だけは奪えない

 

触れられない

いや

触れさせない

 

いくらでも笑え

いくらでも指をさせ

頭の数だけ増やしても

お前の戯言は響かない

 

上だろうが下だろうが構わない

俺はとにかく進んでいく

 

昼が嫌なら夜を待て

光が嫌なら目を瞑れ

 

同じ場所を目指さなくていい

道から無理に外れなくてもいい

 

どうしようもない環境の中で

不良にも犯罪者にもならずに生きてきた

「普通」に馴染めない毎日を

どうにかこうにか乗り越えてきた

 

こんなもんじゃない

俺が辿り着きたい場所は

今の景色で終わりじゃない

 

あんただってそうだろ?

思い描いている舞台は

まだまだこんなもんじゃないだろ?

 

誰かと誰かの悪意を並べて

群れて固まるのが望みじゃないだろ?

 

もっと奥へいこう

同調が届かないずっと底まで

イメージを超えて潜っていこう

 

生まれてきた訳を知りたい

煩悩に苛まれる理由を見つけたい

被った過去に意味を見出だしたい

 

俺は飲まない

俺は吸わない

俺は打たない

 

一時的に満たされるだけの魔法はいらない

とめどなく溢れる感情を溶かす代わりに

こうしてペンを握っているんだ

 

あんただってそうだろ?

だから胸の内を書いてるんだろう?

 

心地よい水に浸からなくても

迫る思いを解放できる

 

誰かを攻撃しなくても

壊したい欲求は空に戻せる

 

魂が主張を続ける限り

これからも文字を綴っていこう

 

もう会うことはないあんた

スッと消えてしまったあんた

色々あったけど

命をくれてありがとう

 

ずっと一緒にいたあんた

なかなか会えなくなったあんた

救ってくれてありがとう

 

そして

電波の箱で出会ったあんた

感性を覗かせてくれたあんた

こうやって繋がったんだ

いつの日か

面と向かって会えたらいいな

 

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アーティフィシャル・フラワーズ 《後編》

 

「だからよ、何でセリフを言うときに眉毛が上がるんだよ。それじゃあ演技が嘘くさくなっちまうじゃねぇか」

口に含んだ煙を上へ吐き出したチャーさんは、タバコの先をワタル君へと向けた。

 

「え? 上げてないですって! チャーさんの見間違えですよ。ていうか、細かすぎますよ。例え眉毛が上がっていても、誰も気にしませんて」

 

「バカやろう、お前は何にも分かってねぇな。話すたびに眉毛が上がる奴がいたら、どう考えたって怪しいだろ。俺が刑事だったら一発でお縄もんだぞ」

 

「花屋に刑事はいませんから。それに僕が演じるのは客であって、容疑者ではないです。ちょっとチャーさん、いったん僕の眉毛から離れませんか。話が全然先に進まないじゃないですか」

ワタル君は大きなあくびをひとつして、近くのベンチに座り込んだ。

 

誰もいない夜の公園。

園内の時計の針は、日付を跨ぐ準備をしている。

10時前にはセッちゃんの店を出たので、もうかれこれ2時間はリハーサルをしていることになる。

 

「チャーさん、ワタル君、付き合ってくれてありがとう。でも、もう大丈夫だよ。明日は、ちゃんと番号を渡すから。遅くなっちゃったし、もう上がろうか」

 

「いや、まだダメだ。何たって失敗は許されねーからな。もう1回だけ、流れを確認しておこう」

腕を組んだチャーさんは、仕事中によく見せる難しい顔をした。

 

「いいか、始めから確認するぞ。まずはじめにワタルが店に入るだろ。そんで? ワタル、どうすんだっけ?」

 

「え? だから、タナベって名札を付けていない方のスタッフをつかまえて、『彼女へのプレゼントを探してるんですけど』って言うんですよね」

 

「そうだ。時間をかせがなきゃなんねーから、なるべく『困ってます』って顔をしろよ。それと、眉毛が上がんねぇよーに気をつけんだぞ。そんでお次は、シンジだ。お前は店に入ったらタナベの姉ちゃんを見つけて、なるべく2人きりになれそうなコーナーの前で商品の質問をするんだ。自然に、自然にだぞ。そんでもって最後に、真打の登場だ。俺が店に入って、お前の近くを1回通り過ぎる。そしたらそれを合図にシンジは番号を渡すんだ。渡し終わったら、なるべく早く店を出ろ。シンジが出たのを確認したら、ワタルは何でもいいから商品を買え。その間に俺がタナベの姉ちゃんの様子を確認しといてやるから。いいかお前ら、全て自然な動作で行えよ。演じようとするとボロが出っから、本当の客になりきるんだ。それと、集合場所は南口の階段前な。間違っても店の前で待ってたりするんじゃねーぞ」

細い目を見開き、早口で捲し立てたチャーさんは、言い終わると満足そうに首を鳴らした。

 

「チャーさんは自然にって言いますけど、さっきのリハーサルで店に入ってきたチャーさんは、どっからどう見ても万引きをしようとしている不審者にしか見えませんでしたよ。ねぇ、シンさん」

ワタル君が悪い顔をして、こちらを向いた。

 

「うん。油っぽい万引きおじさんが、キョロキョロと店内を物色していた」

 

「バカ言ってんじゃねーよ! お前らの目が節穴だから、そう見えるんだよ。俺が演じてんのは、初めて偽物の花屋に入ってきて戸惑っている男の姿だ。『何だ? 何だ? ここは普通の花屋じゃねーな』って感じを装いながら、お前らがヘマしないように見張りつつ、不測の事態に備えてんだよ! 分かってねーな」

 

「シンさん、この人が店で通報されたら、他人のフリをして逃げましょう」

 

「この、ワタルこら! お前は俺が演じたリア王を見たことがねーから、そんなフザけた事が言えるんだ。ありゃ凄かったぞ、体育館中、拍手喝采に包まれてな!」

 

「でも僕の知っているリア王は、万引き犯ではありません」

 

「ワタル、テメー! この減らず口のクソヤローが!」

組んでいた腕を勢い良くほどいたチャーさんは、一直線にワタル君の元へ走り、体当たりをかました。

 

「ちょっと、チャーさん落ち着いて! あのさ、ずっと気になってたんだけど、いま説明してくれた流れは他のお客さんがいない設定になってるよね。あそこ結構人気があって、時間帯にもよるけど、いつもは何人かの先客がいるよ」

 

「だから俺が目を光らせておくんじゃねーか。先客がタナベの姉ちゃんをつかまえてたら、お前は大人しく待っとけ。姉ちゃんが空いたら、他の客から声を掛けられないように俺が進路を塞いでやるから。そしたら、すかさずお前が行くんだ」

 

「分かった、そうするよ。よし、じゃあこれで終了ね。二人とも遅くまでありがとう。明日、渡せても渡せなくてもベストを尽くすよ」

 

「気負わないで大丈夫ですよ。シンさんが思うがままにしてください」

右手の親指を立てたワタル君の笑顔が優しい。

 

「けっ。甘いんだよ、ワタルは。シンジ、やるったらやるんだぞ」

言葉とは裏腹に俺の肩をそっと叩くチャーさんの思いが暖かい。

 

「じゃあ、僕はお先に失礼します。集合は南口に2時ですよね。チャーさん、パチンコを理由に遅れないでくださいよ」

胸の前で手を上げたワタル君は、髪をかき上げてチャーさんを指差した。

 

「うるせー小僧。お前こそ、エッチな本ばっか読んで遅刻すんなよ!」

 

「発想が古いですねー! もう21世紀ですよー!」

チャーさんの言葉を背中で受けたワタル君は、公園の出口で振り返り、大きな声を上げて手を振った。

 

「まったく、あいつは生意気でしょうがねーな」

満面の笑みでワタル君を見送ったチャーさんは、ポケットからタバコを出した。

 

「シンジ、ちょっとだけいいか?」

火がつけられたタバコの先は、滑り台の横にあるベンチを指している。

 

18年。

チャーさんと出会ってから、この街に移ってきたのと同じ年数が経った。

暗がりでも目立つ、黄色いベンチに腰を下ろした彼の思いは想像できる。

 

「あのよ、シンジ。お前は、あのタナベの姉ちゃんが好きなんだよな?」

 

「うん」

 

「どんぐらい好きなんだ?」

 

「え? どんぐらいって、難しいな。前にも言ったけど、一目惚れなんて初めてしたし、彼女の事は殆ど知らないけど、何て言うか、頭の中がタナベさんで埋め尽くされていて、彼女の事ばかり考えている感じ」

 

「そうか。なぁ、シンジ。お前、覚悟はあるのか?」

 

日付が変わった静かな夜。

固いベンチが背筋を正す。

 

「うん。チャーさんが言いたい事は、分かるよ」

 

「相手は人妻だ。こんな事を言ったら元も子もねーかもしれねぇが、俺は不倫や浮気ってのが好きじゃねー。人の道に反してるからな。ただどうしようもなく止められねぇ気持ちっつーのも分かる。でもよ、その道を取るって事は、覚悟が必要だぞ。それでも、その姉ちゃんの事が好きか?」

 

「うん」

 

「そうか。シンジ、筋を通せよ。筋だけは、ちゃんと通すんだぞ」

 

「分かってる」

 

「よしっ! 俺が言いたい事はそれだけだ。まぁよ、天気はあんまし関係ねぇけど、明日は晴れればいいな」

 

「そうだね。ありがとう」

 

 

覚悟。

 

もっと彼女と話がしたい。

もっと彼女を眺めていたい。

もっと彼女を知りたい。

いつか彼女に触れてみたい。

 

分かってる。

欲望だけではなく、筋は通す。

 

 

「大丈夫だぞ、シンジ。お天道様はいつも見ているからな。頑張ってる奴は、報われなきゃダメだ」

ベンチから腰を上げ、ヨタヨタと歩き出したチャーさんは、星が見えない空に向けて野太い声を出した。

 

(頑張ってる奴は、報われなきゃダメだ)

 

チャーさんがいつも口にする決め台詞。

地元を出て18年、俺はこの言葉に何度も背中を押された。

 

高校を卒業してすぐに家を出た当時の俺に、先の見通しなど何もなかった。

この街に移り住んだのも大した理由があったわけではなく、仕事に困らなそうで、家賃がバカみたいに高くない都市を選んだ結果が、この場所なだけだった。

 

俺がチャーさんと出会ったのは、土木作業員として働きだしてから3つ目の現場だった。

 

(おぃ、兄ちゃん。若けぇのによく働くな。この現場が終わったら、ウチで働かねぇか?)

 

何の面識もない人からの誘いで正直戸惑ったが、そのとき働いてきた会社の待遇に我慢が出来なくなっていた俺は、二つ返事で話に乗った。

 

兄ちゃん。

サトムラ。

シンジ。

 

時間と共に呼ばれる名前は変わっていったが、チャーさんの優しさは出会った時から一貫して変わらなかった。

彼が勤める工務店の規模はそれ程大きくなかったが、几帳面な社長の性格が隅々まで行き届いた労働環境は、ずっと自分が求めていたもので、探していた居場所を得た俺は、現場、事務、雑用問わず、とにかく必死になって働いた。

勤務年数が7年を過ぎた俺に、2級建築士の資格取得を強く勧めたのも、チャーさんだった。

 

(しっかりやってきたんだから、それを形にしないでどーする。やれよ、シンジ。頑張ってる奴は、報われなきゃダメだ)

 

渋る俺の背中を押し、ケツに火を付けてくれたチャーさん。

図面を引く楽しさとやり甲斐に気付けたのは、間違いなく彼のおかげだ。

 

(お天道様が見てるからな)

 

駅に続く道を歩く、丸い背中。

口は悪いけど優しくて頑張り屋のチャーさんの事を、お天道様が見ていますように。

 

***

 

サトムラさん、こんにちは。

突然の事で驚いてしまい、お店では何も返せなくてごめんなさい。

 

頂いた連絡先、嬉しかったです。

 

タナベさん。

返信を頂き、ありがとうございます。

本当に嬉しいです。

もし、ご迷惑でなければ、これからもよろしくお願いします。

また、お店に伺います。

  *

先ほどお店で会ったばかりなのにすみません。

今、思い出しました。

タナベさんが話していた曲は、Bonnie Pinkの「金魚」です。

CDを持ってるんですけど、長らく聞いてなくて忘れていました。

俺が高校生になったばかりの頃に出た曲ですから、もう20年も前になります。

時が経つのは早いですね。

 

そうです! 

「金魚」です! あぁ、スッキリしました。ありがとうございます。

あの、サトムラさん、まだCDを持ってらっしゃいますかね?

もしよろしければ、貸していただけないでしょうか?

思い出したら聞きたくてしょうがなくなってしまいました。

  *

どうも。

今日は変なお客さんが絡んできて、大変な日でした。

50代くらいに見える男性の方だったんですけど、商品を説明しているそばから「でも偽物でしょ」って言ってくるんです。

何か悔しくなったので「ウチはアーティフィシャルフラワー専門店です」って返したら、「横文字ばっか屁理屈並べて」って悪態つかれて。

もう、キィーって感じになりました。

サトムラさんに愚痴っちゃって、ごめんなさい

  *

この前、教えてもらった麻婆豆腐を作ったのですが、薄い豚汁のような味になってしまいました。

書いてくれたレシピ通りにしたんですけど、何がいけなかったのか分かりません。

なので、結局ドリアに里帰りしました。

 

えぇー。レシピ通りに作ったら薄い豚汁にはなりませんよ!

結局、炭水化物じゃないですか。

今度、手順も書いた紙を渡します。

  *

サトムラさんのスペシャルドリア、言われた通りに作ってみました。

お世辞抜きで美味しかったです。

いつもはグラタンなのですが、ドリアもいいですねー。

夕食のレギュラーになりそうです。

 

そう言ってもらえて嬉しいです!

あのドリアは好きでよく行くお店の味に、どうにかこうにか近づけたものなのです。

楓山に行く途中に見晴らしのいいレストランがありまして、そこはドリアはもちろん、グラタンも本当に美味しいんです。

 

佐江倉町にある評判のお店は行ったことがあるのですが、楓山の方は知らなかったです。

いいなー。是非、行ってみたいですね。

 

もし、タナベさんがよろしければ、今度のお休みにでも、グラタンを食べに行きませんか?

あの、もしよければの話なのですが。

 

はい。

もしサトムラさんの予定と合うようでしたら、ご一緒させて下さい。

 

***

 

15:24

 

15:33

 

15:39

 

15:45

 

15:55

 

16:02

 

16:09

 

吐きそうな気分の中、時空が歪んでいるのかと疑うほどの遅さで流れる時間。

約束は午後4時半。

いつもの最寄駅ではなく、3つ隣の小さな駅を待ち合わせ場所にした。

3時前に駅に着き、降り口の真ん前にあるコインパーキングに車をとめて、構内のトイレに入ったのが3時10分過ぎ。

全ての確認を終えた3時20分から、出迎える準備は出来ている。

約束の1時間半前入りは、自分でもどうかと思うのだが、はやる気持ちを止められなかった。

 

(その日はちょうど昼までの日なんで、問題ないです)

 

俺の職場に昼までの勤務日などない。

社長には、どうしても抜けられない用事があると説明し、無理を通してもらった。

 

帰り際にすれ違ったチャーさんに叩かれた背中の感覚を思い出す。

大丈夫、これは現実に起こっている事なんだ。

 

 

16時20分着の電車がホームに入ってくる。

彼女はきっと、これに乗っている。

 

到着を知らせるアナウンスに、鳴り響くベル。

「ドアが閉まります」と聞こえてからは、息をするのが苦しくなった。

 

改札出口の真ん中に移動する。

右側に見える階段の頂上に視線を向ける。

周りの電子音が遠のき、クリアになる人の音。

 

夢なんかじゃない。

 

人の流れが切れた後に、姿を見せた手を振る笑顔。

 

夢なんかじゃない。

 

駆け出して行きそうな足を制するため、前から見えないように右手で外腿を強くつねった。

 

「こんにちは。結構、待ちました?」

 

「いえ、全く待っていません」

俺は、はち切れんばかりの笑顔で嘘をついた。

 

紺のタイトジーンスに、白いブラウス。

髪を下ろしているせいか、いつもよりも大人びて見えた。

 

「あの、こちらへどうぞ」

ダメだ。頭の機能がおかしくなって、差し出した右手と同じタイミングで右足も出してしまった。

 

「ふふっ。何ですかそれ。遊園地のアトラクション案内みたいになってますよ」

口を押さえて下を向いたタナベさんは、堪えきれずに声を上げて笑った。

 

「そうですね。何やってんだろ。じゃあ、行きますか」

 

初めて見る、彼女の笑顔ではない笑い顔。

これまでの人生で、これほど手と足を同時に出して良かったと思える瞬間はなかった。

 

 

目的のレストランまで、約40分のドライブ。

念入りに清掃をした甲斐があり、新車のような匂いがする車内で、俺はひたすら喋り続けた。

この日のために時間をかけて制作したプレイリストには目もくれず、くだらない言葉ばかりを口から発し、場を和ます事だけに集中した。

 

「あぁ。ご飯を食べる前に、もうお腹いっぱいです。久しぶりに、こんなに笑いました」

 

なぜだろう。彼女が手を叩いて笑う度に、幸せな気分になる。

なんでこんなに嬉しくなるのか、自分でも分からない。

 

タナベさんを駅で待つ間、極端に遅く流れた時間は真反対に弾け、今までで一番短い40分を経験し、車はレストランの駐車場に着いた。

 

「わぁ。ここからの眺め、凄いですね。街が全部見える。あ、あそこにもっとよく見えそうな場所がありますね。ちょっと行っていいですか?」

車から出たタナベさんは、そう言い終わると同時に駐車場の端に設けられた見晴台へかけていった。

 

風に揺れる白いブラウス。

思ったより小柄な背中。

 

こんなにもしっかりと彼女の後ろ姿を眺められている現状を噛みしめる。

 

 

(今日は、どんな日だった?)

 

 

狭い台所に立つ、小さな背中。

下ろした髪の長さが、あの人と同じだ。

 

ひどく自分勝手な話なのだが、髪は結んだままにして欲しかった。

 

こんな時に、なんで頭に浮かんでくるのだろう。

申し訳ないけど、今は静かに消えて欲しい。

 

 

「サトムラさん、あそこに見えるのは茜橋ですよね!」

こちらを振り返り、景色を一直線に指差す女性。

 

心配ない。ちゃんと見るんだ。

ずっと求めていた表情に、あの日の面影は被らない。

 

***

 

「味、合いますか? 大丈夫ですか?」

 

「はい。凄く美味しいです。美味しすぎて、黙っちゃいました」

 

「よかった。本当に、よかったです」

 

「こんなに綺麗な景色を見ながら食べる美味しいグラタン、最高です。サトムラさんはどうですか? あんまりドリアが進んでませんよ」

 

「え? いつも通り、めちゃくちゃ美味しいですよ」

全神経を彼女に持っていかれている今の状態では、味の判断など出来やしない。

 

「グラタンばかりを食べている私が言えたものじゃないですが、サトムラさんは本当にドリアが好きなんですね」

 

「はい。エビドリアがあれば、基本、幸せです。俺にとってドリアは、ご馳走ランキングナンバー1なんです。あの、ドリアの話になると長くなりますよ」

 

「えぇー、怖い怖い。じゃあ、ドリアの話は今すぐやめましょう」

目を細めて首を振ったタナベさんは、ニタっと俺の目を見た。

 

彼女の容姿に一目惚れをしたのがここにいるキッカケだが、タナベさんの魅力は外見だけではない。

朗らかな態度に、ストレートな物言い、そして時折見せる悪戯な瞳。

俺は今、彼女から放たれる粘着性の強い空気にがんじがらめにされている。

 

「昔から、1つのものに執着してしまうんです。ドリアだったり、音楽とか、本も。好きになったものをとことん突き詰めてから、次にって感じで、同時進行が上手くできないんです。だから、ドリアの次はチャーハン。まぁ、自炊はその段階で止まってしまっているんですけど」

 

「その調子だと、炭水化物の枠を出るのが難しそうですねー。ペヤングとかね。でも、その真っ直ぐなところがサトムラさんって感じで、何か安心します。そういうとこ、私と正反対でいいなぁーって思いますよ。お花に関しては別ですけど、他は、広く浅くなっちゃう事が多くて、あんまり真っ直ぐ走れないんです」

 

「いいじゃないですか、真っ直ぐ走らなくても。俺だって、見つけられる選択肢が少ないだけで、真っ直ぐに走っているわけではないですよ。ペヤングばっか食べてるだけだし。タナベさんはご自身が思っている以上に魅力的ですよ」

 

脳みそと口の間にあるフィルターが、溶けてなくなってしまった。

 

「ありがとうございます。そう言ってもらえて、とても嬉しいです。でも、私はサトムラさんが思っているような人ではないと思います。私、ズルいですから」

 

 

ドリアをすくったスプーンが動かない。

言いたい言葉が口から出ない。

 

ズルくたって何だっていい。

俺は、あなたの事が大好きなんだ。

 

 

(今日は、どんな日だった?)

 

 

「ちょっと、失礼します」

俺は席を立ち、洗面所へ向かった。

 

***

 

流しっぱなしの水で顔を洗う。

室内を照らす橙のライトが、やけに眩しい。

 

想いが彼女に近づくほど、さっき見た後ろ姿が頭に浮かぶ。

 

小刻みに点滅する照明。

 

何で今なんだ? 

 

面倒くさい。

 

必要な時に出て来ないで、呼んでもないのに現れる。

 

ふざけるな。

何がしたいっていうんだ?

 

勝手に懺悔して、勝手にいなくなって。

俺にどうしろって言うんだ。

 

なぁ、そこにいるんだろ?

聞きたいことは山ほどあるんだ。

 

あんたはこんな時、何を思った?

感情に流されただけか?

後悔の念は浮かんだのか?

あんたにとって、俺の父親はどんな人だったんだ?

自分の夫を裏切ってまで、身を委ねるほどの人だったのか?

 

なぁ、俺の父親は、どんな顔をしていた?

痩せてたのか? 太っていたのか?

髪は?

背は?

優しかったのか?

おしゃべりか? 無口なのか?

お洒落だったのか?

本は読んだのか?

どんな音楽が好きだった?

タバコは? 酒は?

何を好んで食べた?

 

俺は、何にも知らないんだ。

生きているのか、死んでいるのか、それさえも分からない。

教えてくれ。

俺の父親は、一体どこのどいつなんだ?

 

 

点滅が収まり、一定の明るさを保つライト。

耳を澄まして聞こえるのは、流れる水と空調の音だけ。

 

ほら、結局、何にも答えてくれない。

 

もう、いいよ。

はなから期待などしてはいない。

 

頭を冷やしたい。

こんな生ぬるい水ではなく、もっと、もっと、痛いほど冷たい水が欲しい。

 

***

 

洗面所前の廊下を出て、少し距離を置いた先に、顔を左に向けて窓の外を眺める彼女がいる。

 

遠くを見つめる横顔は美しく、優しい。

タナベさんの心に、俺は存在しているのか。

 

何で、もっと早くに出会えなかったのだろう。

何で、結婚をする前に知り合えなかったのだろう。

 

何かを仕分けするように、たくさんの感情を簡単に割り切れたらいいのに。

 

 

「お待たせしました。遅くなっちゃってすみません」

 

「いえいえ。あの、体調平気ですか? ドリアもまだ全然残ってますし、顔色もよくないですよ」

 

「すみません。でも、大丈夫です。あの、緊張です。タナベさんとこうしてご飯を食べられているので、緊張しているだけです」

 

「私に緊張なんかしないでください! きっとドリアを食べきれば、よくなると思いますよ」

 

「ありがとうございます。じゃあこれ食べきったら、デザートを頼みましょう。ここのクリームブリュレ、めちゃくちゃ美味しいですから」

 

「本当ですか! いいですね。サトムラさんの体調が問題なければ、デザートいきましょう」

 

彼女の一挙手一投足が可愛い。

バカみたいな考えだが、時間なんか無くなってしまえばいいと本気で思った。

 

***

 

「思ったより遅くなってしまいましたね。本当に楽しい時間でした。ありがとうございます」

 

「いえいえ、こちらこそ。あのお店、グラタンもデザートも、とっても美味しかったです」

 

日が完全に沈みきってからレストランを出て、なるべくゆっくりと運転した結果、駅の近くに路上駐車した頃は、夜の8時を回っていた。

 

「でも、まさかサトムラさんとキリンジの話が出来るとは思っていませんでした。しかも、『スイートソウル』で意気投合するとは、ビックリです」

 

「俺も驚きました。『愛のCoda』や『冠水橋』も捨てがたいですけど、やっぱりスイートソウルです。何か、あの曲は包み込んでくれるんですよ」

 

「ですよねー。あぁ、でも『愛のCoda』もいいですね。あの歌の歌詞で、『帰りのチケットを破る意気地も 愛に生きる勇気もない』ってとこがあるじゃないですか、あそこを聞く度に、何だか胸にくるものがあるんです。頬を叩かれるような感覚というか。あれは、私みたいな人の事を歌っているのだと思います」

 

どんな言葉を返せばいいのだろう。

何と言えばいいのか、沈黙以外の選択肢が見当たらない。

 

「すみません、何か変な事を言って。あの、サトムラさん、今日はありがとうございました。久し振りに心から楽しいなって思えました。お店以外に、こういう形で会えてよかったです」

 

「今日は、時間が過ぎるのが早かったです。本当、バカみたいに早かった。だから、時間なんか無くなればいいのにって本気で思いました」

 

「時間がなくなればいい、ですか。何だか凄い話ですね。でも、サトムラさんらしいです。私、サトムラさんのそういうところ、好きですよ」

 

 

もう、夢でもいいと思った。

むしろ、夢であって欲しいと思った。

 

白いブラウスから覗く腕。

長い指。

髪と耳。

首筋と胸。

 

現実に控えている問題など全部取っ払って、今すぐ、目の前にいる人を抱きしめたい。

何も考えず、溺れたい。

 

 

(今日は、どんな日だった?)

 

 

……そうか。

俺は、そうして生まれたんだ。

 

ここから先。

欲に飲み込まれ、男と女になった先に、母親は抱かれ、俺が生まれた。

 

(今日は、どんな日だった?)

 

そうか、俺は、欲から生まれたんだ。

 

 

ダメだ

 

ダメだ

 

ダメだ

 

左手が伸びない。

彼女の指に触れられない。

 

ダメだ

 

ダメだ

 

ダメだ

 

あんたの姿が頭から消えない。

 

俺と彼女の間にあるライン。

夢から醒めた俺には、その線を超える資格がない。

 

「タナベさん、あと少しだけお時間をもらえますか?」

 

「はい。大丈夫です」

 

「コーヒー、飲みに行きましょう」

 

***

 

夢から醒めた、寝起きのコーヒー。

小さいテーブルを挟んだ向かいで、ゆっくりとココアを飲む彼女。

 

あぁ、とても素敵な夢だった。

 

「1つ、謝っておきたい事があるんです」

 

「謝る? 私にですか?」

 

「はい。俺はタナベさんに嘘をついていました。俺は、花が大好きではありません。正確には、好きでも嫌いでもないのです」

 

「そうなんですか」

 

「あなたに一目惚れをしまして、あなたに会いたくて、お店に通っていました」

 

俺の目をしっかりと見ているタナベさんは、何も言葉を口にしない。

 

「今まで嘘をついていて、ごめんなさい。あなたの事が大好きだから、今日は会えて本当に嬉しかった。ありがとうございました」

 

「あの、頭を上げてください。サトムラさん、あの、勝手に色々、終わりにしないでください。私、分かってましたよ。サトムラさんの気持ち」

 

「知ってたんですか?」

 

「はい。こんな事を面と向かって本人に伝えるのは何だか変な感じがしますが、ちゃんと分かってましたよ。あの、分かりますよ。サトムラさん、まんまなんで」

 

「そんなに、分かりやすかったですかね」

 

「はい、とても。私、ちゃんとサトムラさんの気持ちを分かってて、今日の誘いを受けたんです。旦那には、お店の子と食事をすると嘘をつきました。そのまま飲むかもしれないから遅くなるよ、とも言いました。レストランで伝えた通り、私はズルいんです」

 

「そこまでストレートに言われると、清々しいです」

 

「ふふっ。この会話、ひどいですね。見ている人に、どんどんネタばらしするマジシャンみたい。本人を目の前に、ここまで胸の内を話すのは初めてです。ふっ、やっぱり可笑しいですよ」

 

「そうですね。訳が分かりませんね」

 

タナベさんの笑顔は、何もかも包み込む。まるで、大好きな曲を聞いているようだ。

 

「でも意外だったなー。理由はどうあれ、実際、お花は好きなのだと思っていました」

 

「いや、嫌いではないんです。何ていうか、好きになっていった、という感じが合っていると思います。動機は不純でしたが、部屋が色で埋まっていくのは新鮮で、生活を変えてくれました」

 

「よかった。じゃあウチの商品が少しは役に立ったのですね」

 

「ペヤングルームを卒業できました」

 

「そうですか。ヒゥレイクスタッフの立場として、それを聞けてよかったです」

 

「あ、それ、いつか聞こうと思っていたのですが、ヒゥレイクって名前、どういう意味なんですか?」

 

「ヒゥレイクはオランダ語で、『同じ』という意味です。ウチの主力商品はオランダからの輸入品が多いので、オランダ語の名前を採用したとオーナーが言っていました」

 

「同じ、ですか」

 

「はい。私はこの名前が大好きで、他にも造花屋さんはあったんですけど、この意味に惹かれてヒゥレイクに来たんです」

 

「何でタナベさんは普通の花屋ではなく、造花屋で働こうと思ったんですか?」

 

「昔は普通の花屋さんで働いていたんです。長くやっている内に、何件かお店も変えたんですけど、そのどれもが商品として売れなくなった花の扱いがひどくて、もう普通のお店では働けないなと思って」

 

「そうだったんですか」

 

「造花の事を『偽物だ』って言って嫌う人もいますが、例え本物じゃなくても花は花です。私にとっては、本物とか偽物とか、そんなの大した問題ではないんです。誰がなんと言おうと、花として生まれてきたこの子たちは、花なんです。命があろうがなかろうが、本物だろうが偽物だろうが、同じ花なんです。だから、ヒゥレイク。同じ花なんです」

 

本物とか偽物とか、そんなの大した問題ではない。

 

唇を強く噛めば、溢れる涙は止まるのだろうか。

 

「え? ちょっと、サトムラさん、大袈裟ですよ。何で泣いてるんですか? 熱くなりましたが、泣くような話はしていませんよ」

 

声が漏れないように、口はしっかりと抑えなければ。

 

「ちょっと、本当にどうしたんですか? え、サトムラさん、大丈夫ですか?」

机に突っ伏した状態で耳に入るタナベさんの声が遠い。

 

ずっと、探していた答え。

本当は、分かっていた答え。

誰かに言って欲しかった、求め続けてきた答え。

 

もしかしたら、この言葉を聞くために、俺は彼女と出会ったのかもしれない。

 

 

(今日は、どんな日だった?)

 

目をつむった暗闇に、あの日の後ろ姿が映る。

 

(今日は、どんな日だった?)

 

お母さん、今日は、とっても良い日だったよ。

 

***

 

「サトムラさん、誘っていただいてありがとうございました。とても不思議な1日でした。自分の事、上手くいっていない旦那との事、そして、サトムラさんとの事。私、色々考えたいと思います」

 

「こちらこそ、ありがとうございます。ちょっと思うところがありまして、コーヒーショップではご迷惑をおかけしました。申し訳ございません」

 

「いえ、ビックリしましたけど、問題ありません」

 

「花は大好きではありませんが、またお店に伺ってもいいですか?」

 

「もちろんです。お店でも、ちょっと時間はかかるかもしれませんが、お店以外でも会ってください」

 

「ドリア、またいつか行きましょう」

 

「グラタン、またいつか連れて行ってください」

 

駅の階段をのぼる後ろ姿。

背中が小さくても、下ろした髪が同じ長さでも、もうこちらを振り向く必要はない。

その姿は間違いなく、俺の大好きなタナベさんだ。

 

車に戻る前に、深呼吸をして夜空を見上げる。

 

本物だろうが偽物だろうが、関係ない。

俺の父親は、羊羹が好きだった。

 

今度まとまって休みが取れたなら、羊羹を買って地元に帰ろう。

 

本物だろうが偽物だろうが、関係ない。

俺の実家は、イングリッシュアイビーがあった煤けた家だ。

 

今度帰ったら、母親の墓をヒマワリポットとアイビーで飾ろう。

 

本物だろうが偽物だろうが、関係ない。

俺が飾るのは、ずっと枯れずに輝く花。

色褪せることも朽ち果てることもない、永遠を生きるアーティフィシャル・フラワーズ。

 

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アーティフィシャル・フラワーズ 《前編》

8時は越えたか?

 

いや、まだ壁に光があるから、7時半過ぎか?

だとしたら、2時半前に寝たとして、約5時間。

 

枕の横で背中を見せている電話をひっくり返し、手探りでホームボタンを押す。

 

( 7:04)

 

7時4分。

勘弁してほしい。

 

最後の1杯。

あの冷や酒が余計だった。

 

(もったいねーから、終わらしちまいな)

 

チャーさんが締めに勧める酒は、毎回無駄に後を引く。

自分の適量は分かってるのに、貧乏根性を出すから眠りが浅くなるんだ。

全くもって、自業自得。

せっかくの休みなのに、こんなに早く起きてどうする。

 

9時にセットしている目覚ましで起きたかった。5時間未満の睡眠では体に響く。

どういうメカニズムかは分からないが、35を超えた去年から、2度寝が出来ない体質になってしまった。

 

目を閉じ続けていれば、もう一度……とは考えない。

無駄な抵抗はしない。

起きる。

潔く、起きる。

 

コーヒーを飲むなら、ハムエッグ。

冷たい水なら、お茶漬け。

 

いや、惹かれない。

何だか全然、しっくりこない。

 

……ダブルロール。

ヤマザキのダブルロール。

 

自分を抱きしめたくなる瞬間があるのなら、それはまさしく今、この時だ。

遅くまで飲んだ次の日は、ヤマザキのダブルロール。

だてに36年連れ添っている体ではない。

どんなに面倒でも、帰りのコンビニで好きな菓子パンの購入を忘れなかった自分に、最大限の賛辞を送りたい。

 

ダブルロールとくれば、コーヒーだ。

 

ベッドから上半身だけを起こし、光が漏れている薄茶色のカーテンを開ける。

下半分を覆う白い柵に、通りを挟んだ向こうにある民家の青い屋根。

磨りガラス越しに見える色は、今日のように晴れていても、曇っていても雨が降っても変わらない。

寝床から顔を右に向けると、生活空間の殆どが目に映る。

縦長のワンルームアパート。いつまでたっても固いフローリングが好きになれない。

 

丸い机に紫のリリィと青い紫陽花。

テレビの横には、紅白のミニローズ。

背の低いタンスを飾るのは、オレンジのチューリップと真っ赤なカーネーション。

狭いキッチンには色とりどりのダリアが並んでいる。

ペヤングの箱の上のやつは……あれは何だっけ? 薄ピンクの、3千円近くしたやつだ。名前は、確か……。

ダメだ、思い出せない。

 

枕の下に滑らした左手でパンフレットを掴む。

 

まっすぐ伸びる枝に小さい緑と2つの蕾、そして見事に開花し広がっている3つの薄ピンク。

そう、これだ。

マグノリアだ。

 

殺風景な部屋で自己主張をする色彩。

36歳、独身男の部屋とは思えない華やかさ。

チャーさんやワタル君が、花で溢れるこの部屋を見たら腰を抜かすだろうか。

例えそうだとしても、無理はない。俺自身が目の前にある光景に驚いている。

 

花たちに囲まれ、ミルクたっぷりのコーヒーを片手に、ベッドの上でかじるヤマザキのダブルロール。

ここだけの景色を切り取ったならば、女子大生の休日みたいだ。

 

俺は一体、何をやっているのだろう。

 

思考を変えようとトイレに入っても、光彩の売り込みは止まらない。

白いタンクの上でこちらを向き、燦然と輝くヒマワリのポット。

1万2千5百円。あの店で最初に買った大きなギフトポットは、この家にある花の中で一番高い代物だ。

 

(母親に)

 

あの時、とっさに出た一言がそれだった。

やけに値の張るギフト用のヒマワリポットを手に取ったのは、たまたま自分の目の前に陳列されていたからだ。

俺はとにかく焦っていて、頭が全く働いていなかった。

 

あの日、慣れない南口を出て、少し進んだ先に見つけた黄色い照明。

開け放たれた大きなドアから彼女が姿を見せた時、嘘みたいに時間が止まった。

10秒? いや、5秒? 

自分の体が硬直したその間は、とてつもなくゆっくりと時間が流れた。

 

一目惚れ。

 

それは、生まれて初めて経験する衝撃だった。

あの時、あの瞬間、俺の全てが紺のエプロンをした彼女に吸い込まれた。

 

(贈り物ですか?)

 

(はい。母親に)

 

意識せずに、自分の口から出た言葉。

「タナベ」というネームプレートを付けた彼女に伝えた受取人は、もう19年も前に亡くなっている。

行き場を失ったギフトポットが辿り着いた先は、白いトイレタンクの上。誰にも送られることのないヒマワリは、今日も変わらず定位置で背筋を伸ばしている。

 

アーティフィシャル・フラワーズ。

本物と見間違う出来だが、命は持たない。

色褪せることも、朽ち果てることもない。

このワンルームに存在する、枯れることを忘れた造花たちは、自らの意思で終わることを許されぬまま、永遠に求められた輝きを放つ。

 

***

 

「あら、シンちゃん、今日は珍しく一番乗りね」

 

「あれ、みんなは?」

 

「まだ顔を見せてないわよ〜。ワタルちゃんはバイトが長引いてるんじゃないの? チャーさんの方は、きっとパチンコが出てるのね」

 

今日はバイトがないんで、講義の後、4時には店にいます!

 

ポケットからスマホを取り、ビックリマーク付きのメッセージを確認する。

ワタル君よ、4時にはいるはずじゃなかったのか?

 

「ホッピーでしょ?」

カウンターの上の大皿にアジの南蛮漬けを盛り終えたセッちゃんは、こちらが答えを返す前にグラスに焼酎をなみなみと注いだ。

 

「セッちゃん、相変わらずだけど、ホッピーの入る隙間がないよ」

 

「え? いいのよ、最初はガッといって、後で調節しなさい」

 

全体の8割強を占めている焼酎に、気持ち程度の黄金色を足す。

予想通り、味は酷く濃い。

 

「それにしても珍しいわね、シンちゃんが一番乗りだなんて。そんなに私が恋しかったの?」

 

「いや、それはない。まだ来てないけど、ワタル君から4時にはここにいるって連絡をもらったから」

 

「シンちゃん、溜めなさい。答えるのが早すぎるの。ちょっとは濁しなさい。だからいつまで経っても、あなたもチャーさんも独り身なの。こんなことじゃ一緒にいるワタルちゃんの未来まで危ういわね」

 

「間違いない。もうすでにダメかもね」

 

「本当よ〜。何が楽しくて30中盤と50後半のおじさん達と一緒にいるのかしらね〜。あらやだ! ワタルちゃん、もしかしたらそっちの趣味があるのかしら」

一人で勝手に盛り上がったセッちゃんは、嬉しそうにタヌキの置物のお腹を叩いた。

 

確かに。彼女の言う通り、何が楽しくてワタル君は俺やチャーさんと時間を共にしているのだろう。

 

(おぃ兄ちゃん、ここに来たら南蛮漬けは食っておいた方がいいぞ)

 

酔いが回ったチャーさんに絡まれた、気弱そうな青年。それがワタル君の第一印象だった。

大学の工学部でデザインの勉強をしているという彼が、何故ひとりで若者には縁遠い昭和の飲み屋に入ってきたのかは分からないが、大工一筋40年のチャーさんと、彼が勤める工務店で図面を引いている俺は、フラっと訪れたその若者と建物の話で意気投合した。

ワタル君がこの店に顔を出し始めた頃は、決まってデザインや建築関係の話題ばかり話していたが、彼がボトルをキープし、好物であるポテトサラダをセッちゃんがサービスで出すようになると、場を占める主題は俺とチャーさんがいつもしていたような身のない世間話となった。

長い髪を耳にかけ、大きく手を叩いて笑う。大学生のワタル君が年の離れた俺たちと連む理由は定かではない。でも、彼がここにいて楽しいのであれば、訳など何だって良い。

 

「おぃ、何だ? 今日はシンジが一着か? 珍しいな」

右手を軽く上げたチャーさんの後ろで、ワタル君が頭を下げる。

 

「あら、何? 二人とも一緒だったの?」

セッちゃんが驚いた顔で置物のタヌキを撫でた。

 

「いやよぉ、焼き鳥屋の角曲がったら、ちょうどこいつの猫背が見えたから走ってぶつかってやったの。そしたらこいつ、目をひん剥いて驚いてな」

 

「いい迷惑ですよ。実際、刺されたって思いましたもん。最近、物騒なんですからやめてくださいよ」

俺の左隣に座ったワタル君は、トイレに近い特等席に腰をおろしたチャーさんに声を上げた。

 

「悪い、悪い。お詫びにお前の好きな桜肉、奢ってやるからよ」

 

「え? まじですか? やった! ありがとうございます」

 

「ワタルちゃん、騙されちゃダメよ。この人、カッコつけてるけどパチンコが出ただけなんだから」

流れるような動きで冷や酒をチャーさん、ウーロンハイをワタル君の前に置いたセッちゃんは、テレビのボリュームを大きく下げた。

 

「で、どうだったの? 昨日、ワタルちゃんから聞いたわよ。南口に出来た新しいお店? 2人揃って浮気したんでしょ?」

セッちゃんは手を腰に当て、チャーさんと俺の顔を交互に見た。

 

「ん? どうったって、もう随分前の事だからよ。でもまぁ、ありゃ、ダメだな。ありゃ、なんつーか、飲み屋っつーよりも、ファミレスみてーなもんだ。なぁ、シンジ?」

 

「いや、ファミレスではないけど、良い意味でも悪い意味でもチェーンの居酒屋みたいだったよ。日本酒はそんなに置いてない代わりに、料理やカクテルなんかは種類があって、内装も黒で統一していてお洒落だったしね」

 

「まぁ、とにかく若い奴が多かった。ワタルみてーので溢れててよ、眩しくって騒がしくってダメだ。その点ここは良い。若くておじさん、おばさん、あとはジジーとババーの老人天国だからな」

 

「ちょっと、僕がいるの忘れないでくださいよ!」

ポテトサラダを受け取ったワタル君は、手に持った箸を空へ上げた。

 

「ん? お前は中身がジジーみてーだから、ジジー枠だ。ヘタこきゃシンジよりも年寄りくせー時があるからな。そんな事よりも、うるさくなるからセッちゃんには話すなって言ったろ? まったく、何で言っちまうんだよ」

 

「しょうがないじゃないですかー。昨日はチャーさんもシンさんも来るのが遅くて暇だったんですから」

 

「まぁ、いいわ。でも、それなら安心。方向性が違うなら、商売敵になりそうにないわね」

セッちゃんは大鍋で煮込んでいるモツ煮をかき混ぜ、ゆっくりと目を細めた。

 

「それは間違いねー。あっこは煮込みも薄味だったしよ、なによりも南蛮漬けを置いてねーからな。とんだ無駄足だったよ」

飲み干したグラスをカウンターに置いたチャーさんは、タバコに火をつけた。

 

「でも、その無駄足のお陰で、シンさんが運命的な出会いを果たしたんですよね。南口にある花屋の、タナベさん、でしたっけ?」

 

「何が『運命的な出会い』だ、ワタルは表現が大袈裟なんだよ。あの偽物の花を売ってる、シャックリみたいな名前がついた店の姉ちゃんの事だろ?」

 

「チャーさんって、本当にデリカシーがないわよね。何よ、偽物の花って。造花よ、造花。シンちゃん、こんな油テカテカおじさんの言う事なんか気にしなくていいのよ」

 

「ありがとう、セッちゃん。でも大丈夫、この油おじさんとは付き合いが長いから慣れてるよ。因みにチャーさん、店の名前はシャックリじゃなくて、ヒゥレイクね」

 

「ひぅれ……っく? 何だそれは? まったく、なんでまたそんな覚えにくい名前を付けるかね? 偽物でも花を売ってんだから『菊』とか『ユリ』でいいじゃねーか」

 

「乱暴ですね、そのセンス。それ、肉を売ってるから店の名前を『ハンバーグ』や『唐揚げ』にしろって言ってるのと同じ原理ですよ。ところで、シンさん、そのヒゥレイクってどういう意味なんすか?」

ワタル君はウーロンハイを掲げて、こちらを見た。

 

「意味かぁ。いや、意味は正直分からない。花の質問しかした事ないからなぁ」

 

「何だよ、シンジ! あんだけ通って貢いでんのに、店の名前の意味も知らねーのかよ!」

 

「うるさいわよ油ジジー! 変な言い方しないの! やっとシンちゃんに浮いた話が出来たっていうのに! あんたって本当、デリカシーがないわね」

蛇口の水を手につけたセッちゃんは、その水滴をチャーさんの頭へと浴びせた。

 

ヒゥレイク。

そういえば、店の名前の意味など考えた事もなかった。

あの店へ入ると緊張でいっぱいいっぱいになり、花に関する以外のやりとりをする余裕などなくなる。

事実、もう10回以上はあの店へ足を向けているが、タナベというネームプレートを付けた彼女の事は、外側から入ってくる情報を除いて何も知らない。

 

「それで、指輪は確認したんですか?」

ワタル君は、なぜか低い声を出した。

 

「うん、あったよ。ちゃんと左手の薬指に」

 

「あらやだ、あったの?」

注文したおかわりホッピーを俺の目の前に置いたセッちゃんは、口に手を当てた。

 

「何だよ、今日も行ったのかよ?」

チャーさんの細い目が、糸のようにになる。

 

「行ったけど、今日はいなかった。確認したのは昨日」

 

「おう、色男。昨日はそんな話、ひとっつもしてなかったじゃねーかよ」

 

「何か話す気にならなかったんだよ。チャーさんはもう出来上がってたし」

 

「まぁ、しかし残念だな。相手が人妻だったらよ、こればっかしはしょうがねー。おめーの短い恋も終わったってことだ」

 

「チャーさん、そう決め付けるのは早いですって。まだ分からないですよ。もしかしたらその人、趣味で指輪を左手の薬指に付けてるだけかもしれませんし、何か忘れられない思い出があるだけなのかもしれません。それに、例え旦那や子供がいたって何だっていうんですか! お互いが深く結びつき合っていたら、そんなの関係ないじゃないですか!」

 

「おぉ? おぃ、急にどうした?」

前のめりになったワタル君に、チャーさんは飲んでいたグラスを差し向けた。

 

「いや、愛っす。愛に決まった形はないって事を、言いたいだけなんです」

 

「ちょっとワタルちゃん、急に大きな声出すのやめてよ〜。おばさん、心臓が痛くなるでしょ。でも、あれね。シンちゃん、それはチャレンジね」

セッちゃんはテレビの電源を切った。

 

「うん。でも、何ていうかさ、俺もよく分からないんだよ。指輪どうこうじゃなくて、ただ会いたくて、顔が見たいだけで。だから今日も店に行った。そりゃ、付き合えたりしたら最高だよ。でも、今は顔が見れたら幸せっていうか、こんな気分は初めてで、どう対処していいのか分からない」

 

「シンちゃん、それは、恋よ、恋。惚れてるのね〜」

洗い物の手を止めたセッちゃんは、目を閉じて大きく頷いた。

 

「でもよ、そんなに好きなら、もう1歩踏み込めばいいじゃねーか。結構、通ってんだろ? だったら『お話ししませんか?』って電話番号ぐらい渡したらどうだ」

 

「ちょっとチャーさん! 何よそれ、もぉ〜昭和臭い! 今時そんな事したら通報されるわよ!」

閉じられていたセッちゃんの目がカッっと開く。

 

「バカ言ってんじゃねーよ! 好きな気持ちを伝えただけで通報されてたまっかよ! 全くよ、ワタル世代の変な奴らが訳の分からねーことばっか起こすから、好意すら伝えられねー世の中になっちまったじゃねーか! おぃ、ワタル! どうしてくれんだ!」

 

「僕に言われても困りますよ! それに、世代だけで一括りにしないでくださいよ。どの時代だっていたでしょ、変な人。でもまぁ、チャーさんの提案は悪くないかもしれませんよ。『お話ししませんか?』のセリフは変えるとしても、こういうのは案外ストレートに言った方がいい時もありますから」

 

「いや、無理だよ。電話番号なんか渡せないよ。だって、まだちゃんと話した事もないんだから」

 

「いきなりじゃないですよ。徐々にです。なので、これからは通う1回1回が勝負ですよ。何か1つでもいいですから、彼女に関しての情報を集めていくんです。何でもいいですから、とにかく会話をしてください。それで、ある程度関係が構築された状態で電話番号って流れになるんです」

 

「おい、セッちゃん、ここに恋愛の大先生がいるぞ」

 

「茶化さないでくださいよ。別に大した事は言ってないんですから。チャーさんの過ごした時代と違って、こんな事は当たり前なんですから」

 

「何が、当たり前だ! お前だって世代で一括りにしてんじゃねーか!」

 

「ちょっと、チャーさん、うるさいわよ〜。腰に響くから、大きな声はやめてって。でも、ワタルちゃんの言う様にしたら、何だか番号を渡せそうな気がするわね。シンちゃん、もうこうなったらやるしかないわよ。じゃあね、ちょっと待ってて。はい、この南蛮漬けはゲン担ぎのサービスね」

 

「どうだろう、南蛮漬けはありがたいけど、渡せるかなぁ。今、頭の中でイメージしてるんだけど、うまくいく感じがしない」

 

「男じゃねーな、シンジ。こういうのはな、ガツンといくんだよ、ガツンと。まぁ、そうは言っても、お前はガツンの反対側にいるからなー。じゃあよ、俺とワタルが一緒に行って、お前が番号を渡し易くするってのはどうだ? なんつーか、他の客が寄らねーようにしたり、他の店員に質問したりしてよ」 

 

「プッ! ちょっと〜、チャーさんみたいな油おじさんが店に顔出したら、絶対に怪しまれるわよ〜!」

 

「バカ言ってんじゃねーよ! あれ、セッちゃんに言ってなかったっけ? 俺は学生の時、演劇部だったからよ、客を装うなんて朝飯前よ!」

 

「それ、まじですか? 悪い冗談ですよね」

ワタル君がしょっぱい顔を見せた。

 

「冗談なわけあるかい。『ジュリエットは太陽だ!』なんつってね、バシッと決めたもんよ」

 

「シンさん、大丈夫です。この人が暴走しそうになったら、僕が止めますから」

 

「本当にやるの?」

俺の頭にはコントの一場面しか浮かばない。

 

「やるに決まってんだろ! よしっ、じゃあよ、シンジはワタル大先生の指示通り、しばらくは姉ちゃんともっと仲良くなっとけよ。その間に俺は演技の流れを決めとくからな。まぁ、一応念のために、実行日の前にリハーサルはするからよ、当日固くなんねーよーに心の準備をしとけよ!」

嬉しそうに俺を指差したチャーさんは、グラスに残っていた冷酒を一気に飲み干して、大きく手を叩いた。

 

***

 

既婚者

子供なし

猫1匹

グラタンが好き

読書が好き

ジェットコースターは嫌い

旦那さんの仕事が忙しい

 

アネモネ、水仙、ポピー、カメリア、スイートピー、クロッカス、ポインセチア、フリージア、ガーベラ、ピオニー、ラナンキュラス。

 

部屋に溢れる新しい花たちと引き換えに得た、タナベさんの情報。

手が震えないよう、目が泳がないよう、そして舌を噛まないように細心の注意を払って手に入れた話は、真っ白だった彼女の輪郭に少しの色を付けた。

 

サトムラ シンジです

結婚はしていません

彼女もいません

建築士です

猫は好きです

読書も好きです

ドリアが好きです

花が大好きです

 

上手く顔を見れずに伝えた自分の話。

建築士の前にあえて「2級」とは入れずに背伸びをして、他の答えも随分と彼女に寄せたものばかりが口をついた。

 

「花が大好きです」

 

俺は彼女に嘘をついた。

生花にしても造花にしても、花が大好きだなんて思った事は1度もない。

スッと伸びた鼻筋に少し垂れた目、優しく笑う彼女の姿を求めて店に通っているだけ。足を運ぶ動機は、いたって不純だ。

それでも、花は嫌いではない。

見慣れるまでに時間はかかったが、長細い部屋に咲く花は、毎日の決まり切った景色を変えてくれた。

彼女と出会ってから、晴れていても雨が降っても曇っていても、俺の生活は色と共にある。こいつらが息をしてようがしていまいが、そんなことはどうだっていい。こうして日常を照らしてくれている事実だけで十分なのだ。

 

いつかこの部屋が色彩で埋まったら、彼女に触れる事が出来るのだろうか。

それがもし叶うのならば、花を纏って生きていこう。

誰になんと思われようとも、花と共に生きていこう。

 

***

 

この1ヶ月で買ったサマーシャツは7枚、アンクルパンツは3枚。

時計も靴も新調した。

 

上は空色、下は薄い黒を選び、ワックスで髪をまとめて金木犀の香水を首につける。

後ろ姿を必死に確認する自分を見て、鏡の中の男は笑ったが、気にしない。

心がしたいように、自由にやらせる。

俺は恋をしているのだ。

 

駅ビルに辿り着き、南口のトイレの鏡で最終確認をしてからゆっくりと歩き出す。

店がある道の角を曲がる前に立ち止まり、深呼吸をして空を見上げる。

決まったルーティーンをひとつずつ踏んでいき、落ち着きを取り戻す心臓。

 

さぁ、夢の中へ行こう。

 

***

 

「あ、いらっしゃいませ! すごいタイミングですね、今ちょうどサトムラさんの話をしていたんですよ」

紺のエプロンをしたタナベさんは、隣にいたスタッフの肩を叩き、いつも通り口に手を当てて笑った。

 

「そうなんですか。悪い話じゃないことを祈ります」

 

「そんなわけないじゃないですか。いつも足を運んでくれてありがたいね、って話をしていたんです」

 

「いえいえ、すみません。こちらこそありがとうございます」

俺は一体、何に謝罪して、何に感謝をしているのだろうか。

 

「今日のシャツの色、夏らしくて素敵ですね」

 

「あ、これ、夏ですもんね。夏だなぁって思いまして」

酷い答えだ。自分が何を言っているのか分からない。

 

「あの、この前お話したアイビーは、奥ですかね?」

これ以上、訳のわからない言葉が口から漏れぬよう、話題を商品に戻した。

 

「はい。向こうのヒマワリセクションの裏です。よかったらご案内しますよ」

 

「あ、では、お願いします」

 

レジの近くにいたスタッフに声をかけたタナベさんは、こちらを向いて微笑み、クルッと背中を見せた。

 

タ タ タ

 

一定のリズムで進んで行く彼女の後ろ姿を見つめる。

1つに結んだ髪から覗く首筋。

 

心のざわつきが伝わらぬように、左手に集うヒマワリへと視線を向ける。

 

「サンセベリアなどのポットがこちらで、横にあるのが単品のリーフです。サトムラさんがおっしゃっていたアイビーは何種類かありまして、蔓の状態でご用意しています。何か特定のアイビーをお探しですか?」

 

「いや、ちょっと名前は分からないのですが、あの、色が濃くて丸みを帯びた三角みたいな、あ、こんな感じのやつです。というか、きっとこれです」

蔓がまとまっているラックの右端に、探していたアイビーが吊られていた。

 

「それは、イングリッシュアイビーですね。この濃い緑、いいですよね」

 

「はい。あ、これ、イングリッシュアイビーって言うんですね。実家に長い間あったんですけど、正式名称は知りませんでした」

 

「そうなんですか。では、このアイビーはサトムラさんにとって思い出の品なんですね」

 

「そんな大それたものではないのですが、一応そうなります」

 

 

イングリッシュアイビーなどと言う名前が全く似合わない個人経営の建築板金屋、それが俺の生まれた家だった。

事務所と生活空間の区切りが無い、昭和丸出しのスペースに置かれていたアイビー。

 

(これがあれば、ちょっとは洋風になるでしょ)

 

噴水のようにポットから溢れる生命力が、母親の自慢だった。

凝り固まった重い空気を囲むように伸びる、緑の蔓。不似合いな場所で毎日佇むその姿が、記憶にある母親と重なる。

 

 

「こちらも、お母様にですか?」

 

「え?」

 

「こちらのアイビーです。プレゼントされるんですか?」

 

「あぁ、いえ、これは自分のためです。花が増えてきたので、緑が欲しいなと思いまして」

 

「そうなんですか。あの、きっとサトムラさんのお家は、お花で溢れているんでしょうね」

 

「はい。お花というか、こちらのお店で買わせていただいた商品で溢れています」

 

「お買い上げありがとうございます。ふふっ。いえ、ごめんなさい。今、勝手にお部屋を想像したら、面白くなってしまいまして。あの、何ていうか、街でサトムラさんを見ても、絶対にお花で溢れているお部屋に住んでいるとは想像しないと思うので」

 

「ちょっと、どういうことですか! 俺、そんなに花のイメージないですかね」

 

「はい。全くないです」

 

「ストレートですね。でも、合ってますよ。ここの花が好きで揃えましたが、それ以前はペヤングの箱が溢れていましたから」

 

「ペヤング? ソース焼きそばですか?」

 

「はい。あの白い箱の」

 

「そうですか。でも、その方がイメージと合いますね」

 

「一人暮らしなもんで」

 

「ペヤングも美味しいですけど、インスタント以外も食べた方が良いですよ」

 

「そうなんですよね。たまに自炊もするのですが、好きなものばかり作ってしまうので、バランスは確実に悪いです」

 

「サトムラさんは、いつも何を作られるのですか?」

 

「割合は、ドリア8にチャーハン2です」

 

「ほぼ、炭水化物じゃないですか」

 

「はい。結局は、お米で落ち着きます」

 

「じゃあ、おかずを作ってもらえる彼女を見つけないとですね」

 

「そうですね。おかずを作ってもらうのは恐れ多いですが、そんな機会がもてたら嬉しいですね。望みは薄いと思いますが」

 

「望み、薄いですかねぇ。サトムラさんだったら素敵な彼女が出来ると思いますけどね」

 

「励ましのお言葉、感謝します。お世辞でも嬉しいです」

 

「お世辞ではないですよ。私はお世辞は言いません。サトムラさんは、素敵な方ですよ」

 

 

時間が、止まった。

 

いや、呼吸が止まった。

 

一点を見つめ、イングリッシュアイビーを両手に持った俺は、どんな表情をしていたのだろう。

 

 

(サトムラさんは、素敵な方ですよ)

 

 

あの後すこし続いた会話、そして料金の支払いに別れの挨拶。そのどれもがフワフワして、夢でも見ているようだった。

現に、今こうして駅ビルに戻り、アパートのある東口には向かわずに西口のスロープをゆっくりと降りている足に、明確な意思はない。

 

頭が記憶しているパターン。

うわのそらで、感情を上手く収められない時に足を運ぶコースをなぞる。

西口を出て30分ほど歩き、玉鈴川にかかる茜橋を越えて見えてくる高台。

 

マンションが群立し、等間隔に並ぶ街路樹や新しく固められたアスファルトが気取っていて、あまり落ち着ける場所ではないが、ここから街を見渡すと、不思議と気持ちが軽くなる。

 

居場所がなかった自分の心の拠り所。

ここ最近は、殆ど目にしなくなった風景だが、地元を離れ、こちらに移ってはじめの数年は、事あるごとにこの場所を訪れていた。

 

 

(サトムラさんは、素敵な方ですよ)

 

 

工業団地の煙突から上がる白い煙が、欲望を形にする。

かけられたフレーズが重みを増し、思考を覆い尽くす。

 

彼女の本心は、分からない。

でも、本当の気持ちなど、今は重要ではない。

これが幻だとしても、この体に纏わり付く感覚だけに溺れていたい。

 

人をここまで好きになったのは、いつ以来だろう。

その人の事ばかりを考え、一目姿を見たくて堪らなくなる。

結婚をしていようが、どんな状態に置かれていようが関係ない。

理性で物事を判断できる自信がなくなる。

 

 

母親も、こんな気持ちだったのだろうか。

 

 

真っ白な寝具。

薬品の匂い。

緑のライトが光る、長くて暗い廊下。

 

消えない光景に、擦り切れるほど繰り返し再生した言葉。

個室に移った母親は、あの時、ひどく泣いたんだ。

 

 

(ずっと内緒にしていてごめん。シンちゃんの本当のお父さんは、別にいるの)

 

 

「ごめんなさい」と声を上げ、俺の手を強く掴み泣き崩れた母親。

部屋の小さな鏡に映った17歳の俺は、涙を流していなかった。

 

夜になるまでそばにいて、暗くなってから飛び出した廊下はやけに静かで、この世のものとは思えなかった。

早足で歩いて部屋から離れても、左手に残った母親の感覚が重くて、何度もトイレで手を洗った。

 

 

死にゆく人が残した過ちの懺悔。

どんな顔をしてその話を聞いてあげればよかったのか、今でも答えが分からない。

 

あの日の病室から約1ヶ月後に母親は息をひきとり、俺は偽物になった。

父親や弟が母親の秘密を知っているのかは分からないが、彼女がいなくなった事により、俺はあの家の中で唯一の他人、つまり偽物の家族となった。

 

高校を卒業して、この街に移り18年。

その間、親戚の法事などで数えられるほどしか実家には帰っていない。

そもそも、4つ下の弟が親父の後を継ぎ、家族水入らずで生活をしているあの家に、無駄に負い目を感じた俺の居場所などはない。

 

 

高い空の中で競い合う入道雲の隙間から、顔を出す西日。

容赦なく照らす光の線が、幾つも首に刺さって痛いが、もうしばらくはここにいよう。

 

こんなに心が散らばっていては、このまま家には帰れない。

 

迫る熱を避けようと眺めた北の山には、ハッとするような緑が続いていた。

 

 

(後半へ続く)

 

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深海にあるもの

上へ登った

違う景色が見たかったから

いつもとは違う選択をした

 

服が変わり

立場が変わり

呼び名が変わった

 

笑顔の挨拶

穏やかな声

湯気が出ているコーヒー

 

窓から差し込む光は眩しい

でも

この部屋は息をしていない

 

能力と肩書きは比例しない

ここに来てそれを痛感した

 

時計が9時を指し

合図と共に曲がかかる

 

女王蜂に裸の王様

 

踊る僕らは蜜を運び

彼らはそれを平らげる

 

実力なんて関係ない

 

目立たぬように静かに踊り

流れにまかせて取り入るだけ

 

目尻に刻むシワの数は

浮かぶか沈むかの生命線

 

笑って

笑って

笑って

 

この船に残りたいのなら

目を細めて口角を上げればいい

 

差し出すか?

差し出さないか?

 

手招きをする数を増やし

目を閉じた従者が選択を迫る

 

暑くも寒くもない部屋

委ねた先に待つものは

憂いを忘れた理想郷か

 

例えそうだとしても

 

僕は捨てない

 

何かを得るために

何かを捨てはしない

 

全部まとめて取りに行く

その為にここへ来たんだ

 

日が昇っているその間

僕は透明な水になろう

 

青黒い幕が覆った後は

夜に溶け出して海に戻ろう

 

深く

より深く

 

止めた息が続く限り

ひたすら奥へと潜っていく

 

現実を断ち

時間を断ち

しがらみを絶って

内側を潜る

 

暗くて

苦しい

 

それでも構わずに進んでいく

 

時々顔を洗って眠気を覚まし

バタバタしながら意識を潜る

 

そこにあるんだ

 

もう一歩を越えた先

熱くて冷たい線の向こうに

 

心を揺さぶる宝の山が

 

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